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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第二十九話 盗賊娘、いつも通りに戻れない


 いつも通りに戻るのは、盗んだ財布を持ち主の懐へ戻すより難しい。


 盗むだけなら、隙を見ればいい。抜けばいい。走ればいい。けれど戻すとなると、重みも角度も膨らみも、元と同じにしなければならない。ディアナは今、その少しが分からなくなっていた。


 旧訓練棟の朝は、いつもと同じだった。高い窓から白い光が入り、傷だらけの床板を斜めに照らしている。机の上には見取り図と紙片と香布の欠片。薬草と紙と埃の匂い。扉の外には騎士の影。父たちはもう集まっていて、それぞれの手元で昨日盗ってきたものを整理している。


 いつも通りだ。だから、自分もいつも通りでいればいい。


「王妃宮の侍女二人は、昨日の午後から控室に戻ってねえ」


 ミロが、使用人区画から拾った噂を書きつけた紙を机へ滑らせた。


「戻ってない?」

「正確には、一人は戻った。もう一人は王妃宮の奥へ入ったきり。お嬢が見た、視線伏せるのが早かった方」

「……よく見てるね」

「お嬢ほどじゃないけどな」


 いつもなら、そこで何か返せた。負けたくないからやめて、とか、見てほしくないところまで見るな、とか。でも出てきたのは、半端な息だけだった。


 ミロが、ほんの少しだけ眉を動かす。笑わない。茶化さない。そういうところが、今は少し痛い。


 カイルが西回廊の護衛表を広げた。


「昨日の時間だけ、警衛騎士団側の扉に近い見張りが薄くなってる」

「ジーク様の管理区画なのに?」

「だから薄い。殿下がいる場所の近くなら、普通の騎士は寄りすぎない。誰かがそこを使ったんだろ」

「……なるほど」


 言葉は返した。頭も動いている。王妃宮の侍女。教会の女官。西回廊。小礼拝堂。警衛騎士団の管理区画に近い道。昨日の光景を仕事として並べれば、線は見える。見えるのに、別のものまで一緒に浮かぶ。


 白い回廊。淡い水色のドレス。菫色の瞳。銀白色の髪。戻らなかった視線。


 ディアナは机の端を押さえた。指先に力が入る。盗る時の手ではない。落とさないように握る手だ。


「ディアナ」


 リュクスが短く呼んだ。


「なに」

「紙、折れてる」


 見下ろすと、指の下で見取り図の端が少し歪んでいた。慌てて手を離す。薄い紙は戻らない。折り目だけが残る。


「ごめん」

「紙に謝るな」

「じゃあ誰に謝ればいいの」

「知らねえ。謝る必要があるならな」


 リュクスの声は乱暴なのに、そこだけ父親だった。だから余計に、胸の奥が詰まる。ディアナは無理に笑った。


「大丈夫。仕事する」

「そうか」


 リュクスはそれ以上聞かなかった。カイルも、ガロも、バルドも、ダンテも口を挟まない。ミロだけが軽く肩をすくめる。


「仕事なら、こっちもある。教会の女官、夕方前に西庭口へ出るらしい」

「西庭口?」

「王妃宮の裏手から、温室と古い物置へ抜ける方。祈りの道には見えない場所だな」

「……祈りの顔をしてない道ってこと?」

「そういうこと」


 盗るものが見えた。なら、息をしろ。


 ディアナは机に広げられた見取り図へ視線を落とした。西庭口。温室。古い物置。王妃宮の裏手。そこに教会の女官が出る。昨日、リリアを西回廊へ運んだ手の端が、そこへ伸びているかもしれない。盗るべきものはある。なのに、胸の奥はまだ白い回廊に置き去りにされたままだった。


 扉が開いた。


 サディアスが先に入り、その後ろからジークムントが現れる。今日のジークムントは黒い騎士服ではなく、深い紺の上着を着ていた。銀白色の髪に朝光が差し、細い金の気配が一瞬だけ混じる。深い青灰色の瞳は、いつものように部屋全体を静かに拾った。


