第三十三話 盗賊娘、母の名をたどる
昨日のことを、誰も聞かなかった。
それがありがたくて、少しだけ苦しかった。
旧訓練棟の朝は、いつも通り騒がしい。高い窓から入る白い光が傷だらけの床板を斜めに切り、長机の上には硬いパンと薄いスープ、畳まれた布、サディアスが置いていった報告用の紙束が並んでいる。昨日の小瓶を包んだ薬箱の上では、ノアが黒い丸になっていた。バルドは薬箱ごとノアを睨み、ガロは窓の外の足音を数え、ダンテは壁際で銃の手入れをしていた。ミロは食事の皿を配り、カイルは欠けた椅子の脚を直している。
いつも通りだ。だから余計に、昨日のことが部屋の隅に残っている気がした。
私の選択を、君の知る物語で決めるな。
君まで、私をそこへ戻すのか。
思い出すたび、胸の奥が重くなる。怖がってしまったことも、逃がされたことも、リリアのやわらかな言葉に刺されたことも、まだ昨日の形のまま残っている。
腕だった。
そして、自分が見ていたものだった。
どちらも、なかったことにはできない。
「お嬢、パン」
「いらない」
「半分」
「いらない」
「じゃあ四分の一」
「減らせばいいってものじゃない」
返せた。いつもの半分くらいの声で。
ミロはそれ以上押さなかった。皿だけをディアナの近くへ置いて、何も言わずに離れる。カイルもこちらを見ていた。見ているが、聞かない。リュクスも聞かない。父たちは、何があったのか分かっている。分かっているのに、誰も言葉にしない。
理由を聞かずに、近くにいる。それが少しだけ、痛いくらい温かかった。
「殿下」
やがて、リュクスが低く呼んだ。
窓際に立っていたジークムントが、視線だけを向ける。昨日から、ジークムントも近づいてこない。呼べば届く場所にはいるのに、手は伸ばさない。声も、踏み込む場所も、少しだけ慎重になっている。
それが正しい距離なのだと分かっている。分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。
「アディンセル子爵と会わせろ」
唐突だった。
ディアナは顔を上げた。
「父さん」
「こいつに話すことがある」
リュクスは、ディアナではなくジークムントを見ていた。
「母親の話だ。マデリーナの話を、そろそろしてやらなきゃならねえ」
母の名前が出た瞬間、長机の周りの空気が少しだけ変わった。ミロの手が止まる。カイルが椅子の脚から顔を上げる。ガロは窓の外を見たまま、足音を数えるのをやめた。ダンテは布で銃身を拭く手を止め、バルドは薬箱の蓋に置いていた指を離した。
全員が、知っている様子だった。
ディアナだけが知らないことを、みんながそれぞれの胸の奥に持っている。そんな空気だった。
「俺だけじゃねえ。こいつらもだ。マデリーナを知ってるのは、俺だけじゃねえからな」
ジークムントは、すぐには答えなかった。
断るための沈黙ではなかった。けれど、軽く許すための間でもなかった。視線が一度、ディアナの左手へ落ちる。手袋の下には、偽オールトの指輪がある。ジークムントがはめた輪。国外へ出られない拘束。ディアナをこの人の盤面へ繋ぎ止めているもの。
それがある限り、父たちはディアナを連れて遠くへは行けない。それでも、ほんの一瞬、部屋の空気が細く張った。もし、このまま父たちがディアナを連れて消えたら。そんなありもしない道を、誰かが指先でなぞったような沈黙だった。
そう感じたのは、ディアナの後ろめたさのせいかもしれない。昨日、ジークムントを傷つけたから。怖がったから。今も、うまく目を合わせられないから。
ジークムントの指が、窓枠に触れた。何かを押さえるように置かれた指が、ゆっくり離れる。
「いいよ」
短い返事だった。
軽く聞こえる言葉なのに、部屋の空気は少しも軽くならなかった。ジークムントはリュクスを見ている。けれど、視線の端でディアナの動く場所まで拾っているのが分かる。
「サディアス。アディンセル子爵へ使いを」
扉の外に控えていたのか、サディアスはすぐに入ってきた。相変わらず気配が薄い。必要な時だけ現れる影みたいな人である。
「承知しました」
