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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第三十四話 盗賊娘、癒しを拒む


 アディンセル子爵が旧訓練棟へ来た翌日、王城の空気は何も変わっていなかった。


 変わっていない、ように見えた。


 高い窓から入る朝の光は相変わらず白く、警衛騎士たちは決められた時間に廊下を通り、旧訓練棟の外では荷車の車輪が石畳を軋ませている。長机の上には、報告書と硬いパンと薄いスープが並んでいた。薬箱の横ではノアが黒い尾を揺らし、バルドはその尾が薬瓶に触れないよう、無言で箱を少しずらしている。


 いつも通りだ。


 でも、ディアナの中には、昨日受け取ったものが残っていた。


 盗賊団アディンセルの名前も、母の恋も、カイルがここにいる理由も。前世で知っていた筋書きには、そんなものはひとつもなかった。知っていたつもりの世界に、知らないものが山ほどあった。


 その事実が、まだ胸の奥に残っている。痛い。けれど、悪い痛みだけではなかった。足元の床板が、ほんの少しだけ広くなったような痛みだった。


「お嬢、パン」

「それ、聞いた」

「今日は半分」

「増えた」

「増やした方が食うかなって」

「盗賊団の交渉術、雑じゃない?」


 ミロは悪びれずに皿を押してくる。ディアナは少しだけ迷って、パンをひとかけ取った。硬い。けれど噛める。前よりは、噛める。


 カイルがそれを見て、何も言わずに視線を戻した。ミロは満足そうに頷く。リュクスは長机の向こうで腕を組み、何も聞かない。誰も、前世の話を掘り返さない。掘り返さないまま、そこに置いてくれている。


 ありがたい。逃げ場がないくらい、ありがたい。


「ディアナ様」


 扉の近くで、サディアスが声をかけた。


 ディアナは反射的に背筋を伸ばす。旧訓練棟にいても、この人の声を聞くと報告書と礼儀作法が同時に襲ってくる。ロザリア先生とは別方向で背筋に効く人である。


「はい」

「本日、午前の確認後、東回廊へお越しいただきたいとのことです」

「東回廊、ですか」

「リリア様より、改めてお礼を申し上げたいと」


 部屋の空気が、ほんの少し変わった。


 リリア。菫色の瞳をした、紙片を拾った時に礼を言い、西庭口の騒ぎのあと、回廊で「噂だけで決めてはいけないのだと思いました」と言った少女。


 悪い子ではない。だから、怖い。


 ディアナが返事をする前に、カイルが椅子から立ち上がった。


「一人で行かせる気ですか」

「侍女と警衛騎士がつきます。旧訓練棟側からは、あなたが同行して構いません」

「俺が?」

「殿下の指示です」


 殿下。


 その言葉で、胸の奥が少しだけ縮んだ。


 あれから、ジークムントとはほとんど話していない。旧訓練棟には来ている。報告も聞いている。指示も出している。けれど、近づきすぎない。二人きりにもならない。ディアナが逃げ道を探さなくて済む距離を、あの人は正確に置いている。


 怖がらせたね。


 その声が、まだ消えていない。


「……分かりました」


 ディアナはそう答えた。


 カイルがこちらを見る。


「ディアナ」

「行く」

「無理なら」

「呼ぶ」

「呼ばなくても変なら入る」

「変って何」

「足」

「足で判断しないで」


 カイルは答えなかった。答えないということは、判断する気だ。


 よくない。けれど、少しだけ息が戻った。


 東回廊は、旧訓練棟よりずっと王城らしい場所だった。


 白い石柱が等間隔に並び、壁には季節の花を描いた細い飾り布がかけられている。窓の外には小さな庭があり、整えられた低木の間に白い花が咲いていた。白花ではない。普通の白い花だ。それでも、白い花というだけで、今は少し身構えてしまう。


 ディアナの少し後ろにはカイルがいる。離れすぎず、近すぎず。警衛騎士が二人、さらに奥にはリリア付きの侍女が控えていた。完全な二人きりではない。けれど、言葉を交わすには十分な距離だった。


