第三十六話 盗賊娘、運命の絵から逃げない
旧訓練棟の長机には、朝から紙片と木札と書きかけの名簿が広がっていた。
ミロが拾ってきた社交界の噂。ガロが見た馬車の出入り。ダンテが聞いた護衛崩れの名前。バルドが控えた香と薬の流れ。どれもまだ細い糸で、強く引けば切れそうだった。けれど、糸は糸だ。道になりそうなものは、全部盗る。
ディアナは長机の端に座り、ミロの走り書きを読み返していた。字は汚い。情報は使える。腹立たしいくらい、ミロらしい。
「お嬢、紙の端」
「え」
「折れてる」
「字が汚いせいじゃない?」
「俺の字に罪を着せるな」
「読めるかどうかの境目を攻めるからでしょ」
ミロは肩をすくめた。雑なやり取りだった。けれど、今はその雑さがありがたかった。
ディアナは紙束を置き、薄く息を吐いた。前々世の名前を口にしたあと、何かが軽くなったわけではない。むしろ重さの形がはっきりして、抱え方を間違えたら落としそうだった。
けれど、ひとりで抱えているわけではない。リュクスは長机の向こうで腕を組み、ミロは軽口を叩きながら紙片を選り分けている。カイルは少し後ろで、窓の外とディアナの足元を交互に見ていた。ガロもダンテもバルドも、何も言わないまま、それぞれの仕事を続けている。
頼んだ。一緒に、盗って、と。言ってしまったからには、もう自分だけで抱える場所へは戻れない。
もう一度、紙片へ視線を落とす。白花施療院へ寄付している家。マルチェント家に近い家。王妃側の茶会に名を連ねる家。文字は追える。意味も分かる。けれど、同じ行を三度読んで、三度とも胸の奥で引っかかった。
呼吸が浅い。逃げたいわけではない。ただ、少しだけ外の空気が欲しかった。
「ディアナ」
リュクスが言った。
顔を上げると、父は長机の向こうからこちらを見ていた。何もかも分かっている、という顔ではない。そんな綺麗なものではなく、ただ娘の息が詰まっていることくらいは拾う男の顔だった。
「外、見てこい」
「逃げないって言ったんだけど」
「逃げ道を見に行くのと、逃げるのは違う」
「……それ、さっき聞いた気がする」
「いい言葉は何度でも使え」
盗賊団らしい言い方だった。
ディアナは少しだけ笑いそうになって、失敗した。笑うにはまだ胸が重い。でも、立てないほどではない。
カイルがすぐに壁際から離れた。
「俺も行く」
「過保護」
「今さらだ」
「否定する気ないでしょ」
「ない」
強い。
ミロが紙片をひらひら振った。
「お嬢、逃げ道確認ついでに甘いもん買ってきて」
「外壁沿いに店はない」
「王城、不便」
「王城に何を求めてるの」
「庶民への歩み寄り」
「たぶん方向が違う」
少しだけ息が戻った。
ディアナは椅子から立ち、左手を一度だけ握った。指輪は、いつもの場所にある。逃げても逃げなくても、そこにある。今のディアナを縛るもの。守るものではない。けれど、ただの鎖とも言い切れなくなっている。
旧訓練棟の外へ出ると、朝の空気は少し冷たかった。訓練庭の端では、監視役の警衛騎士が二人、こちらへ軽く頭を下げる。盗賊団の娘に頭を下げる騎士。冷静に考えるとかなり変だが、最近は変なことが多すぎて驚く場所が壊れてきた。
外壁沿いは、監視付きで歩ける範囲として許されている。石壁には蔦が絡み、ところどころ古い傷が残っていた。ジークムントが許可した範囲。逃げようとすれば、きっとすぐに止められる。けれど今日は、逃げるために歩いているのではない。
リュクスの言葉を、胸の中で転がす。逃げ道を知らないやつは、逃げないことも選べない。ずるい。父親なのに、盗賊団の頭で。盗賊団の頭なのに、父親だった。
外壁沿いの道が、東回廊の庭へ近づく。白い柱、整えられた低木、淡い花。噴水の音が薄く響いている。
ディアナは、そこで足を止めた。
低木の向こうに、ジークムントがいた。
そして、その前にリリアがいた。
声は届かない。
隣で、カイルの足音も止まった。何かを言いかけた気配はあった。けれど、カイルは言わなかった。
ジークムントとリリアは、渡り廊下の奥で向かい合っていた。警衛騎士と侍女が少し離れて控えている。密談ではない。けれど、誰にも邪魔をさせないだけの距離があった。
銀白色の髪に朝の光が触れ、淡い金の気配が差している。深い青灰色の瞳は、リリアを見ていた。リリアは胸の前で手を重ね、菫色の瞳をまっすぐジークムントへ向けている。