サディアスが退出すると、旧訓練棟にまた朝の音が戻った。硬いパンを割る音。布を畳む音。ノアが薬箱の上で喉を鳴らす音。遠くで警衛騎士が交わす短い声。戻ったのに、少しだけ違う。誰も口にしないまま、アディンセル子爵という名前が長机の上に置かれた。
「お嬢」
ミロが皿を押してくる。
「せめて四分の一」
「今その流れ?」
「その流れ。偉い人に会う前に腹鳴らしたら、俺たちが全員気まずい」
「理由が弱い」
「じゃあ、マデリーナ様に夢枕で怒られる」
「急に強い」
ディアナはパンを四分の一だけ取った。硬い。昨日の気分よりは、まだ噛める。そう思ったら、少しだけ息が戻った。
その少しあと、サディアスが戻ってきた。
長机の周りの空気が、自然と静かになる。ノアが薬箱の上で耳だけを動かした。ディアナは飲み込んだパンの硬さを喉の奥に感じながら、手袋の下の左手を握る。
「アディンセル子爵より返答がありました」
ジークムントが視線を上げる。
「何と」
「本日午後、こちらへ来られるとのことです」
「こちら?」
思わず聞き返したのはディアナだった。
サディアスは淡々と頷く。
「伝言を預かっています。アディンセルの名を持つ者が、今どういう場所で、どう過ごしているのか。私には見る権利がある、と」
リュクスが、ほんの少しだけ目を細めた。
「……相変わらず、面倒な親父だな」
「父さん、知ってるの?」
「会ったことはある。気に食わねえ親父だった」
「父さんがそう言う相手、だいたい強い人じゃない?」
「強いから気に食わねえんだよ」
どんな理屈なのか。
けれど、少しだけ分かる気もした。あの庭で会った老人は、ディアナを見て「マデリーナ」と言いかけ、すぐに「違う」と訂正した。揺れたのに、崩れなかった。孫かもしれない少女を前にしても、簡単には甘くならない人だった。
アディンセルの名を持つなら、逃げずに来なさい。
そう言った人が、今度は自分で旧訓練棟へ来る。
面倒くさい。
「午後まで少し時間があります」
サディアスが言う。
「武器はこちらで預かります。拘束はしませんが、旧訓練棟内の障壁は一時的に調整します」
「盗賊団相手に、ずいぶん丁寧だな」
「念のためです」
「信用されてないねぇ」
「信用の有無ではなく、職務です」
サディアスはいつも通りだった。そのいつも通りに、少しだけ救われる。
ジークムントは窓際にいた。長机の方を見ているだけで、何も言わない。ディアナはそちらを見ないようにした。見たらまた、何かを間違える気がした。
今は違うことを考えたい。
そう思ったことを、少しだけ父に見抜かれていた気がする。
リュクスは、何も聞かなかった。ただ、低く言った。
「ディアナ」
「うん」
「母さんの話は、子爵の前でする」
「……うん」
「俺だけじゃねえ。こいつらも話す。お前が知らねえマデリーナを、俺たちは知ってる」
「うん」
声が少し小さくなった。
リュクスは、そこでようやくディアナを見る。
「怖い話じゃねえ」
「分かってる」
「嘘つけ」
「……分かってない」
「なら、それでいい」
乱暴な言い方だった。
でも、優しかった。
午後までの時間は、思ったより長くて、思ったより短かった。
旧訓練棟の中は、いつもより少しだけ片づけられた。ミロが床に散っていた布を籠へ押し込み、ガロが窓際の木箱を壁へ寄せ、ダンテが銃の部品をサディアスへ預け、バルドが薬箱に鍵をかける。ノアはその薬箱から下りる気がないらしく、黒い尾だけをゆっくり揺らしていた。カイルは欠けた椅子の脚を直し終えて、何も言わずにディアナの近くへ置く。
座れ、ということらしい。
ディアナは座らなかった。座ったら、足が重くなりそうだった。
「お嬢」
「何」
「立ってても、逃げ道は増えないよ」
「探してない」
「足が探してる」
「……見ないで」
「見てない。見える」
非常によくない。
盗賊団はこういう時、顔ではなく足を見る。手を見る。息を見る。隠せないところばかり拾ってくる。家族だからありがたい。家族だから逃げ場がない。
午後の光が傾き始めた頃、旧訓練棟の扉が叩かれた。騎士の叩き方ではなかった。遠慮はある。けれど、ためらいはない。薬箱の上で丸くなっていたノアが、耳だけを動かす。
