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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第三十二話 盗賊娘、推しを怒らせる


 腕だった。


 旧訓練棟へ戻るまでの廊下で、ディアナは何度もその事実を胸の奥から追い出そうとした。温室脇の石畳。跳ねた台車。倒れかけた硝子板。黒鉄色の鎖は何ひとつ間違えなかった。車輪を止め、木箱を縛り、女官の手首を捕らえ、白い包みを弾き、硝子板まで割れる寸前で支えた。あの人は鎖で全部できた。全部できたはずなのに、最初に自分を引いたのは腕だった。


 考えるな。


 考えたら足が鈍る。足が鈍れば、次に盗るものを取り逃がす。盗賊娘として非常によくない。もっと言えば、最推しの腕の感触を胸の奥で何度も転がしている場合ではない。


 非常によくない。


 分かっているのに、腰の後ろに回った腕の強さと、耳の近くで落ちた「離れるな」が消えなかった。あとから「まだ危ない」と付け足された。取り繕われた。取り繕ったことまで分かってしまった。


 ずるい。


 ディアナは歪んだ書類箱の留め具を両手で押さえながら、旧訓練棟の作戦室へ入った。長机の上には、布で包まれた小瓶、薄紙越しに拾われた白い包み、温室の薬草記録、サディアスが回収した女官の通行札が並べられている。西庭口の後始末はまだ終わっていない。女官と下働き二人は別々に確認されている。台車と薬草箱は温室脇で封鎖。甘い香の小瓶は、バルドが二重の布と薬箱の中へ閉じ込めた。


 事件は終わっていない。


 だから、胸の中の腕は後回しだ。


「お嬢、座るか」

「座らない」

「座った方がいい足だぞ」

「足は無事」

「無事なやつは、さっきから床板の継ぎ目ばっか見ねえ」


 ミロの声は軽い。けれど、いつもの軽口より少しだけ慎重だった。カイルは壁際に立ったまま、黙ってディアナの靴の先を見ている。硝子を踏んでいないと確認したくせに、まだ納得していない顔だ。リュクスは長机の向こうで腕を組み、バルドは小瓶の包みを押さえている。ガロは扉の近く。ダンテは窓側。全員がそれぞれ別の場所を見ているのに、ディアナが少し動くと、空気の端がほんのわずかに寄る。


 家族だ。


 理由を聞かずに近くへ寄る。邪魔にならないところで待つ。逃げ道も、戻る場所も、両方見てくれる。


 それが少しだけ痛かった。


「ディアナ様」


 サディアスが書類箱を受け取る。留め具を確認し、中の帳簿写しを手早く整えた。


「中身に欠けはありません」

「よかったです」

「ただ、留め具は修理が必要です」

「……ロザリア先生に怒られる前に直します」

「それがよろしいかと」


 淡々と返されて、少しだけ息が戻った。サディアスの事務的な声は、こういう時にありがたい。余計な甘さも、余計な心配もない。必要なものだけを机に置いてくれる。


 ジークムントは窓際に立っていた。


 西庭口からここまで、彼は一度も近づきすぎなかった。歩けるかな、と聞いた時も、腕を伸ばせば届く距離で止まった。旧訓練棟に戻る廊下でも、前を歩きすぎず、隣にも並ばず、少し後ろの気配として残っていた。正しい距離だった。第一王子としても、警衛騎士団長としても、ディアナを仕事相手として扱う距離としても、たぶん正しい。