 ディアナは見取り図を見た。見た。ジークムントではなく、見取り図を。


「進んでいるね」


 ジークムントが言った。


「昨日の女官は、夕方前に西庭口へ出る」


 リュクスが答える。


「王妃宮の侍女も一人、控室に戻ってねえ。奥で誰かと話したか、隠されたか、どっちかだな」

「隠された、まで見るのか」

「戻ってこねえ使用人がいる時点で、普通は隠す理由を疑う」

「良い判断だ」


 ジークムントの声は穏やかだった。昨日と同じように、仕事の言葉で場を整えていく。ディアナはその声を聞きながら、手元の紙を重ねた。紙の端が揃わない。揃え直す。また少しずれる。


「ディアナ」


 呼ばれて、指が止まった。


「はい」

「昨日から、君はずいぶん紙に優しいね」

「折ったので」


 返した声は、ちゃんと出た。けれど、短い。鋭さがない。いつもの自分なら、そこで何か余計なことを言ったはずだ。紙より人に優しくしてください、とか、私のせいじゃなくて見取り図のせいです、とか。


 ジークムントも、それを待っていたように見えた。


 ほんの一拍。


 何も返らない。


 ジークムントの目が、わずかに細くなる。


「私を見るより、見取り図を見る方が落ち着くかな」

「仕事中ですから」

「いつも仕事中でも、君はよく私に文句を言う」

「今日は言いません」


 言ってから、違うと思った。


 言わないのではない。


 出てこないのだ。


 ジークムントは黙った。部屋の空気が、少しだけ薄くなる。盗賊団の誰も動かない。リュクスの指が机の端に置かれたまま止まっている。カイルは護衛表を見ているふりをして、こちらを拾っている。ミロは口を開きかけて、閉じた。


 ジークムントは、いつものように机へ近づいた。距離は近い。けれど、触れるほどではない。逃げ道を残しているようで、実際には視線だけで塞いでくる距離だ。


「珍しいね」


 穏やかな声だった。


「君が、仕事で見たものをここまで持ち帰るなんて」

「……昨日の報告は、仕事です」

「そうだね。けれど、君は今もまだ西回廊にいるように見える」


 ディアナは紙を見たまま、返事をしなかった。


 ジークムントの声に、ほんの少しだけ笑いが混じる。


「それとも、私の視線まで盗るつもりだった?」


 胸の奥が、ひゅ、と冷えた。


 悪意ではなかった。たぶん。いつもの調子だった。逃げ道を塞ぎ、からかい、ディアナが噛みつくところまで計算した、いつものジークムントの言葉。


 けれど今日は、駄目だった。


 盗るつもりだったのか。


 あの視線を。リリアへ置かれた、あの視線を。


 ディアナは息を吸った。浅い。足りない。でも、ここで黙ったままでは、もっとおかしくなる。


「盗るものは、そこではありません」


 自分でも驚くほど、静かな声だった。


 ジークムントの笑みが止まる。


 止まった。


 その場の誰も動かなかった。リュクスの指が机の端を一度だけ叩きかけて、止まる。カイルが護衛表を見るふりをやめる。ミロの軽口が完全に消える。ガロは見取り図から顔を上げ、バルドは薬包を畳む手を止めた。ダンテだけが、無言で扉の方へ視線を流す。


 ディアナは見取り図の端をそろえた。


「仕事に戻ります」


 丁寧に言った。


 丁寧に言えてしまった。


 それが、たぶん一番いけなかった。


 ジークムントは、すぐには何も言わなかった。いつもの彼なら、ここでさらに一言置く。君は本当に面白いね、とか、怒ったのかな、とか、逃げるのかい、とか。そうやってディアナの反応を引き出す。