サディアスが扉へ向かう。ジークムントは窓際から動かなかった。ただ、指先だけが椅子の背に軽く触れた。すぐに離れる。
扉が開いた。
アディンセル子爵が立っていた。
深い色の上着に、古い家の紋章。白に近い灰色の髪。まっすぐな背筋。王城の隅にある古い訓練棟の前で、少しも場違いに見えない。むしろ、この場所を見に来た人として、最初からここへ立つつもりだったように見えた。
子爵は、まず部屋の中を見た。
傷だらけの床板。古い石壁。壁際の薬箱。雑に積まれた木箱。窓枠に沈む術式。薬箱の上でこちらを見ている黒猫。扉の外に立つ警衛騎士の影。そして、長机の周りにいる盗賊団。
最後に、ディアナを見た。
「……なるほど」
低い声だった。
「ここが、今のアディンセルか」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
アディンセル。
自分の家名。母の名前。父たちが名乗ってきた盗賊団の名前。
それを、この人は旧訓練棟の床や薬箱や盗賊団の姿ごと見ている。
「殿下」
子爵はジークムントへ向き直り、静かに礼をした。
「ここへ通していただいたこと、感謝いたします」
「あなたが応接室を拒んだと聞いた」
「拒んだのではありません。順序を正しただけです」
「順序?」
「アディンセルの名を名乗る者たちを見る前に、応接室で話すことなどございません」
ジークムントの目が、少しだけ細くなる。
「では、見てどう思ったかな」
「まだ分かりません」
即答だった。
「ですが、娘の名が粗末に扱われていないことは分かりました」
リュクスが、わずかに息を止めた。
ミロが軽口を出しかけて、やめる。カイルは黙っている。ガロも、ダンテも、バルドも、それぞれの場所で子爵を見ていた。
子爵の視線が、リュクスへ向く。
「リュクス」
「呼び捨てかよ」
「君を殿と呼ぶ気はない」
「こっちも呼ばれたくねえな」
二人の間に、静かな棘が落ちた。
子爵は揺れない。
「マデリーナは、なぜ君たちにその名を使わせた」
その問いで、部屋の空気が変わった。
マデリーナ。
母の名前。
ディアナは長机の端に添えた指へ力を込めた。座っていない。立っている。立ったまま、母の名前を聞いている。
リュクスは笑わなかった。
「聞きたいか」
「聞くために来た」
「なら聞け」
リュクスは、ゆっくり息を吐いた。遠いものを見つけたように、目元だけがほんの少しやわらぐ。
「俺がマデリーナと会ったのは、パーソン王国じゃねえ。王都でもねえ。もっと東の、港町の夜市だ」
「夜市?」
思わず声が出た。
子爵の目がわずかに揺れる。知らなかったのだと、その反応で分かった。
リュクスは頷く。
「貴族の娘がいる場所じゃなかった」
「母さん、何してたの」
「迷子」
「……母さんが?」
「本人はそう言い張ってた」
ミロが小さく笑った。
「迷子って様子じゃなかったけどねぇ」
その声に、ディアナは振り向く。
「ミロもいたの?」
「いたよ。俺もガロもダンテもバルドも。カイルはいなかったけど」
「俺は後から」
カイルが短く言う。
そうだ。カイルはディアナと歳が近い。盗賊団の中ではずっと一緒にいたような気がするけれど、リュクスたちの古い旅にはいなかったのだ。
リュクスは続けた。
「夜市で、俺はマデリーナの髪飾りを盗ろうとした。小さいが、いい細工だった。売れば金になる」
「母さんから盗ろうとしたの?」
「ああ」
「最低」
「盗賊だからな」
悪びれない。最低である。
でも、父らしいといえば父らしい。いや、納得してはいけない気がする。
「で、盗れたの?」
「盗れなかった」
リュクスは少しだけ口の端を上げた。
「手首を掴まれた」
「父さんが?」
「そうだ」
ディアナは思わず目を丸くした。
リュクスの手を、見知らぬ令嬢が掴んだ。しかも盗られる前に。想像がつかないようで、少しだけつく。マデリーナなら、そういうことをしそうだと思ってしまった。
覚えている母は、柔らかく笑う人だった。でも、ただ柔らかいだけの人ではなかった気がする。
「マデリーナはこう言った」
リュクスの声が、少しだけ低くなる。
「盗むなら、相手の目を見すぎてはいけません。けれど、見なさすぎてもいけません。あなた、今、私の髪飾りしか見ていませんでしたよ」