 リリアは窓際に立っていた。薄い菫色のリボンを結び、白い外出用の羽織をまとっている。王城に置かれたばかりの少女らしく、まだすべてのものに遠慮しているように見えた。けれど、その瞳だけは、前に見た時より少しだけ覚悟を持ってこちらを見ている。


「ディアナ様」


 リリアは丁寧に礼をした。


「お時間をいただいて、ありがとうございます」

「こちらこそ、お声がけいただきありがとうございます」


 ロザリア先生に感謝したい。礼は崩れなかった。声も、たぶん揺れていない。


「先日の紙片のこと、それから西庭口のことも、改めてお礼を申し上げたくて」

「私は、できることをしただけです」

「それでも、助けていただきました」


 リリアはまっすぐ言った。


 まっすぐだ。


 こういうところが、きっと人を惹きつけるのだろう。前世で知っていたヒロインは、明るくて、優しくて、迷いながらも人を信じようとする少女だった。目の前のリリアも、たぶんそうだ。


 でも、彼女と同じだと決めつけてはいけない。


 目の前にいる人を見る。


 その当たり前が、まだ胸に痛い。


「あれから、少しだけ考えました」


 リリアが言った。


「噂だけで、人を決めてはいけないのだと思いました。ディアナ様がそうおっしゃったわけではありません。でも、ディアナ様とお話しして、そう思ったのです」

「私は、何も」

「いいえ」


 リリアは小さく首を振る。


「王城へ来てから、いろいろなことを教えていただきました。どなたに近づいてはいけないか。誰の言葉を信じればいいか。何を怖がればいいか。皆さま、とても親切に」


 その言い方に、少しだけ違和感があった。


 親切。


 リリアはそう言った。けれど、王城が差し出す親切は、時々ひどく重い。どの道を歩くか、誰を見るか、誰の隣に立つか。親切な顔をして、足元に線を引く。


 ディアナは静かに聞いた。


「その中で、ジークムント殿下のお話も聞きました」


 胸の奥が、少し硬くなる。


 リリアはそれに気づかない。気づかないまま、けれど軽く扱うつもりもない声で続けた。


「古代竜の血を引いていらっしゃること。幼い頃から、災いの王子と呼ばれていたこと。誰かに、置いていかれたことがある、とも」


 カイルの気配が少し動いた。


 ディアナは動かなかった。


 置いていかれたことがある。


 ジークムントは、あの森でそう言った。それだけだった。同情を求める声ではなかった。傷を見せる声でもなかった。ただ、道具の性質を説明するような言い方だった。刃物は切れる。毒は回る。私は置いていかれたことがある。そういう種類の事実。


