第三十五話 盗賊娘、逃げない道を盗る
旧訓練棟へ戻ってから、ディアナはしばらく何も言わなかった。
長机の上には、昼に残した硬いパンと、冷めた薄いスープと、ミロがどこからか増やしてきた焼き菓子が並んでいる。薬箱の横ではノアが丸くなり、黒い尾だけをゆっくり動かしていた。バルドは薬瓶の蓋を確かめ、ダンテは魔銃の部品を布で拭いている。ガロは窓際に腰を下ろし、外壁沿いを歩く警衛騎士の足音を数えていた。
いつもの旧訓練棟だ。
なのに、胸の奥だけがまだ東回廊に置き去りになっている。
リリアの菫色の瞳。傷ついた顔。自分の声。
言いすぎた。傷つけた。善意を払いのけた。けれど、撤回はできない。
そして、その理由を、ディアナはもうごまかせなかった。
「お嬢」
ミロが焼き菓子をひとつ摘まんで、皿ごと押してくる。
「甘いもん」
「今いらない」
「じゃあ後でいる」
「決定事項にしないで」
「食わないと、バルドが薬湯出すぞ」
「脅し方が的確」
バルドが否定しなかった。
怖い。
けれど、少しだけ息が戻った。こういう雑なやり取りが、今はありがたい。ありがたすぎて、逃げたくなるくらいだ。
カイルは長机の端に立ったまま、何も言わずにディアナの足元を見ていた。東回廊から戻る途中も、ジークムントと話したあとも、ずっとそうだった。顔ではなく、足を見る。逃げるか、止まるか、崩れるか。盗賊団の判断基準としては正しい。
正しいけれど、そろそろ足以外も見てほしい。
「カイル」
「何」
「足、まだ見てる?」
「見てる」
「正直」
「変な動きしたら止める」
「変な動きって何」
「分からない。けど止める」
「雑」
雑な人間が多い。
でも、止めてくれる人がいる。
そのことに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……みんな」
声を出すと、旧訓練棟の空気が変わった。
ミロが焼き菓子から手を離す。ガロの指先が窓枠を叩くのをやめる。ダンテの布が魔銃の上で止まった。バルドは薬瓶の蓋を閉め、リュクスは長机の向こうで腕を組んだまま、目だけをこちらへ向けた。
逃げ道は、すぐ後ろにある。
扉まで五歩。窓まで七歩。外壁沿いへ出るなら、警衛騎士の巡回が一度途切れる隙がある。いつもの癖で数えてしまう。
数えた上で、ディアナは足を動かさなかった。
「話したいことがある」
リュクスの眉が、ほんの少し動いた。
「殿下に聞かせる話か」
「違う」
「子爵のじいさんには」
「まだ違う」
「なら、俺たちだけだな」
それだけで、リュクスは立ち上がった。
扉の近くにいた警衛騎士へ視線を向ける。声を荒げたわけではない。ただ、その目だけで十分だった。警衛騎士は一瞬迷い、それから外へ出る。サディアスがいれば確認を取っただろうが、今は旧訓練棟の中にいない。
扉の向こうで、警衛騎士の足音が遠ざかる。
残ったのは、盗賊団アディンセルだけだった。
ディアナは左手を握った。手袋の下で、指輪の輪郭が硬く返る。逃げても逃げなくても、そこにある。
「前に、前世の話をしたでしょ」
声が、自分のものではないみたいに聞こえた。
「この世界に似たゲームを、前世で知ってたって。リリア様が中心にいて、イレーネ様が悪役令嬢として断罪される筋書きを、知ってたって」
「ああ」
リュクスが短く答える。
誰も茶化さなかった。
その沈黙が、逆に逃げ道を塞ぐ。
「まだ、言ってないことがある」
カイルの指が、椅子の背を強く掴んだ。
ミロは軽口を探した顔をした。でも、出さなかった。ガロは窓から離れ、ダンテは魔銃を布の上へ置く。バルドは薬箱を閉じた。
聞く姿勢だった。
逃がさないためではなく、受け止めるための。
だから、怖い。
「前世の前に、もう一つある」
言った瞬間、喉が詰まった。
前世、という言葉なら、まだ言えた。
ゲームを知っていた。筋書きを知っていた。未来の断片を知っていた。そこまでは、もう話した。
でも、その奥にあるものは、言葉にした瞬間、冷たい石の感触まで連れてくる。白い広間。集まった視線。罪を告げる声。自分の名前を呼ぶ声。刃の気配。
痛かったかどうかは、分かる前に終わった。
そこは、今でも思い出したくない。
「ディアナ」
カイルの声がした。
近づいてはいない。けれど、すぐ動ける場所にいる。