 正しいのに、落ち着かない。


 さっきは正しくなかったからだ。


「小瓶は割らせるためのものだったな」


 リュクスが低く言った。バルドが布越しに小瓶を軽く傾ける。


「中身はまだ開けてねえ。ただ、香に混ぜる類だ。薬草の匂いの中なら、濃くなるまで気づきにくい」

「白い包みは」

「石畳に叩きつけるつもりだったなら、こっちは広げるか、反応させるための粉だろうな。吸うなよ。触るなよ。俺が開けるまで誰も近づくな」

「近づかない」

「お嬢は特にだ」

「近づかないって言った」

「言っただけなら誰でもできる」


 カイルと同じことを言われた。非常に納得がいかない。


 けれど、反論する前にジークムントが机へ近づいた。部屋の空気が、ほんの少しだけ締まる。甘い香を閉じ込めた布包みよりも、この人の足音の方がよほど強い。


「女官は口を割る前に包みを割ろうとした。運ばされただけではないね」

「下働きの二人は?」

「一人は知らない顔だった。もう一人は逃げる足だった」


 ガロが短く答える。ジークムントは頷いた。


「サディアス」

「別室で分けて確認しています。逃げようとした下働きの通行札は偽造の可能性があります」

「偽造?」

「紙は王城内のものですが、押し印が浅い。古い印影をなぞったものかと」

「エリアスが見たら怒るやつだ」

「怒るでしょうね」


 思わず言ってしまってから、ディアナは口を閉じた。軽口が戻ったようで、戻っていない。自分の声が、いつもより半歩遅れて聞こえる。


 ジークムントの視線がこちらへ向いた。


「君は、よく見ていた」

「……小瓶だけです」

「小瓶を盗った。女官の足を見落とした。硝子板には反応が遅れた」

「はい」

「けれど、小瓶は盗った」


 褒めているのか、刺しているのか分からない。たぶん、両方だ。


 ディアナは背筋を伸ばした。


「次は、足も見ます」

「そう」

「硝子板も」

「そうだね」


 そこで終わるはずだった。仕事の話なら受け取れる。正しい距離。正しい温度。さっきと同じだ。


 けれどジークムントは、少しだけ間を置いた。


「ディアナは残りなさい」


 空気が止まった。


 リュクスの眉が動く。カイルが壁から背を離した。ミロの軽口が消える。ジークムントはそちらを見ない。ただ、サディアスへ視線だけを向けた。


「サディアス。小瓶と包みの確認を」

「承知しました」

「リュクス、バルドを連れていきなさい。薬の扱いは彼に任せる」

「……娘に何を聞く気だ」

「ここから先は、彼女の口から出るものだ」

「殿下」

「君たちが横から奪う話ではない」


 穏やかな声だった。けれど、拒ませる余地はない。リュクスはしばらくジークムントを睨んだあと、舌打ちを飲み込むように息を吐いた。


「ディアナ」

「大丈夫」

「まだ何も言ってねえ」

「言わなくても分かる」

「なら、分かってるな。無理なら叫べ」

「旧訓練棟が壊れる」

「壊れたら直せばいい」


 少しだけ笑いそうになった。笑えなかった。


 カイルがディアナの横を通る時、低く言った。


「無理なら呼べ」

「うん」

「呼ばなくても、変な音がしたら入る」

「変な音って何」

「殿下が怒る音」

「それは怖い」

「怖いなら呼べ」


 ジークムントは何も言わなかった。言わないまま、見ていた。


 扉が閉まる。足音が遠ざかる。作戦室には、ディアナとジークムントだけが残った。窓から入る午後の光が、長机の端を白く照らしている。外では誰かが台車の車輪を運んでいるのか、遠くに低い軋みが聞こえた。


 静かだった。


 静かすぎた。


「君は、何を怖がっている?」


 ジークムントが言った。


 ディアナは指先を握った。手袋の内側で爪が当たる。


「怖がっては、いません」

「そう」

「西庭口の件は、台車と小瓶と女官の動きが問題です。王妃宮へ運ばれる薬草の中に、甘い香を混ぜるものが紛れていました。あの通路を使う人間を考えれば、誰かをそこへ誘導するつもりだった可能性があります」

「誰か、とは」

「……菫色の瞳の少女です」


 口に出すと、胸の奥がひやりとした。


 あの少女。白い紙片を拾い、丁寧に礼を言った少女。王城の視線の中で、まだ自分がどこへ置かれようとしているのか分かっていないように見えた少女。悪い子ではない。悪い子ではないからこそ、余計に怖い。


