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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第三十一話 盗賊娘、腕に捕まる


 車輪の音が近づいてくる。


 木が軋む音に、湿った土の匂いが混じった。温室の硝子は午後の光を鈍く返し、石畳の上では葉の影が揺れている。ディアナは書類箱を抱え直し、息を浅くした。薬草の匂い。土の匂い。水の匂い。その奥に、ごく薄い甘い香がある。


 昨日の西回廊で感じたものと、完全には同じではない。薬草の匂いに溶けて、輪郭がぼやけている。盗品を隠すなら、まったく違う場所ではなく、似た匂いの中へ紛れ込ませる。見つける方も、盗る方も、そこを間違えると指先が鈍る。


 台車が姿を現した。薬草を詰めた木箱が三つ、湿った布に覆われている。横には教会の女官が一人。白い頭巾を深く被り、灰色の外套を羽織っていた。後ろには下働きが二人。台車の車輪は古く、片方だけ軸が歪んでいるらしい。動くたびに、きし、と低く鳴った。


 サディアスが一歩前へ出る。


「温室の薬草記録を確認します。台車を止めてください」

「記録ですか」


 女官の声は細かった。驚いたように聞こえるのに、足は止まるのが遅い。


「王妃宮へ運ぶ薬草です。遅れますと」

「遅れない程度に確認する」


 ジークムントが静かに言った。


 その声だけで、台車を押していた下働きの肩がこわばる。女官もようやく足を止めた。ジークムントは前へ出すぎない。けれど、そこに立っているだけで、道の幅が狭くなったように見える。


 ディアナはサディアスの後ろで書類箱を抱えたまま、台車を見た。木箱、湿った布、車輪の泥。女官の袖口。見るところは多い。けれど匂いは、台車の上からではない。


 下だ。


 台車の下、車輪の軸に近い影。湿った布が垂れている、そのさらに奥。


 ディアナの指が、書類箱の角を軽く叩いた。合図というほど大げさではない。けれど、カイルなら拾う。ミロなら気づく。リュクスなら、気づいたうえで何も見ていない顔をする。


 洗濯籠を抱えた下働きの列が、少しだけ近づいた。ミロが混じっている。目は合わない。合わないまま、ミロの肩がわずかに傾いた。洗濯布が一枚、台車の近くへ落ちる。


「あっ、すみません」


 軽い声だった。軽すぎて、逆にミロらしい。


 下働きの一人がそちらへ気を取られた。女官の視線も、ほんの一瞬だけ落ちる。リュクスが庭師の顔で薬草棚の方へ移動し、カイルは台車の反対側へ回る。ガロは曲がり角の影を拾い、バルドは薬草箱の蓋へ顔を寄せた。


 道が、一瞬だけ開いた。


「サディアス様。薬草記録の控え、こちらですか」

「はい」


 サディアスが自然に受ける。事務的に見える動きで、ディアナの前に半歩分の余白を作った。


 ディアナは書類箱の蓋を持ち上げる。古い帳簿写しの紙束が見える。その紙束を指先でずらしながら、視線だけを台車の下へ落とした。


 あった。


 細い紐。車軸の内側へ結ばれた、小さな硝子瓶。透明な液体が半分ほど入っている。瓶の口には蜜蝋のようなもので封がされ、その上から薄い布が巻かれていた。布の端に、ごく小さな白い糸印がある。教会の印ではない。温室の印でもない。


 盗る。


 そう決めた瞬間、胸の奥に少しだけ呼吸が戻った。


 ディアナは書類箱を片手で抱え、もう片方の指を紙束へ滑らせた。帳簿写しの端をわざと落とす。紙が一枚、ふわりと石畳へ落ちた。


「あ、すみません」


 屈む。その動きで、台車の下へ手を入れる。紐に指が触れた。


「触らないでください」


 女官の声が、細さを失った。


 同時に、台車が動いた。押したのは下働きではない。女官の足が車輪の留め具を蹴った。歪んだ車輪が嫌な音を立て、台車が斜めに跳ねる。薬草箱のひとつが傾き、湿った布がずるりと落ちた。