 かわいそう、と言えば簡単だった。


 でも、あの人はそれを欲しがっていない。


「最初は、怖い方なのだと思いました」


 リリアの声は正直だった。


「でも、西庭口で見た殿下は、ただ怖いだけの方には見えませんでした。誰より早く危ないものを止めて、人を見て、動いていらしたから」


 そこで、リリアは少しだけ言葉を探した。


「うまく言えません。でも、ただ災いと呼ばれていい方ではないと思ったのです」


 それは、正しい。


 リリアは見ようとしている。噂ではなく、自分が見たジークムントを見ようとしている。


 ディアナは、そう思おうとした。


 思おうとしたのに、胸の奥がざわつく。


「……殿下は、よく見ていらっしゃいます」


 声は出た。


「人も、場も、逃げ道も。怖いくらいに」

「はい」


 リリアは少しだけ微笑んだ。


「だから、思ってしまったのです。きっと、たくさん苦しかったのではないかと」


 息が、少し止まった。


「怖がられて、遠ざけられて、それでも誰かを守る方なら……本当は、とても優しい方なのではないかと」


 優しい。


 その言葉が、柔らかすぎて痛かった。


 ジークムントは優しい人ではない。


 少なくとも、ただ優しい人ではない。甘い声で逃げ道を塞ぐ。利用できるものは利用する。ディアナに指輪をはめた。最悪だ。


 最悪で、怖くて、危険で。


 それでも、硝子板が落ちるより先に腕が回った。


 鎖でできたのに、腕だった。


「私に何ができるかは、分かりません」


 リリアは胸の前で手を重ねた。


 やめて。


 まだ言葉にならないまま、ディアナの中で何かが軋んだ。


「でも、もし私に癒せるものがあるなら……」

「やめて」


 声が出ていた。


 リリアの瞳が揺れる。


 カイルが一歩動きかけ、止まった。侍女が息を呑む気配がする。警衛騎士も動かなかった。動けなかったのかもしれない。


 ディアナ自身も、一瞬だけ動けなかった。


 出た。


 出てしまった。


 けれど、引っ込められない。


「……やめてください」


 ディアナは言い直した。


 声はさっきより低かった。令嬢としての形を取り繕ったのに、中身は何も取り繕えていなかった。


「リリア様が、悪いことをおっしゃっているのではないと分かっています。優しいお気持ちなのも、分かります」


 リリアは何も言わない。


 菫色の瞳が、ただディアナを見ている。


 悪意なら、まだよかった。


 けれど、リリアの言葉は善意だった。


 だからこそ、怒りの行き場がなかった。


「あの人の過去を、そんな安っぽいものにしないでください」


 言った瞬間、胸の奥が焼けた。


 リリアの表情が、はっきり強張る。


 言いすぎた。


 そう思った。


 思ったのに、言葉は止まらなかった。


「あの人が傷ついていないという意味ではありません。苦しくなかったと言いたいわけでもありません。でも、ジークムント殿下は、それを誰かに癒してもらうために差し出しているわけではありません」