ディアナは息を吸った。
逃げない。
言ったのだ。
「私は、イレーネだったことがある」
旧訓練棟が、音を失った。
外の荷車の音も、警衛騎士の足音も、ノアの尾が床を撫でる音さえ遠くなる。
誰も、すぐには動かなかった。
リュクスの腕が、ゆっくり下りる。カイルの手が椅子の背から離れる。ミロの口が少し開き、けれど何も出てこない。ガロは目を細め、ダンテは一度だけ息を吐いた。バルドは薬箱の上に置いた手を、そのまま動かさなかった。
「前々世の私は、イレーネ・ブラディ・マルチェントだった」
ディアナは、そこまで言って息を吸った。
「悪役令嬢と呼ばれて、断罪されて、処刑された」
処刑。
その言葉を口にした瞬間、リュクスの目が変わった。
怒りだった。
父親の怒り。盗賊団の頭としての怒りではない。獲物を奪われた怒りでも、取引を壊された怒りでもない。
娘が殺された、と聞いた男の怒り。
「誰だ」
声が低かった。
「父さん」
「誰がやった」
「もう、その人たちはここにはいない」
「お前の中に残ってんなら、終わってねえ」
胸が詰まった。
終わったことだと思っていた。終わったことにしなければ、前へ進めないと思っていた。
でも、リュクスは終わったことにしなかった。
勝手に終わらせてくれなかった。
「……分からないことも多い。前々世と今の世界が、どこまで同じなのかも分からない。前世のゲームで見た筋書きと、私がイレーネだった時の記憶も、全部が同じとは限らない」
言葉を選びながら、ディアナは続けた。説明しすぎれば、逃げられる。筋道を並べれば、痛みから少し離れられる。
だから、逃げすぎないように、言葉を短く盗る。
「でも、私は覚えてる。悪役令嬢として断罪されたこと。誰にも届かなかったこと。最後に、ああ、これで終わるんだって思ったこと」
ミロが、ぎゅっと唇を噛んだ。
いつもなら何か言う。軽く受ける。場の空気を少しずらす。そのミロが、何も言わなかった。
それだけで、また胸が痛む。
「今のイレーネ様は、私じゃない」
そこだけは、はっきり言えた。
「あの人は、私のやり直しじゃない。私の代わりでもない。私が救われたって思うための証拠でもない」
イレーネの黒絹の髪。氷青の瞳。背筋を伸ばして立つ姿。周りを立たせるように、場を乱さずにいる強さ。
あれは、ディアナではない。
今を生きている、イレーネだ。
「だから、放っておけない」
声が震えた。
「私だったから助けたいんじゃない。私の代わりに救われてほしいんじゃない。あの人が、あの人のまま、悪役令嬢なんてものにされずに立っていてほしい」
言って、ようやく分かった。
リリアに怒った本当の根は、ここにもある。
ジークムントを、傷ついた王子という役へ戻されたくなかった。
イレーネを、悪役令嬢という役へ戻されたくなかった。
そして自分も、物語を知っている人間という場所へ逃げたくなかった。
「リリア様に怒った」
ディアナは左手を握ったまま続けた。
「ジーク様の過去を、癒されるべき傷みたいに言われて、怒った。でも、それだけじゃない。私も前世で、あの人を“推し”として見てた。イレーネ様のことも、悪役令嬢として見てた」
喉の奥が熱くなる。
「知ってると思ってた。だから守れると思ってた。でも違った。私は、物語越しに見てた。人を見てるつもりで、役を見てた」
カイルが小さく息を吸った。
ディアナはそちらを見なかった。見たら止まりそうだった。
「イレーネ様を、悪役令嬢に戻したくない」
その言葉だけは、はっきりしていた。
リリアのことも、ジークムントのことも、まだちゃんと見られていないのかもしれない。前世で知っていた筋書きに、今でも引っ張られているのかもしれない。
でも、イレーネをあの場所へ戻したくない。
それだけは、もう間違えたくなかった。
「もう嫌だ」
声が、少しだけ子供みたいになった。
「誰かが作った筋書きの上に、イレーネ様が置かれるのが嫌だ。あの人が悪役令嬢として見られて、責められて、最後にそこへ立たされる道があるなら、先に盗りたい」
言い切ったあと、息が切れた。
長く走ったあとのようだった。足は動かしていないのに、胸だけがひどく苦しい。
ノアが長机の下から出てきた。
音もなく近づいて、ディアナの足に頭を押しつける。
「……ノア」
「にゃ」