 甘い香が濃くなる。


 ディアナは紐を切った。針金ではない。ただの結び目だ。盗賊娘の指なら、ほどくより切る方が早い。小瓶が指先へ落ちる。その瞬間、女官が懐から小さな白い包みを抜いた。口へ運ぶのではない。石畳へ叩きつけようとしている。


 台車がさらに跳ねた。温室脇に立てかけられていた古い硝子修理板が、支えを失って倒れ始める。大きな板ではない。けれど割れれば、細かい欠片が飛ぶ。


 避けないと、そう思った瞬間。


 景色が横へ流れた。腰に、腕の感触があった。


 気づいたときには、黒鉄色の鎖が地面から噴き上がっていた。台車の車輪に絡む。傾いた木箱を縛る。女官の手首を捕らえ、白い包みを石畳へ叩きつける前に弾き飛ばす。逃げようとした下働きの足元へ走り、壁のように立ち上がる。倒れかけた硝子板を、割れる寸前の角度でぴたりと支えた。


 背後で、短く息を吐く音がした。


 安心したように聞こえた。


 ジークムントだ。


 ジークムントの腕が、ディアナを引き寄せていた。


 息が止まる。書類箱が胸元で軋み、小瓶を握った指に力が入った。ジークムントの腕は、鎖よりずっと不器用だった。けれど強い。逃がさないのに、傷つけないぎりぎりの強さで抱き込んでいる。


 すぐ目の前を、硝子の欠片がひとつ落ちた。石畳に触れて、薄い音を立てる。


「……ありがとうございます。離してください」


 身を引こうとした。


「離れるな」


 すぐに落ちた声は、いつもよりずっと硬かった。ジークムントの腕に、ほんの少しだけ力が入る。


「……まだ、危ない」


 取り繕った。


 取り繕ったのが分かった。


 ディアナは、何も言えなかった。


「お嬢!」


 ミロが洗濯籠を放り、こちらへ駆けかける。カイルの方が早かった。けれどジークムントの腕を見て、二歩手前で止まる。伸ばしかけた手だけが、半端な位置で止まっていた。リュクスは庭師の手袋をしたまま、台車の反対側から女官を睨んでいる。


「ディアナ、持ってるか」

「持ってる」


 リュクスの声で、ディアナはようやく自分の手を思い出した。


 指の中に、小瓶がある。


 割れていない。落としてもいない。盗れた。


 それだけで、少しだけ現実へ戻った。


「バルド。小瓶、封あり。甘い香、強い」

「こっちへ寄越せ。吸うなよ」


 バルドが薬草箱を避けながら近づく。ジークムントの腕がようやく緩み、ディアナの腰から離れた。けれど背中のすぐ後ろに、まだ彼の気配が残っている。


 離れるな、と言われた。


 まだ危ない、と付け足された。


 どちらが本音だったのか、考えてはいけない。


 ディアナは小瓶をバルドへ渡した。バルドは布を二重にして受け取り、封を見た瞬間に眉を寄せる。


「薬草じゃねえな」

「香?」

「香に混ぜるものだ。少量で十分広がる。割れたら面倒だった」

「割らせる気だったんだと思う」


 女官は鎖に手首を捕らえられ、白い包みはサディアスが薄紙越しに拾っている。逃げかけた下働きは、植え込みの影から戻ったダンテに無言で押し出された。もう一人は台車の前で震えている。どちらが知っていて、どちらが運ばされただけなのかは、あとで分かる。