 でも、何も言わなかった。


 その沈黙だけで、拾われたのだと分かった。


「そうだね」


 返ってきた声は穏やかだった。


 穏やかすぎた。


「仕事に戻ろう」


 それだけだった。


 ディアナは頷いた。ジークムントの顔は見なかった。


 机の上の話は、淡々と進んだ。西庭口へ出る教会の女官。王妃宮の侍女が戻らない理由。温室の裏にある古い物置。警衛騎士団の巡回時刻。表から動けば目立つ。裏から動けば、昨日の手がまた別の道を選ぶかもしれない。情報は並ぶ。目的も見える。それなのに、ディアナの口から軽口は戻らなかった。


「西庭口は、午後三刻前が一番人目が薄くなります」


 サディアスが見取り図に小さく印をつけた。


「温室へ薬草を運ぶ台車が一台。洗濯物を運ぶ下働きが二人。教会の女官が出るなら、その時間帯でしょう」

「表は騎士が二名か」

「はい。ただ、近づけすぎれば相手が道を変える可能性があります」

「盗賊団は外側から拾えるな」


 リュクスが言った。


「俺とカイルが庭師側。ミロは使用人に混じれ。ガロは曲がり角。バルド、香があれば拾え。ダンテは離れて見ろ」

「了解」

「分かった」

「加減するって。たぶん」

「見る」

「薬草運びの台車は面倒だな」

「距離は取る」


 短い返事が続く。盗賊団の空気に、少しだけ呼吸が戻った。こういう時の父たちは強い。誰かの胸が痛かろうが、運命が人の目を動かそうが、次の獲物が見えれば手を伸ばす。ディアナも、その中にいたい。痛いままでも、足を止めたくない。


「私は?」

「君は」


 ジークムントが言いかけて、止まった。


 ほんの短い間だった。


 けれど、止まった。


 いつもの彼なら、迷わず言ったはずだ。君は私と来る、と。私の隣にいなさい、と。そこにディアナが文句を言い、前提が最悪です、と噛みつくところまで含めて、いつもの形だった。


 ジークムントは、その形を一度手に取って、置いた。


「……サディアスの書類運びとして入る形が一番自然だろう」


 声は整っていた。


 整えたのだと分かるくらいに。


「王妃宮裏手へ入るには、帳簿上の理由が要る。温室の薬草記録と警衛騎士団の巡回確認を使う」

「私は荷物持ちですか」

「そう見えるようにする」

「……承知しました」


 また、丁寧に言えてしまった。


 ジークムントはすぐには返さなかった。ほんの一瞬だけ、何かを飲み込んだように見えた。


「詳細は午後までに詰める」


 代わりに、仕事の声だけが落ちる。


「今は、香の確認を先に」

「はい」


 リュクスの目が、ほんの少し細くなった。サディアスは一礼し、見取り図の端へ小さく印を足す。西庭口。温室。古い物置。薬草運びの台車。洗濯籠。教会の女官。


 道は見えた。


 けれど、まだ踏み込んではいない。


「バルド」


 ディアナは薬包をまとめているバルドへ声をかけた。


「香布、もう一回見せて」

「ああ」

「昨日の西回廊の香と、今日の西庭口の薬草の匂いが混ざるなら、先に覚えておきたい」

「鼻を使いすぎるなよ。まだ熱が戻るぞ」

「戻りません」

「戻る奴ほどそう言う」


 バルドが小瓶を布で包み直し、少しだけ蓋を開けた。甘い香が、ごく薄く漂う。昨日の回廊を思い出しそうになって、ディアナは奥歯を噛む。違う。これは仕事の匂いだ。回廊の匂いではない。