 置いていかれたこと。災いの王子と呼ばれたこと。悪い竜として扱われてきたこと。


 それを傷と呼ぶのは簡単だ。癒したいと言うのは、もっと簡単だ。美しい言葉だ。優しい言葉だ。


 でも。


「あの人は、戻ってきたんです」


 ディアナの声が、少し震えた。


「置いていかれた場所からも、王城の噂からも、災いの王子という呼び名からも。戻ってきて、それを武器にして、鎧にして、今も立っている人です」


 リリアが唇を震わせる。


「私は……そんなつもりでは」

「分かっています」


 分かっている。


 リリアは、怖がる代わりに見ようとした。苦しみがあるなら寄り添いたいと思った。それは、間違いではない。


 間違いではないから、余計に痛い。


「でも、癒したいと言う前に、あの人が何を選んできたのかを見てください」


 自分にも言っていた。


 前世の画面越しに、ジークムントの傷を見ていた自分にも。見ていたつもりで、見ていなかった自分にも。


「殿下は、癒されるためにいる方ではありません」


 リリアの目が、大きく揺れた。


「怖い方です。危ない方です。人を使います。逃げ道を塞ぎます。笑いながら、ひどいことも言います」


 最悪だ。


 言いながら、胸の奥が痛くなる。


「でも、だからこそ、簡単に救われる人みたいに言わないでください」


 回廊が静まり返っていた。


 庭の白い花が、風に揺れる音さえ聞こえそうだった。


 リリアは、しばらく何も言わなかった。


 ディアナも言えなかった。


 言ってしまった。


 善意を、払いのけた。


 傷ついた王子を、優しい少女が理解する。癒し、救い、その隣に選ばれる。


 あまりに綺麗で、分かりやすい。


 だから、残酷だ。


 そんなものへ、あの人を戻したくなかった。


「……申し訳、ありません」


 リリアが小さく言った。


 その声に、ディアナの胸が痛んだ。


「私は、浅いことを言いました」

「違います」

「いいえ」


 リリアは首を振った。


 菫色の瞳に涙はなかった。けれど、傷ついているのは分かった。


「私は、殿下のことをまだ何も知りません。それなのに、分かったようなことを言いました」

「リリア様」

「でも」


 リリアは、そこで一度言葉を切った。


「ディアナ様が、そこまで怒るほど、殿下を軽く扱ってほしくなかったのだということは、分かりました」


 息が止まった。


「……私は」


 言いかけて、止まる。


 見ている。


 見ていなかった。


 どちらも本当だった。


 ジークムントの過去を、前世のゲーム越しに見ていた。あの時、それを突きつけられた。


 でも今は。


 今は、あの人が怒った声も、引いた足も、怖がらせたねと言った距離も、鎖ではなく腕で引いた温度も、知っている。


 全部が混ざっている。


 綺麗に言えるわけがない。


「……すみません」


 ディアナは、ようやく頭を下げた。


「私も、言い方が強すぎました」

「いいえ」

「いいえ、ではありません。強すぎました」


 リリアが少しだけ目を瞬いた。


 ディアナは拳を握る。手袋の下で、指輪の輪郭が硬く返った。


「でも、撤回はできません」


 声は、思ったより静かだった。


「あの人の過去を、安く扱ってほしくない。それは、撤回できません」


 リリアは、ゆっくり頷いた。


「……分かりました」


 その返事が、余計に痛かった。


 怒鳴り返してくれた方が楽だったかもしれない。嫌な女ならよかった。ヒロインの顔で、運命だから選ばれるのだと笑ってくれた方が、どれほど簡単だったか。


 でも、リリアは違う。


 傷ついて、考えて、それでも頷いた。


 だからこの子も、いつか盗み出さなければならないのだと思った。


 誰かを決められた隣に立たせる、綺麗な筋書きから。


「今日は、これで失礼します」


 ディアナは礼をした。


「お呼びいただいたのに、申し訳ありません」

「こちらこそ、ありがとうございました」


 リリアの声は、まだ少し震えていた。


 ディアナは、それ以上何も言えなかった。言えば、余計なものまでこぼれそうだった。


 カイルが一歩近づく。何も聞かない。ただ、帰る道を塞がない位置に立つ。侍女はリリアのそばへ寄り、警衛騎士は視線だけを動かした。


 東回廊を出るまで、ディアナは振り返らなかった。


 振り返ったら、リリアの菫色の瞳がまだこちらを見ている気がした。


 回廊を曲がったところで、カイルが低く言った。


「ディアナ」

「言いすぎた」

「それを聞いたんじゃない」

「じゃあ何」

「足、止めるか」


 ディアナは少しだけ笑いそうになった。


 笑えなかった。


「止めない」

「なら行くぞ」

「うん」


 歩き出す。


 胸は熱い。痛い。リリアを傷つけた。ジークムントの過去を勝手に守った気になった。自分だって、前世で同じようなことをしていたくせに。


 それでも、撤回はできない。


 あの人の過去を、綺麗な傷にしてほしくなかった。


 あの人を、誰かに癒されるための役に戻したくなかった。


 ジークムントは、傷ついた王子として物語の中に戻される人ではない。


 最悪で、怖くて、危なくて。


 それでも、誰かが物語の中へ押し戻していい人ではない。


 旧訓練棟へ戻る途中、ディアナは外壁沿いの通路で足を止めた。


 カイルがすぐに気づく。


「ディアナ」

「少しだけ、ジーク様と話す」

「一人で?」

「うん」

「嫌だ」

「だよね」


 即答だった。分かっていた。分かっていたけれど、少しだけ笑いそうになった。やっぱり笑えなかった。


「でも、今は一人で話す」

「今じゃなきゃ駄目か」

「うん」

「……無理なら呼べ」

「呼ぶ」

「呼ばなくても変な音がしたら入る」

「だから変な音って何」

「分からない。けど入る」

「雑」

「雑でいい」


 そう言って、カイルは一歩引いた。納得した顔ではない。けれど、これ以上止めない顔だった。


 旧訓練棟の外壁沿いには、ジークムントがいた。


 待っていた、のだと思う。けれど、待っていたと言われたわけではない。午後の光を背に、銀白色の髪に淡い金の気配を乗せて、ただそこに立っている。近づきすぎず、遠すぎず。あれからずっと置かれている、正しい距離。


