第三十話 盗賊娘、母の名を聞く
午後までに整えるものは多かった。
西庭口へ入るための書類、温室の薬草記録、王妃宮裏手の出入り帳。サディアスが紙を弾く音だけが、旧訓練棟の机に薄く響いている。
旧訓練棟の裏手で香布を確認したあと、ディアナはまた机へ戻っていた。甘い香は、昨日の西回廊で感じたものと完全に同じではない。薬草の匂いが混ざれば、分かりにくくなる。バルドは「薄めて撒くなら、台車か布だな」とだけ言い、薬瓶を閉じた。
仕事は進んでいる。なのに、いつも通りには戻らない。
ジークムントは、今日は余計なことを言わなかった。言いそうな間だけがあって、来ない。来ないなら楽なはずなのに、ディアナは書類箱の留め具を何度も確認してしまう。
「ディアナ様」
サディアスが声をかけた。
「王妃宮裏手へ入る許可を整えます。温室の薬草記録を確認する名目にしますので、この書類箱をお持ちください」
「はい」
「中身は空ではありません。古い帳簿写しと薬草記録を入れています。落とすと面倒です」
「落としません」
「足元は見てください」
「……分かっています」
返事をしながら、ディアナは書類箱の留め具に触れた。今日はやけに、言われない言葉の方が気になる。
ジークムントは、何も言わなかった。
その沈黙の方が、余計に気になる。
旧訓練棟を出る時、リュクスたちはすでに動きやすい格好に変えていた。リュクスとカイルは庭師に紛れるための上着。ミロは下働きの布を肩へ掛け、ガロは目立たない灰色の外套を羽織っている。バルドは薬草箱を持ち、ダンテは離れて動くため、先に別の扉から出るらしい。
「お嬢、書類箱重くないか」
「重くない」
「なら盗るなよ」
「盗らない」
「言うだけ言っとく」
「ミロこそ洗濯籠盗らないでよ」
「俺は布には興味ないな」
「嘘。布の下なら見るくせに」
「それは仕事」
軽口が少し戻った。ほんの少しだけ。
ミロはそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、軽く肩をすくめるだけだった。カイルは何も言わず、ディアナの持つ書類箱の角を見ている。落としそうなら受ける位置だ。顔ではなく、手を見る。そういうところがカイルらしい。
ジークムントが扉の前で立ち止まった。
「王妃宮裏手へ向かう前に、温室への寄付記録を確認する。サディアス」
「手配済みです。典礼局の控え室にあります」
「なら、先にそこへ寄る」
典礼局。
ディアナには馴染みのない響きだった。王城の中で式典や寄付、貴族家の席次や紹介状に関わる記録を扱う場所だと、ロザリア先生から聞いたことはある。聞いた瞬間、眠くなる類いの場所だ。盗賊には縁がない。縁がないはずなのに、今はその記録が西庭口へ入るための口実になる。
王城は、紙で道を作る。盗賊団は、足で道を作る。
どちらも面倒だ。
旧訓練棟から王城内の古い回廊へ移ると、空気が変わった。磨かれた白石の廊下ではなく、少し黄みを帯びた古い石。壁際には歴代の儀式画が掛かり、窓は細い。外の光は入るが、明るいというより、薄く積もっている。
ジークムントは先頭を歩く。サディアスが斜め後ろ。ディアナは書類箱を抱え、その後ろについた。リュクスたちは少し距離を置き、王城の人間に見えすぎない程度に、けれど離れすぎない程度に続いている。
その回廊の角に、老貴族が立っていた。
深い灰色の上着に、古い銀の飾り紐。派手ではない。けれど仕立ては良い。杖を持つ手は細く、背は少し曲がっている。それでも、立ち姿には妙な崩れなさがあった。王城の壁や床と同じように、長い時間そこにあったもののような静けさ。
老貴族の視線が、ジークムントを越え、サディアスを越え、ディアナで止まった。
止まった。
「……マデリーナ」
低い声が落ち、ディアナの指が書類箱の縁で止まった。
母の名前だった。
老貴族は、すぐにまばたきをした。まるで自分で漏らした名前を取り消すように、ほんのわずか眉を寄せる。