「外で見る」


 ディアナは小瓶を受け取った。


「ここだと紙の匂いが混じる」

「一人で行くな」

「行かない。バルド、来て」

「俺かよ」

「薬のことはバルドでしょ」

「面倒だな」


 言いながら、バルドは立ち上がる。リュクスがちらりとこちらを見た。止めない。カイルも何も言わない。ミロは笑いかけて、やっぱりやめた。


 ディアナはジークムントを見ないまま、旧訓練棟の裏手へ出た。


 扉が閉まる。


 部屋の中に、ディアナの気配だけが抜け落ちた。


 残った沈黙は、紙より薄くて、刃より扱いにくかった。


「殿下」


 最初に口を開いたのはリュクスだった。


「今のは仕事の話か」

「どれのことかな」

「とぼけるなら、もう少しうまくやれ」


 サディアスがわずかに視線を伏せる。カイルは護衛表を畳まず、ミロは口の端だけを動かして黙っていた。ガロは見取り図の西庭口から指を離さない。


 ジークムントは見取り図を見ていた。見ているように見えた。けれど、視線は紙の上で止まっている。普段なら、そこから次の配置へ流れる。騎士の数、庭師の動線、逃げ道、盗賊団の足。必要なものをすべて拾って、迷いなく切り分ける。今日は、止まっていた。


「続けよう」


 ジークムントが言った。


 声はいつも通りだった。いつも通りに戻した声だった。


 サディアスだけが、その違いに気づいたようにほんの少し目を伏せる。リュクスは何も言わず、机の端を指で一度だけ叩いた。


「午後三刻前、西庭口」


 サディアスが静かに話を戻した。


「警衛騎士団からは二名を遠目に置く予定でしたが」

「一名でいい」


 返答が早かった。


 サディアスの目が、わずかに上がる。


「一名、ですか」

「二名では目立つ」

「昨日までなら、殿下は二名をお選びでした」

「状況が変わった」

「どの状況でしょう」


 静かな問いだった。


 リュクスの目が、ジークムントへ向く。カイルも、ミロも黙ったまま聞いている。


 ジークムントは、ほんの一拍だけ答えなかった。


 その一拍が、答えだった。


「……西庭口は狭い」


 ようやく落ちた声は、いつもより少し低い。


「騎士を増やせば、逃げ道ではなく視線を増やすことになる。相手にこちらの警戒を教えるだけだ」

「承知しました」


 サディアスはそれ以上追わなかった。


 けれど、サディアスには分かっていた。理屈は合っている。ジークムントの判断は間違っていない。けれど、その理屈へたどり着くまでの間が、いつもと違う。


 ジークムントは見取り図の端へ視線を落とした。そこには、先ほどディアナが折った小さな跡が残っていた。紙の折り目。戻らないもの。指先が、その近くで止まる。触れはしない。なぞりもしない。ただ、見た。


 リュクスが低く言う。


「殿下」

「なにかな」

「ディアナは、怒った方が分かりやすい女だ」

「……そうだね」

「怒ってねえ時の方が面倒だ」


 ジークムントは笑わなかった。


 いつもの彼なら、そこに何か返したはずだ。君に似たのかな、とか、扱いづらいね、とか、盗賊の娘だからね、とか。何も返さなかった。


 ミロが小さく息を吐く。カイルは黙って護衛表を机へ戻した。ガロが短く言う。


「西庭口。影、多い」

「そうだね」


 ジークムントが応じる。


「影が多い場所は、ものを隠しやすい。人の手もね」


 言葉は戻った。


 けれど、部屋の空気は戻らない。


 ディアナがいない。


 それだけで、旧訓練棟の机の周りは少し広く見えた。


 サディアスは新しい紙を一枚出し、仮の配置を書き直す。警衛騎士団は一名。盗賊団は外側。ディアナはサディアスの書類運びとして入る可能性が高い。ジークムントは表向き、警衛騎士団長として温室周辺の警備確認に出る。


 まだ、仮だ。


 実行は午後三刻前。王妃宮裏手へ入るための書類と許可は、サディアスが整える。温室の記録を使うなら、王城内の古い帳簿も必要になる。午後までに詰めることは多い。


 次の獲物は見えた。


 だが、そこへ向かう前に、整えなければならない道がある。


 誰もすぐには立たなかった。


 ジークムントだけが、最後にもう一度、折れた見取り図の端を見た。


 紙の折り目ひとつから、第一王子はなかなか目を離さなかった。


 そのことを、部屋にいる誰も口にはしなかった。


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