絵のようだった。
嫌になるほど、正しい絵だった。
リリアが何かを言った。言葉は分からない。ただ、彼女が真剣に何かを伝えているのは見えた。小さな肩が少し強張り、菫色の瞳が揺れて、それでも逃げずに立っている。
ジークムントは黙っていた。その沈黙の意味も、ディアナには分からない。やがて、リリアが深く頭を下げた。
謝っているのだろうか。何に。誰に。分からない。分からないのに、胸の奥が嫌な形に軋んだ。
次の瞬間。
ジークムントが、笑った。
それは、いつもの笑みではなかった。夜会で浮かべる穏やかな微笑でも、獲物の逃げ道を塞ぐ時の冷たい笑みでもない。音もなく、内側からこぼれたみたいな笑顔だった。整えられていない。計算されていない。ほんの一瞬だけ、王子でも悪役でもない、子供みたいに無邪気なものが目元へ出た。
胸が、強く鳴った。ディアナは、その笑顔を知らない。
知らない笑顔だった。
リリアが顔を上げた。菫色の瞳が、大きく揺れている。その揺れを見た瞬間、ディアナは分かってしまった。
リリアは、今、恋をした。
運命に引かれたからだけではない。災いの王子を怖がらなかったからだけでもない。ジークムントの本当の笑顔を見た。見てしまった。そして、その一瞬を自分の中へ落としてしまった。
綺麗だった。
入り込む隙がないほど、正しかった。
銀白色の髪の王子と、菫色の瞳の少女。朝の光。白い柱。整えられた庭。これが前世のゲームなら、きっと一枚絵になった。
音楽が鳴って、画面が光って、攻略対象者の心が動く場面として保存された。
運命。
そう思いかけて、ディアナは左手を握った。
手袋の下で、指輪の輪郭が硬く返る。逃げても逃げなくても、そこにある。ジークムントの許可なく逃げられない指輪。けれど、今ディアナを止めたのは、指輪ではなかった。
ううん。
逃げないって、決めた。
ディアナは、足を動かさなかった。
近づかない。割って入らない。目を逸らさない。
あの人がどんな選択をしても、逃げない。そう決めたのだ。
だから、今ここであの絵を壊さない。
近づいて、何かを言うことはできた。ジークムントの隣に立つことも、リリアの視線を遮ることも、きっとできた。でも、それは違う。逃げないと決めたのは、この人の選択を奪うためではない。この人を、綺麗な傷を持つ王子にしなくていい。
盗るのは、ジークムントの選択ではない。リリアの恋でもない。
誰かを誰かの隣へ置こうとする手だ。
ディアナは左手を握ったまま、ゆっくり息を吐いた。
「戻る」
声は、思ったより落ち着いていた。
カイルは短く頷く。
「分かった」
ディアナはもう一度だけ、渡り廊下を見た。リリアはまだジークムントを見ている。ジークムントは、その視線を静かに受けている。会話の内容は分からない。彼が何を思って笑ったのかも分からない。リリアが何を伝えたのかも分からない。
分からないままで、胸は痛い。
でも、分からないから逃げるのは、もうやめる。
ディアナは踵を返し、外壁沿いの道を戻った。背中に朝の光が当たる。足元の石畳には、旧訓練棟へ戻る道がまっすぐ続いていた。
あの光景は、まだ目の奥に残っている。でも、画面の外にも道はある。
ディアナは、その道を盗ると決めた。
ディアナが聞かなかった言葉は、渡り廊下に静かに落ちていた。
「申し訳ありません、ジークムント殿下」
リリアは、胸の前で重ねた手に力を込めた。
「私は、殿下の過去を、癒されるべき傷のように言ってしまいました。何も知らないまま、私に癒せるものがあるなら、などと」
ジークムントは答えなかった。
「そのことを、ディアナ様に叱られました」
リリアの指先が、胸元で強く重なる。
「殿下の過去を、そんな安っぽいものにしないでください、と」
ジークムントは、しばらく黙っていた。
「……彼女が、そう言ったのか」
リリアは、静かに頷いた。
「ディアナ様は、殿下が何を選んできたのかを見てください、とおっしゃいました。殿下は、癒されるためにいる方ではない、とも」
ジークムントは答えない。
「私は、浅かったのだと思います。怖がる代わりに理解したいと思ったことまで、間違いだったとは思いたくありません。でも、理解したいという気持ちだけで、誰かの過去を綺麗な傷のように扱ってはいけなかったのだと、思いました」