旧訓練棟の空気が、少しだけ変わった。
アディンセル子爵は動かなかった。けれど、その目だけが静かに揺れた。自分の知らない娘の声を、今、盗賊の口から聞いている。そんな目だった。
ミロが肩を震わせる。
「初対面でそれだもんねぇ」
「頭、何て返したんだっけ」
バルドが珍しく口を挟む。
リュクスは嫌そうな顔をした。
「覚えてねえ」
「嘘だ」
「『なら、次はお前ごと盗る』って言った」
「ミロ」
「言ったね」
ガロまで静かに言った。
ダンテも、黙ったまま頷く。
父の味方がいない。
ディアナは少しだけ笑ってしまった。昨日から胸の奥に固まっていたものが、本当に少しだけ緩む。笑えたことに自分で驚いた。
リュクスは不機嫌そうに眉を寄せた。
「昔の話だ」
「父さん、最低」
「二回言うな」
「でも母さん、それで怒らなかったの?」
「笑った」
リュクスの声が、ほんの少しだけ変わった。
「笑って、こう言った。では、私もあなたの名前を盗みますね、と」
名前。
ディアナは息を止めた。
アディンセル子爵も、息を止めたように見えた。
「その時、俺たちはまだアディンセルじゃなかった。大陸を渡り歩く、名前も変える盗賊団だ。国が変われば呼び名も変える。追われる時には捨てる。そういうものだった」
「じゃあ、アディンセルは」
「マデリーナが言い出した」
リュクスはディアナを見た。
「私の名を使いなさい、と」
部屋が静かになった。
ミロも、カイルも、誰も茶化さない。
「マデリーナは、家を出た。戻れねえと思ってた。だが、死んだことにはしたくなかった。遠く離れた父親に、自分は生きていると伝えたかったんだろうな」
リュクスの声は低い。
「盗賊団アディンセル。その名がどこかの国で噂になれば、アディンセル子爵の耳にも届く。娘は生きている。元気にしている。そういう報せになると、あいつは本気で思っていた」
「……盗賊団の噂で?」
ディアナの声はかすれた。
「変わってるだろ」
「変わってる」
「そこがいいんだよ」
さらっと言った。
父さん。
今、さらっと惚気た。
ディアナは少しだけ目を伏せた。胸の奥が、さっきとは違う形で痛い。知らなかった母の話。知らなかった父の顔。知らなかった盗賊団の名前の理由。
アディンセル。
自分の家名だと思っていた。でもそれは、母が遠くの父へ送った生存報告でもあったのだ。
アディンセル子爵は、何も言わなかった。ただ、手にした杖の頭を、ゆっくりと撫でていた。その指先が、少しだけ白く見えた。
「俺たちは最初、反対したけどねぇ」
ミロが軽く言う。
「貴族の名前なんて背負ったら面倒だって」
「面倒だった?」
「面倒だったよ」
ミロは笑った。
「でも、マデリーナ様が言うと、なんかできる気がしたんだよねぇ」
「分かる」
バルドが短く言った。
「何が?」
「普通ならやらねえことを、あの人が言うと、少しだけやってみるかって気になる」
ガロが頷く。
「不思議な人だった」
ダンテも静かに言う。
「怖い人でもあった」
「母さんが?」
「笑って無茶を言う人は怖い」
それは分かる気がした。
ディアナは自分の手を見る。手袋の下の指輪。その奥に、盗賊団アディンセルの名。母が残した名前。父たちが捨てなかった名前。
自分は、知らないものばかりだ。
前世のゲームで知っていたつもりになっていた世界には、こんな話はなかった。マデリーナが夜市でリュクスの手首を掴んだことも、名前を盗むと言ったことも、盗賊団アディンセルが遠くの父へ送る報せだったことも。
知らなかった。
知らないまま、知っている顔をしていた。
また胸の奥が痛くなる。
けれど今度の痛みは、昨日とは少し違った。
「カイルは?」
ディアナは小さく聞いた。
「カイルも、母さんを知ってるんだよね」
カイルは椅子の脚から手を離した。
「知ってる」
「どうやって来たの」
「スリ」
「え」
「リュクスさんの懐を狙った」
ディアナは父を見た。
リュクスは鼻で笑う。
「下手だった」
「子どもだったんだから仕方ないだろ」
「相手を見る目がなかった」
「それは今なら分かる」
カイルは少しだけ気まずそうに目をそらした。