 正しいのに、少し痛い距離。


「リリア嬢と話したそうだね」


 ジークムントが言った。


「はい」


 そこで、会話が一度止まった。


 いつもなら、ここで意地の悪い言葉が落ちてきたはずだった。


 けれど、ジークムントは言わなかった。


 言わないまま、ディアナを見ている。


 その沈黙が、あれからの距離そのものみたいで、少しだけ胸が痛くなった。


「……傷つけました」


 先に言ったのは、ディアナだった。


「たぶん、リリア様を」

「そう」


 ジークムントの声は穏やかだった。

 穏やかなのに、踏み込んでこない。


「君が?」

「はい」

「……珍しいね」


 それだけ言って、ジークムントはまた言葉を切った。

 その先に続くはずだった言葉は、落ちてこなかった。


 ディアナは手袋の下の左手を握った。指輪の輪郭が、硬く返る。


「ジーク様」

「何」

「私、逃げません」


 言った。


 あまりにも普通に言えたせいで、自分でも少し驚いた。


 もっと震えると思っていた。もっと、何か大げさな言葉になると思っていた。けれど口から出たのは、それだけだった。旧訓練棟の外壁沿いで、荷車の音が遠くに聞こえる中で、盗賊娘が逃げないと言った。ただ、それだけ。


 ジークムントが、少しだけ動きを止めた。


「……何から」


 静かな声だった。


 ディアナは少し考えた。


 リリアから。運命から。前世で知っていた物語から。


 それから、自分がまた、何かを知っているふりで隠れることから。


 たくさんありすぎて、うまく言えない。


 だから、言えるところだけを盗った。


「今は、全部からです」


 ジークムントは黙っていた。


 深い青灰色の瞳が、ディアナを見ている。記憶を覗かれているわけではない。ただ、言葉の端と、足の置き方と、指先の力を見られている。


 少し前なら、それが怖かった。


 今も、少し怖い。


 でも、足は下がらなかった。


「あの時、私はジーク様を傷つけました」


 声は思ったより静かだった。


「怖がりました」

「……そうだね」

「それでも、逃げません」


 ジークムントの表情はほとんど変わらない。


 けれど、さっきまで整っていた沈黙が、ほんの少しだけ形を変えた気がした。


「君は、逃げるのが得意だろう」

「得意です」


 ディアナは即答した。


「走るのも、隠れるのも、抜け道を探すのも得意です」

「そう」

「だから、逃げないことにします」


 我ながら雑な理屈だった。


 盗賊団に育てられた弊害かもしれない。


 ジークムントはしばらくディアナを見ていた。やがて、ほんの少しだけ息を吐く。


「それは、命令ではないね」

「違います」

「取引でもない」

「違います」

「では、何かな」


 ディアナは答えに迷った。


 好きです、ではない。今ここで言うには、違う。守ります、でもない。ジークムントは守られるだけの人ではない。癒します、なんて、絶対に違う。


 だから、今はこれしかない。


「私が、そうしたいだけです」


 ジークムントの目が、少しだけ細くなった。


 笑ったわけではない。


 でも、冷たくもなかった。


「……そう」


 それだけだった。


 それだけなのに、胸の奥が少し熱くなる。


「覚えておくよ」


 出た。


 この人の、いちばん怖い言い方。


 覚えておく。


 記録する。逃がさない。あとで必ず取り出す。そういう響きがある。


 最悪だ。


 でも、今日は少しだけ、怖いだけではなかった。


「できれば、ほどほどに覚えてください」

「それは難しいね」

「難しくしないでください」

「君が言ったことだよ」


 それはそう。


 自分で言った。


 逃げません、と。


 ディアナは左手を握ったまま、小さく息を吐いた。胸はまだ痛い。リリアを傷つけたことも、あの時ジークムントを傷つけたことも、消えていない。けれど、足は下がっていない。逃げ道は見えている。それでも今は、そちらへ走らない。


「戻ります」

「うん」


 ジークムントは引き止めなかった。


 そのことに、少しだけ救われた。


 ディアナは礼をして、旧訓練棟の扉へ向かう。カイルが少し離れた場所で待っていた。こちらの足元を見て、何かを聞きかけ、やめる。


「終わったか」

「うん」

「変な音はしなかった」

「じゃあ、大丈夫」


 カイルは納得していない顔をした。けれど、それ以上は聞かなかった。


 扉を開ける前に、ディアナは一度だけ振り返りそうになった。


 振り返らなかった。


 今はまだ、振り返るより前へ進む方がいい。


 逃げません。


 それがどれほど重い言葉になるのか、まだ全部は分からない。


 でも、言った。


 逃げ道は、まだ見えている。


 けれど今日は、そちらへ足を向けなかった。


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