沈黙が落ちた。
「そう」
ジークムントの声は、ひどく静かだった。
「そんなことを、言ったんだね」
そのあとで、笑みがこぼれた。
表の紳士でも、裏の悪役王子でもない。整えそこねたような、あまりにも無防備な笑みだった。
リリアが顔を上げた。菫色の瞳が、大きく揺れた。その揺れを、ジークムントは静かに受けた。
「リリア嬢」
「はい」
「謝罪は受け取るよ。けれど、君が私の過去を背負う必要はない」
「……はい」
「癒そうと思わなくていい」
優しい声だった。
けれど、線があった。
「私は、誰かに癒されるためにここにいるわけではないからね」
リリアの指先が、胸元でぎゅっと重なる。
ジークムントは穏やかに続けた。
「それに、私には怒ってくれる人がいるらしい」
リリアの瞳がまた揺れた。
「怒ってくださる方、ですか」
「そう。過去を安く扱うなと怒るような、困った人が」
困った人。
その言葉は柔らかかった。からかいにも似ている。けれど、相手を転がすための甘さではない。リリアには、それが分かった。
だから余計に、胸が痛んだ。
「私は、殿下のお力にはなれないのでしょうか」
問う声は、細かった。
ジークムントは少しも迷わなかった。
「君は、君の足で立つことを考えなさい」
拒絶ではない。
けれど、選ばない言葉だった。
「王城で誰に何を言われても、誰の隣に置かれそうになっても、自分の足で立つことを考えるといい」
「……私の足で」
「そう。示された道が、本当に君のためのものかは、よく見た方がいい」
リリアはすぐには答えなかった。胸の中に生まれたばかりのものが、まだ名前を持たないまま揺れている。
でも、その感情がどれほど綺麗でも、目の前の人はそれを受け取らない。ジークムントの言葉は、優しい形をしているのに、はっきりと扉を閉じていた。
「……ありがとうございます」
リリアは、小さく言った。
「私は、まだ何も分かっていないのだと思います」
「分かっていないと知っているなら、十分だよ」
「殿下は、お優しいのですね」
「それは誤解だね」
「……そうでしょうか」
「君が、そう見ようとしているだけだよ」
リリアの唇が少しだけ震えた。
それでも、彼女は泣かなかった。
「分かりました」
まっすぐだった。
傷ついても、考えて、それでも頷く子だった。
「では、私は私の足で立てるように、考えます」
ジークムントは頷いた。
「そうするといい」
リリアはもう一度礼をした。侍女が静かに寄り添い、警衛騎士が道を開ける。背筋はまだ少し強張っていたが、足は止まらなかった。
ジークムントは、リリアの背が回廊の角に消えるまで見送っていた。
やがて、控えていたサディアスが近づく。
「殿下」
ジークムントは返事をしなかった。ただ、リリアが去った方とは別の、外壁沿いの道へ視線を向ける。
そこには、もう誰もいない。
「旧訓練棟へ行く」
「かしこまりました」
サディアスは何も聞かなかった。
旧訓練棟へ戻ると、ミロがすぐに顔を上げた。
「お嬢、早くない?」
「外壁沿いを見てきただけだから」
「何かあった?」
「……道はあった」
「答え方が盗賊」
ミロが妙な感心をした。
カイルは扉を閉め、ディアナの足元を見てから短く言う。
「止まったけど、戻った」
「報告?」
「報告」
「過保護」
「今さらだ」
そのやり取りで、少しだけ息が戻った。
ディアナは長机へ歩き、置かれていた紙片を拾う。イレーネへ向かう噂。リリアを動かそうとしているかもしれない手。ジークムントを傷ついた王子として置こうとするもの。どれもまだ、形がはっきりしない。
でも、盗るものは見えてきた。
「リリア様は、悪い方じゃない」
言うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
リュクスが片眉を上げる。
「急にどうした」
「今、思った」
「今」
「うん」
リュクスはそれ以上聞かなかった。聞かない優しさもある。父は、そういうところだけ妙にうまい。
「でも、あの方もたぶん、どこかへ置かれようとしてる」
「女神様の席か」
「たぶん」
「なら、そっちも見るか」
「見る」
ガロが紙片を一枚差し出した。