返事が軽い。
空気も読まずに、尻尾を一度だけ揺らす。
雑。
でも、助かった。
「お嬢」
ミロがようやく口を開いた。
いつもの軽さは、少しだけ戻っていた。でも、声の底は真面目だった。
「盗るもん、でかすぎない?」
「最初から国宝狙いだったし」
「そうだった。うち、最初からだいぶ駄目だった」
「今さら?」
「今さら」
ミロが笑おうとして、うまく笑えなかった。
それでも、そのやり取りで少しだけ息ができた。
ガロは窓の外へ視線を戻した。いつものように、外壁沿いの足音を拾っている。
「筋書きってのは、道みたいなもんか」
「たぶん」
「なら、足跡がある。誰かが通った跡も、誰かを通すために均した跡も」
「ガロ」
「見る。お前が盗りたい道があるなら、まず道を読む」
ダンテが魔銃の部品を戻す音を立てた。
「舞台に上げられる前に、灯りを落とせばいい」
「物騒」
「盗賊団に上品な案を求めるな」
「それはそう」
バルドは薬箱の蓋に指を置いたまま、低く言った。
「断罪だの処刑だのに向かうなら、体を壊す前に止める。お前も、イレーネ様も」
「私も?」
「当たり前だろ。今の話をした直後に自分を数に入れねえの、悪い癖だ」
痛いところを刺された。
薬より効く。嫌だ。
カイルは、ずっと黙っていた。
ディアナはそこで、ようやくカイルを見た。
カイルは怒っていなかった。泣きそうでもなかった。ただ、いつもより静かだった。静かすぎて、逆に胸が痛む。
「カイル」
「……言えなかったんだな」
短い言葉だった。
責めていない。
だから、痛かった。
「うん」
「俺たちに」
「うん」
「殿下は、少しは見てたのか」
ジークムントの記憶視。
あの人は断片を見た。ゲーム画面も、断罪台も、イレーネも、リリアも、きっと。けれど、全部ではない。ディアナが口にしていないものまで、綺麗に読めるわけではない。
「たぶん、断片だけ」
「そうか」
カイルはそれだけ言って、少しだけ視線を落とした。
「悔しいな」
「カイル」
「お前が悪いって話じゃない。言えなかったのも分かる。けど、悔しい。俺たちが近くにいたのに、お前がそこまで抱えてたの、知らなかった」
それは、責める言葉ではなかった。
自分を責める言葉だった。
ディアナは首を振る。
「私も分からなかった。どこまで言えばいいのか、何を言えば本当になるのか、ずっと分からなかった」
前世のゲームを知っている。
前々世でイレーネだった。
断罪された。
処刑された。
言葉にすればするほど、嘘みたいになる。物語みたいになる。誰かに見せるための傷みたいになる。
それが怖かった。
「でも、もう逃げたくない」
ディアナはリュクスを見る。
父の目は、まだ怒っていた。
けれど、その怒りはディアナへ向いていない。
「父さん」
リュクスは答えなかった。ただ、聞いているというように、指先で机を一度叩いた。
「イレーネ様へ向かう道を盗りたい」
言葉が、ようやく形になる。
「悪役令嬢にされる道を、先に盗る。誰が何を置いて、誰をどこへ立たせようとしているのか、見つけたい。噂も、証拠も、人の流れも、全部」
リュクスの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
笑ったのではない。
盗賊団の頭の顔になった。
「で」
低い声。
「俺たちに何をしろって?」
「一緒に盗ってほしい」
「何を」
「イレーネ様が悪役令嬢になる道」
「道は袋に入らねえぞ」
「入らないものを盗るの、最近うち得意でしょ」
「誰に似たんだか」
それを言ったら、たぶん怒られる。
ディアナは黙っておいた。
リュクスは長机に片手をついた。古い木が、ぎしりと鳴る。
「ディアナ」
「うん」
「お前が昔どこの誰だったかなんざ、今さら俺の娘じゃねえ理由にはならねえ」
胸の奥が、強く揺れた。
「悪役令嬢だろうが、前世だろうが、処刑だろうが、知るか。今ここにいるのは、俺の娘だ。盗賊団アディンセルの娘だ」
リュクスの声は荒くなかった。
だから、余計に刺さった。
「その娘が盗りたいもんがあるって言うなら、盗賊団が動かねえ理由がどこにある」
ミロが鼻をすすった。
ガロが何も聞かなかったふりをする。ダンテは魔銃の部品をわざと音を立ててはめた。バルドは薬箱を少しだけ手前へ引き寄せる。カイルは目を伏せて、それからまっすぐディアナを見た。