「手首を捕まれて、路地裏で泣く寸前まで脅された」
「父さん」
「盗賊に手を出したガキをそのまま帰せるか」
「帰す選択もある」
「ねえな」
ないらしい。
父である。
「そのあと、奥さんが来た」
カイルの声が少しだけ静かになる。
「飯を出してくれた」
それだけだった。
けれど、その短い言葉の中に、きっといろいろなものがある。空腹。怯え。行く場所のなさ。リュクスに捕まった手首。そこへ差し出された食事。
「スリ捕まえて、まず飯食わせるんだもんねぇ」
ミロが言った。
「普通は兵に突き出す」
バルドが続ける。
「うちは普通じゃなかったからな」
リュクスが低く言った。
誰も否定しなかった。
ディアナはカイルを見た。カイルはいつも通りの顔をしている。少し不機嫌で、少し面倒そうで、でも目は逸らさない。
「母さんが、迎えたの?」
「そう」
「そっか」
「だから俺は、奥さんに借りがある」
カイルはそこで言葉を切った。
それ以上は言わない。
言わなくても、少しだけ分かった。
マデリーナに拾われたから、カイルはここにいる。だからカイルは、ディアナをずっと見てきた。仲間として。家族として。たぶん、それ以外のものも隠しながら。
胸の奥がまた痛んだ。
見られていた。
自分は、本当にいろいろな人に見られていた。
それなのに、自分はちゃんと見ていただろうか。
ジークムントの方を見ることは、まだできなかった。
でも、彼が黙ってこの話を聞いていることは分かる。裁かず、割り込まず、ただそこにいる。そう見えた。
そう見えた、で止める。
決めつけない。
ディアナは長机の端に添えた指へ、もう一度力を込めた。
「死ぬ前に」
リュクスが言った。
その声で、部屋の空気が少し沈む。
「マデリーナは、俺に言った。国宝くらい盗めるようになりなさい。そうしたら、きっとあの父もあなたを認めてくれるわ、とな」
アディンセル子爵の指が、杖の頭を強く押さえた。
「冗談みてえな言い方だった。あいつは、最後までそういう女だった」
リュクスは笑わなかった。
「だから俺は、国宝を盗った。あちこちの国でな。盗って、返した。腕を磨くためだ。いつか、マデリーナの故郷で、あんたの国の国宝を盗るために」
ディアナは、息を止めた。
オールトの指輪。
物語の始まり。
自分が盗んだと思っていたもの。ジークムントに捕まり、偽の指輪をはめられ、前世の記憶が戻った夜。
そこに、母の言葉が繋がる。
知らなかった。
知らないまま、盗っていた。
「……だから、オールトの指輪を」
「ああ」
リュクスは短く答えた。
「お前に話す時期でもあった。母さんがどこから来たのか。アディンセルが何なのか。そういう話を、そろそろしなきゃならねえと思ってた」
リュクスの目が、アディンセル子爵へ向く。
「その前に捕まったけどな」
「雑だねぇ」
ミロがぼそりと言う。
「黙れ」
「だって本当だし」
「雑に捕まった覚えはねえ」
「捕まった時点で結果は一緒だよ」
リュクスが舌打ちした。
少しだけ、空気が戻った。
でも、完全には戻らない。
アディンセル子爵は、まだ何も言っていなかった。黙って、リュクスを見ている。怒っているようにも、泣きそうなようにも見えない。ただ、長い時間をかけて閉じていた箱を、無理やり開けられた人のようだった。
その時、ノアが薬箱から飛び下りた。音もなく床に降りて、黒い尾を立てて、ディアナの足元まで来る。慰めるわけでも、甘えるわけでもない。ただ、そこに座った。
雑。
猫まで雑だった。
ディアナは少しだけ笑ってしまった。笑ったら、こらえていたものが喉の奥まで上がってくる。
自分だけが受け取ってばかりいる。母の話を受け取った。名前の由来を受け取った。父たちが自分を見てくれていたことも、カイルが母に拾われたことも、全部、受け取った。
だったら。
自分も、少しだけ返さなければいけない気がした。
全部ではない。
まだ、言えないことがある。
それでも、昨日の痛みを、物語の後ろに隠したままにはできなかった。
「父さん」
声が思ったより小さく出た。
リュクスがこちらを見る。
「何だ」
ミロも、カイルも、ガロも、ダンテも、バルドも、静かにこちらを見た。アディンセル子爵も黙っている。部屋の端にいるジークムントも、何も言わない。