「だったら、次は王妃側の茶会だな。名簿に妙な偏りがある」
「偏り?」
「マルチェント家に近い家と、白花施療院へ寄付してる家が混じってる。偶然にしちゃ、並びが綺麗だ」
「綺麗な並びは疑え」
「盗賊団の基本だ」
そんな基本があっただろうか。
あった気もする。
ディアナは紙片を受け取り、指先で端を押さえた。
その時、旧訓練棟の扉が開いた。
ジークムントだった。
黒い騎士服に銀糸が走り、銀白色の髪に廊下の光が淡く触れている。先ほどの笑顔はもうない。いつもの、穏やかで、逃げ道を塞ぐのがうまい第一王子の顔だ。
少しだけ胸が痛んだ。
けれど、足は下がらなかった。
「外壁沿いまで出ていたそうだね」
第一声が、それだった。
リュクスの目が細くなる。カイルが一歩動きかけ、ミロが紙片を持ったまま固まる。サディアスはいない。止める人がいない。いや、ジークムントを止める人がいたためしは、あまりない。
ディアナは紙片を置き、まっすぐ立った。
「逃げてません」
「そう」
「逃げませんって言いましたから」
「そうだったね」
「ただし、逃げ道の確認はします」
「逃げないのに?」
「逃げ道を知らないと、逃げないことも選べないので」
ジークムントの目が、ほんの少し細くなった。
リュクスが何も言わずに、口元だけで笑った。たぶん、今の言葉は父から盗んだものだと気づかれた。盗賊だから仕方ない。いい言葉は盗る。
「それはいい考えだ」
「父さんの受け売りです」
「だろうね」
ジークムントは長机へ近づき、紙片の一枚へ視線を落とした。盗賊団の走り書きが王子の目にさらされる。ひどい光景だ。けれど、今のディアナには少しだけ頼もしく見えた。
「王妃側の茶会に、白花施療院への寄付筋、マルチェント家周辺の噂。……悪くない」
「リリア様のことも、見ます」
ディアナが言うと、旧訓練棟の空気が少しだけ変わった。
ジークムントは紙片から視線を上げる。
「リリア嬢を?」
「はい。イレーネ様を守るために必要なら。あと、リリア様本人が、誰かの用意した場所へ置かれそうになっているなら」
言ってから、少しだけ息を吸った。
「そこからも、盗ります」
ジークムントは黙った。
深い青灰色の瞳が、ディアナを見ている。記憶を視られているわけではない。少なくとも、触れられてはいない。けれど、見られているだけで、言葉の端を拾われている気がした。
「君は、本当に欲張りだね」
「盗賊娘なので」
「便利な言い訳だ」
「育ちが出ました」
「リュクスが喜びそうだ」
「たぶん否定しません」
リュクスは実際、否定しなかった。
むしろ少し満足そうだった。
やめてほしい。
「いいよ」
ジークムントは紙片を長机へ戻した。
「盗ってごらん。イレーネ嬢へ向かう棘も、リリア嬢を置こうとしている手も。君たちが盗れるなら、私の盤面に乗せる」
「利用する気ですね」
「もちろん」
即答だった。
やっぱり優しい人ではない。
怖い。危ない。人を使う。逃げ道を塞ぐ。笑いながらひどいことも言う。
でも、それでいい。
この人を、綺麗な傷を持つ王子にしなくていい。
「では、盗ってきます」
ディアナは言った。
「逃げないために」
ジークムントの瞳が、少しだけ静かになる。
「うん」
短い返事だった。
それ以上、何も言わない。さっきの笑顔の理由も、そのあと二人が何を話したのかも、ディアナは知らない。
それでも、知らないから逃げるのはもうやめる。
「行っておいで、ディアナ」
その声に、胸がまた痛んだ。
痛い。
でも、悪い痛みだけではなかった。
ディアナは長机の上の紙片を見下ろした。イレーネへ向かう棘。リリアを置こうとしている手。王城、教会、王妃側、社交界。誰が何を並べ、誰をどこへ立たせようとしているのか。
まだ道は細い。
けれど、盗賊団は細い道ほど得意だ。
「まずは、イレーネ様へ向かう棘を盗る」
ディアナは紙片を一枚取った。
「それから、誰かを誰かの隣へ置こうとしている手も」
リュクスの口元が、少しだけ歪む。
「獲物が増えたな」
「増えた」
「盗賊団向きだ」
「だよね」
ディアナは笑った。
まだ少し痛む胸の奥で、何かが静かに燃えている。
まずは、イレーネ様を。
そして、物語を。
運命の絵がどれほど綺麗でも、その外側から盗ってやる。
それが、逃げない盗賊娘のやり方だった。