「彼女を西庭口へ通すために、薬草台車と女官を使った可能性があります。そこで何かを吸わせる、見せる、あるいは誰かと会わせる。クリス様の反応も、周囲の視線も、偶然にしては重なりすぎています」

「続けて」

「誰かが、彼女を誰かの隣へ置こうとしているのだと思います」


 イレーネへ棘を向けるために。


 その言葉は飲み込んだ。まだ言えない。前々世のことも、断罪のことも、イレーネが悪役令嬢にされる未来も、ここでは言えない。


 ジークムントは静かに見ている。記憶を覗いているわけではない。ただ、ディアナの息の止まり方、言葉を選ぶ間、飲み込んだものの形を見ている。


 この人は、そういうところが怖い。


「誰かの隣、か」

「はい」

「クリスの隣?」

「……それも、あります」

「それだけではないね」


 声は穏やかだった。穏やかだから、逃げ道がない。


「殿下」

「何」

「今は、彼女をどう守るかと、イレーネ様へ棘が向かないようにするかが先です」

「私は、君が何を見ているのかを聞いている」

「見たものは報告しました」

「見ていないものまで、君は怖がっている」


 言葉が詰まった。


 違う、と言いたかった。違わないから言えなかった。


 怖い。あの少女が悪いからではない。彼女が現れたことで、世界の筋書きが勝手に動き始めたように見えるから怖い。クリスが一瞬視線を止めた。王城の空気が彼女を飾ろうとしている。イレーネへ棘が向かう道が見える。そして。


 そして、ジークムントが。


「君は、私を彼女に会わせたくないのかな」


 呼吸が浅くなった。


 ディアナは、ジークムントを見た。


 深い青灰色の瞳が、こちらを見ている。銀白色の髪に、窓から入る午後の光が細い金の気配を差していた。綺麗だ。こんな時に、そう思ってしまう自分が嫌になる。


「……会わせたくないわけでは、ありません」

「では、何」

「ただ、危険です」

「何が」

「彼女は、王城が置きたい場所へ置かれようとしている。イレーネ様にも、クリス様にも、殿下にも影響が出るかもしれません」

「私にも」

「はい」

「どういう影響かな」


 言えない。


 言えば、物語になる。ジークムントを隠しキャラとして、リリアをヒロインとして、イレーネを悪役令嬢として、クリスを攻略対象として並べてしまう。そんなことはしたくない。したくないのに、もう頭の中では並べている。


 最悪だ。


 守りたいと言いながら、自分がいちばん、みんなを枠へ入れている。


「ディアナ」


 ジークムントの声が低くなる。


「君は、私が彼女を選ぶと思っている?」


 胸の奥を、冷たいものが落ちた。


 違う。


 違う、と言わなければいけない。


 でも、前世の画面を知っている。隠しルートを知っている。リリアとジークムントが出会えば、運命が動くことを知っている。あの瞬間、二人の目が合っただけで世界から切り離されたように見えた。自分は外側だった。選ばれない側だった。


 だから。


「……前世のゲームでは、そうだったんです」


 言ってしまった。


 言った瞬間、部屋の温度が変わった。


 ジークムントの笑みはなかった。最初から笑っていなかったのに、それでも分かった。何かが、さらに消えた。


「ゲーム」


 声は静かだった。


 静かすぎた。


 ディアナは、自分の指先が冷えていくのを感じた。


「君の記憶の中にあった、あれか」

「……はい」

「私が彼女を選ぶ」

「それは」

「そうだった、と君は言った」

「殿下、違います。私は、殿下がそうすると決めつけたいわけでは」

「では、何をしている」


 ジークムントが一歩近づいた。


 ほんの一歩だ。けれど、作戦室の空気が足元から狭くなる。ディアナは動かなかった。動かなかったつもりだった。けれど、かかとが床板の継ぎ目を探した。逃げる時、足が最初に見る場所だ。