「いや。違う」
違う、と言いながら、目は離れなかった。
リュクスの足音が止まる。その止まり方で、ディアナは理解した。これはただの貴族ではない。父が、一瞬で盗賊の足を止める相手だ。
「今さら何を見てやがる、子爵様」
リュクスの声は低かった。
老貴族の視線が、今度はリュクスへ向く。驚きはない。怒りも、すぐには見えない。ただ、長い間しまい込んだものを、まだ捨てられずにいる人の目だった。
「お前は、まだその名を名乗っているのか」
「ああ。悪いか」
「悪いかどうかを、お前に聞くつもりはない」
静かな声だった。静かな分だけ、冷えていた。
サディアスが一礼する。
「アディンセル子爵」
アディンセル。
ディアナの胸の奥で、その名が遅れて響く。自分の姓。盗賊団の名。母の実家の名。今まで一つだと思っていたものが、急に別の場所からも手を伸ばしてきた。
老貴族はサディアスに短く頷き、ジークムントへ視線を移した。
「殿下。これは、どういうことでしょう」
「温室の薬草記録を確認しに行く途中だ」
「それを聞いているのではありません」
「分かっているよ」
ジークムントの声は穏やかだった。驚いていない。
ディアナは、そこに気づいてしまった。ジークムントは驚いていない。少なくとも、リュクスがこの老貴族へ反応することを、完全な偶然として見ていない。
君を見る者を、見る。
目を逸らさなかった者から。
あの時の言葉が、今になって刃の形を取った。
この人は、数に入れていた。誰かが、目を逸らさないことを。
最悪だ。
そう思ったのに、今日はそれを口に出せなかった。
老貴族が、もう一度ディアナを見る。
「その娘は」
「俺の娘だ」
リュクスが即座に言った。間がなかった。
老貴族の目が、少しだけ揺れた。
「……マデリーナの子でもある」
「今さら父親面か」
「父親でいられた覚えはない」
リュクスの眉間に、深いしわが寄る。
ディアナは、息をするのを忘れそうになった。
母の父。祖父。
言葉にすれば簡単なのに、すぐには受け取れなかった。ディアナにとって母は、盗賊団の中で語られる人だった。リュクスの目を少しだけ柔らかくする人。父たちがふいに黙る人。名前を呼ぶと、空気の向きが変わるような人。
その人に、父がいた。
当たり前だ。当たり前なのに、足元が一段ずれたような気がした。
老貴族は、ディアナへ近づかなかった。距離を保ったまま、杖の頭に指を重ねる。
「名は」
「……ディアナ・アディンセルです」
「誰が、その名を」
「母と、父が」
答えてから、正確には知らないと思った。ディアナが物心ついた時には、もう自分はアディンセルだった。盗賊団もアディンセルだった。そういうものだと思っていた。
老貴族の表情が、わずかに硬くなる。
「盗賊団の名にもしていると聞いた」
「はい」
「マデリーナは」
そこで言葉が止まる。
老貴族は、続きを言わなかった。言えなかったのか、言わないことを選んだのかは分からない。リュクスが鼻で笑う。
「言いたいことがあるなら言えよ」
「ここでする話ではない」
「都合のいいことで」
老貴族は返さなかった。返さないことを選んだ顔だった。
落ち着いているからこそ、リュクスへの感情が古く深いものだと分かる。怒鳴るには遅すぎて、許すにはまだ早い。
老貴族はディアナを見た。
「ディアナ」
「はい」
「君とは、いずれ話をしなければならない」
優しい誘いではなかった。けれど、拒絶でもない。
ただ、目を逸らさない。
そのことだけが、妙に重かった。
「……はい」
ディアナは頷いた。それ以外に返せる言葉がなかった。
ジークムントが静かに言う。
「子爵。彼女は今、私の仕事に関わっている」
「借り物の扱いが荒いと聞いておりますが、殿下」
「否定はしない」
いつもなら、してください、と返せた。
返せなかった。