「ディアナ」
「うん」
「今度は言え」
「何を」
「逃げたくなった時」
「……それ、盗賊としてどうなの」
「逃げ道を探すのと、一人で消えるのは違う」
「正論」
「だから言え」
カイルの声は、静かなまま強かった。
「俺たちは止めるか、一緒に逃げるか、一緒に盗るか決める。お前だけで決めるな」
目の奥が熱くなる。
泣きたくない。
でも、たぶんもう少し泣いている。
ノアが足元で「にゃ」と鳴いた。
「ノアも言ってる」
ミロがすかさず言った。
「何て」
「お嬢、飯」
「絶対違う」
「でもたぶん合ってる」
「合ってる」
バルドが言った。
裏切りである。
ディアナは涙を拭く前に、少しだけ笑ってしまった。笑ったら、涙も一緒に落ちた。最悪だ。感情の置き場がない。
リュクスが大きく息を吐く。
「泣くか笑うか食うか、どれかにしろ」
「無茶言わないで」
「じゃあ食え」
「結局それ」
「うちの作戦会議は腹に入れてからだ」
リュクスは皿の上の焼き菓子をひとつ取り、ディアナの前へ置いた。
「で、食いながら聞け。まずイレーネ嬢に向かってる棘を洗う。社交界、教会、王城、王妃側、クリス周り。噂の出どころと、誰が誰の隣へ置かれようとしてるかだ」
ディアナが何か言いかけるより先に、リュクスは長机を指先で叩いた。
「ガロ、人と馬車の流れを見ろ。招待状がどこから回ってるかもだ。ダンテ、裏の運び屋を当たれ。護衛崩れが噛んでるなら匂いが残る。バルド、薬と香は切るな。ミロ、噂を拾え。軽いやつほど先に走る」
「了解」
「おう」
「分かった」
「任せろって、お嬢」
次々に声が返る。
速い。
盗賊団の動きは、いつも速い。泣いている暇も、重く沈む暇も、長くはくれない。獲物を決めたら、もう足が動く。
その速さに、救われる。
カイルが最後に言った。
「俺はディアナのそばにつく」
「過保護」
「今さらだ」
「否定して」
「しない」
強い。
ディアナは焼き菓子を手に取った。甘い匂いがした。噛むと、少しだけほろりと崩れる。喉はまだ詰まっている。でも、飲み込めた。
飲み込めた。
「……私」
声を出すと、少し掠れた。
「怖いよ」
リュクスは何も言わない。
盗賊団の誰も、怖がるなとは言わなかった。
「また間違えるかもしれない。イレーネ様を見てるつもりで、前の私を見てるかもしれない。リリア様を助けたいって思いながら、どこかで怖がってるかもしれない。ジーク様のことだって、まだ全然ちゃんと見られてないかもしれない」
言えば言うほど、不格好だった。
でも、たぶん、不格好なまま言うしかない。
「それでも、逃げたくない」
リュクスの目が、少しだけ細くなる。
「だから、手を貸して」
助けて、ではない。
それもたぶん、本当は言いたい。言いたいけれど、今のディアナに一番近い言葉は違った。
「一緒に、盗って」
静かだった。
旧訓練棟の古い壁も、薬箱も、魔銃も、窓の外の警衛騎士の足音も、その言葉を聞いているようだった。
リュクスが口元を歪める。
今度は、少しだけ笑っていた。
「盗賊団に頼む言葉としては、上出来だ」
ミロが頷く。
「お嬢、だいぶ物騒に育ったな」
「育てた側」
「責任重大」
「今さら」
ガロが窓の外を見る。
「巡回が戻る。話はここまでだな」
「もう?」
「盗みは長話のあとに鈍る」
「それっぽい」
「本当だ」
ダンテが魔銃を腰へ戻し、バルドが薬箱を閉める。カイルはディアナの前の皿を見て、焼き菓子が半分減っていることを確認した。そこを確認する必要はあるのか。あるのだろう。たぶん。
リュクスが最後に、ディアナの頭へ大きな手を置いた。
乱暴に撫でるのではなく、ただ置いた。
「ディアナ」
「うん」
「逃げたくなったら、道を探せ」
「逃げないって言ったんだけど」
「逃げ道を知らねえやつは、逃げないことも選べねえ」
その言葉に、息が止まる。
「道を知った上で、どっちへ行くか決めろ。お前は盗賊娘だ。道を知らずに立つな」
ずるい。
父親なのに、盗賊団の頭で。
盗賊団の頭なのに、父親だった。
「……うん」
ディアナは頷いた。
逃げ道は、まだ見えている。
でも、今はそちらへ行かない。
逃げ道を探す足で、今度は逃げないための道を盗る。
それが、盗賊娘のやり方だった。