 ジークムントの目が、そこへ落ちた。


 拾われた。


「君は私を見ていたのではなく、君の知る筋書きを見ていたのか」

「違います」

「違わない」

「私は、ただ」

「私の選択を、君の知る物語で決めるな」


 低い声だった。


 怒鳴られてはいない。責め立てられてもいない。けれど、その一言が、胸の奥へまっすぐ落ちた。


「王国は、私に古代竜の血を見てきた。災いの王子。悪い竜。そう呼ぶための筋書きに、私を置いた」


 声は低かった。


 けれど、いつものように整いきってはいなかった。


「教会も、王妃宮も、都合のいい話を選ぶ。王も、民も、子どもの遊びさえそうだ」


 ジークムントの指が、長机の端に触れた。軽く触れただけなのに、木が小さく鳴る。


「君は、それを嫌っていたはずだ」

「……はい」

「なのに」


 そこで、声が切れた。


 ディアナは息を止めた。


「君まで、私をそこへ戻すのか」


 胸が痛くなった。


 怒られたからではない。


 傷つけたと、分かったからだ。


「違います」


 声がかすれた。


「違うんです。私は、殿下をそんなふうに見たいわけじゃありません」

「見たいわけではない、か」

「はい」

「なら、見なければいい。君の記憶の中の私ではなく、ここにいる私を」


 ジークムントがもう一歩近づこうとして、止まった。


 ディアナの足が、わずかに後ろへ下がっていた。


 逃げる時、足が最初に見る場所だ。


 ジークムントの視線が、そこへ落ちる。


 次の言葉が、出なかった。


 長机の端に触れていた指が、ゆっくり離れる。低く張っていた空気が、そこで一度切れた。


「……怖がらせたね」


 声が、さっきより少しだけ戻っていた。


 そのことが、余計に痛かった。


「今日はここまでだ」

「殿下」

「君は今、私を見ていない。私も、これ以上は間違える」

「……っ」

「サディアスを呼ぶ。今日は戻りなさい」


 命令だった。けれど、追い出されたというより、逃がされたのだと分かった。ジークムントはそれ以上詰めなかった。怒っている。間違いなく怒っている。それでも、ディアナが怖がったと分かった瞬間に、引いた。


 それがまた、痛かった。


「失礼、します」


 声がかすれなかったことだけは褒めたい。足ももつれなかった。盗賊娘として、最低限の意地は残っていた。


 扉を開けると、少し離れた廊下にカイルがいた。近くにはミロもいる。偶然を装うのが下手すぎる。リュクスの姿は見えないが、曲がり角の向こうにいる気配がした。全員、聞こえるほど近くにはいない。けれど、何かあれば走れる距離にいる。


「ディアナ」


 カイルが一歩近づく。


「大丈夫」

「大丈夫な声じゃない」

「大丈夫」

「二回言うな」


 優しい声ではない。だから、崩れずに済んだ。


「少し、外の空気を吸ってくる」

「一人で行くな」

「旧訓練棟の外壁沿いだけ」

「俺も」

「来たら、今度こそ泣くかもしれない」

「……なら、見えるところにいる」


 カイルは引いた。引いてくれた。ミロも何も言わず、軽く手を振るだけにした。ありがたい。ありがたいのに、胸の奥が苦しい。


 旧訓練棟の廊下を抜けると、外壁沿いの回廊に出る。午後の光は少し傾き、石の床に長い影を落としていた。遠くで警衛騎士の声がする。西庭口の騒ぎは、まだ王城のどこかをざわつかせているらしい。


 ディアナは深く息を吸った。


 甘い香はしない。


 それなのに、胸が重い。


 ジークムントを怒らせた。


 怖がった。


 逃がされた。


 最悪だ。最悪すぎて、どこから直せばいいのか分からない。


「……あの」


 控えめな声がした。


 ディアナは顔を上げた。回廊の先に、菫色の瞳の少女が立っていた。薄い色の外出用の羽織をまとい、付き添いの侍女を少し後ろに置いている。リリアだ。王城の視線を集める少女。何も知らないまま、たくさんの意味をかぶせられようとしている少女。