 今は、盗ったものを落とさない。


 ディアナは空いた手で書類箱を抱え直した。胸元がまだ熱い。ジークムントの腕が回った場所を、意識しないようにする。無理だった。


 サディアスが淡々と指示を出す。


「台車はこのまま押収します。下働き二名は別々に確認を。薬草箱は触れず、封を確認してください。温室の硝子修理板は固定を」

「承知しました」


 遠目にいた警衛騎士が駆けてくる。ジークムントが片手を上げただけで、騎士は女官側へ動いた。


 こういうところまで格好いいのは、ずるい。そう思うのに、さっきの腕が邪魔をする。


「お嬢、書類箱」

「え?」

「留め具。片方外れてる」

「中身は無事」

「お嬢は」

「無事」

「ならいいや」


 軽い言い方だった。けれど、ミロの目は笑っていない。カイルも近くに来て、ディアナの足元を見た。


「靴、硝子踏んでないか」

「踏んでない」

「動くな。確認する」


 カイルが膝を折り、石畳の欠片を横へ払う。


「足元は無事」

「だから言った」

「言うだけなら誰でもできる」


 少しだけ、いつもの調子に戻った。ほんの少しだけ。


 ジークムントは、それを見ていた。


 見ていたが、何も言わない。


 それがまた気になる。


「ディアナ」


 呼ばれて、身体が少しこわばった。


 ジークムントは、近づきすぎない距離で止まった。腕を伸ばせば届く。けれど伸ばさない距離。さっきは、伸ばしたのに。


「小瓶を盗った判断は悪くない」

「ありがとうございます」

「女官の足が残っていた」

「……次は見ます」

「そうだね」


 叱責ではない。仕事の指摘だった。だから受け取れる。実際、正しい。


 ジークムントは、それ以上言わなかった。


 いつものようなからかいはない。仕事の言葉だけ。正しい距離。正しい温度。正しいはずなのに、胸の奥が落ち着かない。


 サディアスが押収品をまとめ終える。


「殿下。女官と下働き二名は別々に確認します。台車と薬草箱はこのまま温室脇で封鎖します」

「任せる」

「ディアナ様の書類箱は」

「留め具が歪んだだけです」

「中身を確認します」

「はい」


 サディアスへ書類箱を渡す。手が空いた瞬間、腰のあたりがやけに頼りなくなった。さっきまでジークムントの腕があった場所。意識しない。意識しないと決めるほど、意識してしまう。


 ジークムントがこちらを見た。


「歩けるかな」

「歩けます」

「そう」

「……はい」


 それだけで会話が終わりそうになる。


 終わらせていい。今は事件の後始末がある。女官の取り調べ、台車の確認、小瓶の中身、白い包み、王妃宮の侍女の行方。盗るべき情報はまだある。胸の奥で腕の感触を転がしている場合ではない。


 それなのに、言葉がひとつだけ喉に引っかかった。


 どうして腕だったんですか。


 聞けるわけがない。


 聞いたら、答えが返ってくるかもしれない。返ってこないかもしれない。どちらにしても、今のディアナには扱えない。


「戻りましょう」


 ディアナはそう言った。


 丁寧に言えてしまった。


 ジークムントは、一瞬だけ目を細めた。


「そうだね」


 返ってきた声は穏やかだった。穏やかすぎるほどに。


 歩き出す前に、石畳の上で黒鉄色の鎖が音もなく引いていった。台車から、硝子板から、女官の手首から。倒れたものを支え、逃げるものを止め、落ちた欠片だけを人の足元から外していく。


 リュクスが遠くで、捕まえた下働きを警衛騎士へ押しつけている。ミロは落とした洗濯布をちゃっかり拾い、何食わぬ顔で籠へ戻していた。カイルはまだディアナの足元を気にしている。バルドは小瓶を布で包み直し、ガロは曲がり角から戻ってくる。ダンテはまた影へ溶けるように立ち位置を変えた。


 周りはもう動いている。だからディアナも、足を止めてはいられない。


 間違えなかった鎖。


 先に出た腕。


 ディアナは、さっき自分を引いた感触を思い出した。腰の後ろに回った腕。書類箱ごと抱き込む力。離れるな、と落ちた声。取り繕うまでの一拍。


 鎖でよかったはずなのに。


 腕だった。


 その事実だけが、小瓶の甘い香よりずっと強く、胸の奥に残っていた。


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