ディアナは手袋の指先を握った。
「私、前世で、この世界に似た物語を知ってた」
言った瞬間、喉の奥が熱くなった。
アディンセル子爵がいる。ジークムントもいる。本当なら、もっときちんと説明しなければならないのかもしれない。でも、最初に見たのはリュクスだった。
「変な話なのは分かってる。でも、知ってたの。リリア様が中心にいて、クリス様も、ジーク様も、その物語に関わってて」
言葉が少しずつこぼれていく。止め方が分からなかった。
「その中で、イレーネ様は悪役令嬢だった。最後には、断罪される人だった」
カイルが息を止めたのが分かった。
ミロも、もう何も言わない。
「だから、守れると思ってた。知ってるから、先に動けばいいって。悪い噂も、人の流れも、誰かが誰かの隣に置かれる道も、盗ってしまえばいいって」
そこまで言って、声が少し詰まった。
「でも昨日、違うって分かった」
涙は落ちなかった。落ちなかったけれど、視界が少し滲んだ。
「私も、見てた。目の前の人じゃなくて、前世で知ってた物語を。ジーク様のことも、リリア様のことも、たぶん、イレーネ様のことだって」
指先が震えた。
「それが、怖かった」
旧訓練棟は静かだった。
リュクスは、しばらく何も言わなかった。
それから、低く息を吐く。
「で?」
「……で?」
「お前が妙なものを抱えてるのは分かった」
リュクスは、まっすぐディアナを見た。
「だが、お前はお前だろ」
その一言で、耐えていたものが喉の奥まで上がってきた。
「前世だろうが、物語だろうが、知ったことか」
ミロが、いつもの軽さを少しだけ戻す。
「お嬢が変なところで突っ走る理由が増えただけだねぇ」
「増えないでほしい」
カイルが低く言った。
「けど、ディアナはディアナだ」
ガロが頷く。
「今さらだ」
バルドも、面倒そうに薬包を指で弾いた。
「前世があってもなくても、無茶するなら止める」
ダンテは何も言わなかった。ただ、黙って頷いた。
涙は落ちなかった。落ちなかったけれど、さっきよりもっと視界が滲んだ。
「……雑」
「うちはだいたい雑だ」
リュクスが言った。
ディアナは、少しだけ笑った。
笑ったら、また泣きそうになった。
だから、唇を噛んでこらえる。子どもみたいだ。十七にもなって、父たちの前で泣きそうになっている。情けない。でも、少しだけ、情けなくてもいい気がした。
そのやり取りを、アディンセル子爵は黙って見ていた。怒るでもなく、笑うでもなく。ただ、ディアナと、リュクスと、盗賊団アディンセルの顔を順番に見る。
やがて、低く口を開いた。
「信じがたい話だ」
当然だと思った。
前世。物語。悪役令嬢。王城の旧訓練棟で語るには、どれも出来の悪い冗談みたいだ。
アディンセル子爵は、ディアナから視線を外さなかった。
「だが、マデリーナの娘が、そんな顔で下手な嘘をつくとも思えない」
胸の奥が、また熱くなった。
今度は、少し違う熱だった。
「……嘘じゃない」
ディアナは小さく言った。
「うまく説明できないけど、嘘じゃない」
「だろうな」
子爵の声は、厳しかった。
けれど、冷たくはなかった。
「君の言う前世とやらを、私が信じたわけではない」
「はい」
「だが、君が恐れているものは分かった」
子爵は、杖の頭から手を離した。
「誰かに、役を決められることだ」
ディアナは息を止めた。
「アディンセルの名を持つ者が、物語などというものに黙って役を決められるな」
リュクスが、低く笑った。
「気が合うじゃねえか、子爵様」
「気が合った覚えはない」
即答だった。
少しだけ、笑いそうになった。
涙はまだ引っ込んでいない。胸もまだ痛い。ジークムントの方を見ることも、まだうまくできない。
アディンセル子爵は、しばらく黙っていた。その沈黙は、拒絶ではなかった。かといって、すぐに受け入れるものでもない。古い箱の鍵を開けられ、中にあったものをひとつずつ確かめているような沈黙だった。
「今日は、ここまでだ」
やがて、子爵はそう言った。
終わりの言葉なのに、切り捨てる響きではなかった。