 リリアは、ディアナを見るとほっとしたように微笑んだ。


「先日の方、ですよね。紙片を拾ってくださった」

「……はい」

「ディアナ様、と伺いました。あの、お礼をきちんと言えていなかったので」

「礼を言われるほどのことではありません」


 声は丁寧に出た。ロザリア先生に感謝したい。表情筋は今、たぶんぎりぎり仕事をしている。


 リリアは胸の前で手を重ねた。菫色の瞳が、不安そうに揺れる。


「先ほど、西庭口で騒ぎがあったと聞きました。ディアナ様が関わっていらしたと」

「少し、近くにいただけです」

「お怪我はありませんか」

「ありません」

「よかった」


 本当に、ほっとした声だった。


 悪意がない。


 だから逃げ場がない。


 リリアは少し迷ったあと、声を落とした。


「ジークムント殿下が、止めてくださったのだと聞きました」

「……はい」

「皆さまは、殿下のことを怖い方だとおっしゃいます。でも、先ほど遠くからお姿を見た時……怖いだけの方には、見えませんでした」


 胸の奥に、何かが刺さった。


 リリアは気づかない。気づかないまま、やわらかく続ける。


「あの方は、ちゃんと人を見てくださる方なのですね」


 息が止まりそうになった。


 ちゃんと人を見てくださる方。


 その言葉が、さっきのジークムントの声と重なる。


 君は今、私を見ていない。


 リリアは何も知らない。


 何も知らないまま、見たものを見ようとしている。


 それなのに、ディアナは。


「……そうですね」


 声が、かろうじて出た。


「ジークムント殿下は、人をよく見ていらっしゃいます」


 言ってから、少しだけ喉が痛くなった。嘘ではない。むしろ本当だ。あの人は恐ろしいほど人を見る。見すぎる。逃げ道を塞ぐほどに見る。だからこそ、ディアナが見ていなかったことも、すぐに見抜いた。


 リリアは小さく頷いた。


「私も、噂だけで決めてはいけないのだと思いました」


 痛いところへ、まっすぐ触れられた。


 静かに。丁寧に。善意の手つきで。


 ディアナは笑った。笑えたはずだ。


「それは、とても大事なことだと思います」

「はい」


 リリアは安心したように微笑む。その笑みは、やっぱり悪い子のものではなかった。普通に優しくて、普通に不安で、普通に誰かをきちんと見ようとしている少女の顔だった。


 この少女も、いつかあの視線の中から盗み出さなければならないのかもしれない。イレーネを守るために。少女本人を、飾りにされる場所から遠ざけるために。


 けれど今のディアナには、うまく言葉が出なかった。


「引き止めてしまって、申し訳ありません」

「いいえ」

「また、お話しできたら嬉しいです」

「……はい」


 リリアが侍女とともに回廊の向こうへ歩いていく。菫色の瞳が、最後にもう一度こちらを振り返った。ディアナは礼を返した。足音が遠ざかるまで、その場を動かなかった。


 何も知らない少女の言葉が、いちばん深く刺さった。


 ジークムントに突きつけられた。


 リリアの言葉で、もう一度思い知らされた。


 ディアナは左手を握った。手袋の下で、偽オールトの指輪が硬い輪郭を返す。色は見えない。けれど、そこにある。逃げるな、とでも言うように。


 逃げたい。


 今すぐ、どこかへ逃げたい。


 でも、逃げたらまた同じことをする。物語の後ろに隠れて、知っている画面を盾にして、目の前の人を見ないまま決めつける。


 それだけは、嫌だった。


 ディアナは息を吐いた。胸はまだ痛い。ジークムントの怒った声も、リリアのやわらかな声も、どちらも消えない。


 腕だった。


 その事実に浮かれた自分もいる。


 物語だった。


 その言葉で、ジークムントを傷つけた自分もいる。


 どちらも、なかったことにはできない。


 回廊の端で、カイルがこちらを見ていた。来ない。約束通り、見えるところにいるだけだ。ミロも少し離れた柱の影で、いつもの軽さを消していた。


 ディアナは二人へ向かって歩き出した。


 目の前にいる人を見る。


 その当たり前が、今日いちばん痛かった。


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