言葉の形だけ胸の奥に浮かんで、そのまま沈む。ディアナは書類箱の角を握った。ジークムントの目が、ほんの少しだけ動いた気配がした。
拾われた。
たぶん、今の沈黙も。
「今は急いでいる」
ジークムントは続けた。
「話は後ほど」
「殿下の後ほどは、信用してよろしいのですか」
「必要なら、君が信用できる形にするよ」
「では、書面で」
「サディアス」
「手配します」
サディアスが静かに答える。老貴族はそのやり取りを見て、ようやく一歩だけ引いた。道を空ける。けれど視線はまだディアナから離れない。
「ディアナ・アディンセル」
呼ばれた。
母の父に。
「アディンセルの名を持つなら、逃げずに来なさい」
逃げずに。
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。
ディアナはまだ、何も答えられなかった。頷くことも、断ることもできない。ただ、書類箱を抱えたまま立っていた。
リュクスが低く言う。
「勝手に決めんな」
「決めてはいない。来るかどうかは、その子が決める」
「今さらまともなことを言いやがる」
「今さらでも、言わねばならん時がある」
老貴族はそれだけ言って、回廊の端へ下がった。
ディアナたちは、再び歩き出した。
足元の石は変わらないのに、道が増えた気がした。明るい道ではない。優しい道でもない。けれど、確かに一本、知らない方角へ伸びている。
母の名前。
アディンセル子爵。
いずれ話をしなければならない。
逃げずに来なさい。
逃げる話ばかりだ。
盗賊娘なのに。
西庭口へ向かう途中、リュクスたちは予定通り散った。リュクスとカイルは庭師側へ、ミロは下働きの方へ。ガロは曲がり角を拾い、バルドは薬草箱の検分へ向かう。ダンテは離れた植え込みの影に消えた。
ディアナはサディアスの後ろについて、王妃宮裏手の通路へ入る。
ジークムントは少し前を歩いている。さっきから、こちらを見ない。見ないようにしているのか、見る必要がないのかは分からない。見られたくないのに、見られないと落ち着かない。
面倒くさい。
王妃宮の角を曲がったところで、薄い灰青の裾が見えた。
リリアだった。
菫色の瞳がこちらに気づき、控えめに伏せられる。
「あの……先日は、ありがとうございました」
「いいえ」
それだけだった。侍女が「リリア様」と呼び、リリアはもう一度だけ会釈して王妃宮の奥へ戻っていく。
悪い子ではない。それは、もう分かっている。
だから困る。
「ディアナ様」
サディアスが静かに呼んだ。
「西庭口へ」
「はい」
歩き出す。
回廊の先で、ジークムントがこちらを見ていた。ほんの一瞬だけ視線が合う。深い青灰色の瞳は、リリアの消えた方ではなく、ディアナを見ていた。
何かを聞くような目だった。
ディアナは少しだけ視線を落とした。
今は、言えない。
ジークムントは何も言わなかった。代わりに、前へ向き直る。
西庭口へ出ると、空気が変わった。
王妃宮の裏手から温室へ続く石畳は、表の回廊ほど磨かれていない。古い雨染みが残り、壁際には薬草を積んだ木箱と、洗濯物を入れた籠が置かれている。温室の硝子は白い午後の光を鈍く返し、その向こうで葉の影が揺れていた。
甘い薬草の匂い。湿った土の匂い。その奥に、ごく薄く、別の香が混じる。
ディアナは息を浅くした。
ジークムントの声が、低く落ちる。
「配置へ」
サディアスが頷く。
「承知しました」
庭師の列に、リュクスとカイルが紛れている。洗濯物の籠を抱えた下働きの群れの中に、ミロの肩が見えた。ガロは曲がり角。バルドは薬草箱。ダンテは離れた植え込みの影。
盗賊団が、王城の静かな裏手に散る。
ディアナは書類箱を抱え、サディアスの後ろへついた。
遠くで、車輪の音がした。木が軋む音。薬草が揺れる音。下働きの足音。西庭口の向こうから、台車がゆっくり近づいてくる。
薄い甘い香が、少しだけ濃くなった。
ディアナは書類箱の角を握り直した。
次に盗るものは、もう来ている。