「話は終わっていない。マデリーナのことも、君が知っているという物語のことも、イレーネ嬢のことも」
「……はい」
「だが、一度に聞くには多すぎる」
それは、ディアナにも分かった。胸の奥がまだ熱い。涙は落ちなかった。落とさなかった。けれど、母の名前も、前世の話も、盗賊団の声も、全部が胸の中で混ざっている。これ以上何かを入れたら、たぶんこぼれる。
アディンセル子爵は、リュクスを見た。
「リュクス」
「あ?」
「その返事は改めなさい」
「断る」
「相変わらず無礼だな」
「初対面から変わってねえよ」
リュクスは鼻で笑った。
子爵の眉がわずかに動く。怒ったのかと思った。けれど、違った。たぶん、少しだけ懐かしんだ。
「マデリーナが選んだ男だと思うと、腹立たしいほど納得できる」
「そりゃどうも」
「褒めてはいない」
「分かってるよ」
ミロが口元を押さえた。笑うな、とリュクスが目だけで睨む。ミロは笑っていない顔をした。かなり笑っている。
子爵は次に、盗賊団全員を見た。
「アディンセルを名乗るなら、私にも見せてもらう。君たちがその名をどう扱ってきたのかを」
「審査ですかねぇ」
ミロが軽く言う。
「そう受け取ってもらって構わない」
子爵は静かに返した。
軽口が、正面から受け止められた。
ミロが少しだけ目を丸くする。カイルが低く息を吐いた。ガロもダンテも黙っている。バルドは面倒そうな顔をしたが、逃げる様子ではなかった。
「ディアナ」
呼ばれて、背筋が伸びた。
「はい」
「君を、まだ孫として迎えるとは言わない」
胸の奥が、少しだけ冷えた。
けれど、子爵は続ける。
「だが、マデリーナの娘として見ないわけにもいかない」
冷えた場所に、別の熱が落ちた。
「次は、私の屋敷へ来なさい。応接室ではなく、家の中を見せよう」
「……私が、行ってもいいんですか」
「招くと言った」
逃げ道のない言い方だった。
「ただし」
子爵の視線がリュクスへ向く。
「盗むな」
「まだ何もしてねえ」
「まだ、という言葉を使うな」
リュクスが舌打ちした。
ディアナは少しだけ笑いそうになった。笑いそうになって、慌てて口元を押さえる。
その時、部屋の端にいたジークムントが、初めて小さく動いた。
ジークムントはアディンセル子爵を見る。
「日程は、こちらで調整する」
「殿下の許可が必要ですか」
「今はね」
穏やかな声だった。
けれど、そこにあるものは柔らかくない。
アディンセル子爵の視線が、ディアナの左手へ落ちた。手袋の下の偽オールトの指輪。何も説明されていないはずなのに、その輪がただの飾りではないことを、たぶんこの人はもう察している。
「……そのようですね」
子爵は短く言った。
ディアナは左手を握った。
ジークムントの方は、まだ見られなかった。
見られなかったけれど、昨日ほど怖くはなかった。怖くない、とは言い切れない。傷つけたことも、怖がってしまったことも、消えていない。
でも、さっきよりは少しだけ、息ができる。
「今日は帰ります」
子爵はそう言って、杖を持ち直した。
サディアスが扉を開ける。子爵は一歩進み、ふと足を止めた。
「ディアナ」
「はい」
「君の話を、まだ信じたわけではない」
子爵は振り返らなかった。
「だが、マデリーナの娘なら、奪われたまま黙っているな」
扉が閉まる。
その音が、旧訓練棟の中に静かに残った。
誰もすぐには話さなかった。
最初に息を吐いたのは、ミロだった。
「いやぁ……子爵様、面倒だねぇ」
「面倒な親父だって言ったろ」
リュクスが低く返す。
「でも、嫌いじゃない」
ディアナが言うと、リュクスがとても嫌そうな目をした。
「やめろ。似るな」
「まだ何も」
「その言い方がもう似てる」
今度こそ、少しだけ笑った。
笑えた。
胸はまだ痛い。昨日の声も、リリアの言葉も、ジークムントを傷つけたことも消えていない。けれど、母の名前があった。父たちの声があった。アディンセルを名乗る者たちが、ここにいた。
前世で知っていた筋書きには、こんなものはなかった。
リュクスとマデリーナは、盗みから始まった。
自分とジークムントも、盗みから始まった。
だからといって、同じ終わりになるとは限らない。
そう思えただけで、今は十分だった。




