第二十八話 盗賊娘、切り離された視線を見る
手が伸びる先を盗るのは、財布を抜くより面倒だ。
財布なら、膨らみがある。音がある。重みがある。けれど、人へ伸びる手は親切にも祈りにも偶然にも見える。白い袖から出て、白い袖へ戻るだけで、誰もそれを悪意とは呼ばない。
昨日は、道を盗った。菫色の瞳の少女とクリスを会わせる道。そこにイレーネを立たせる道。周囲が勝手に意味を作れるように整えられた、白くて静かな道。
次は、その手が誰へ伸びるのかを盗る。
旧訓練棟の机には、昨日抜いてきた紙と見取り図が並んでいた。礼拝堂、控室、東棟裏の馬車寄せ、王妃宮の侍女、教会の女官、香布、席控え。盗賊団が拾ったものを並べると、ただの偶然だった線が、嫌な形に繋がっていく。
「今日、菫色の瞳の少女は王妃宮から西回廊へ移る」
ジークムントが言った。窓際に立つ姿は、今日も無駄に絵になっている。銀白色の髪に薄い朝光が差し、深い青灰色の瞳は机の上の紙ではなく、その向こう側を見ているようだった。
「表向きは、祈りの作法を確認するためだ。小礼拝堂を使うことになっている」
「表向きは」
「そう。王妃宮の侍女が二人、教会の女官が一人、同じ時間に動く」
サディアスが見取り図へ線を足した。王妃宮から西回廊。西回廊から小礼拝堂。小礼拝堂の少し先には、警衛騎士団の管理区画へ続く扉がある。
ディアナは、その線を見て眉を寄せた。
「ここ、警衛騎士団の管理区画に近いですね」
「近いね」
「ジーク様の仕事場では」
「そうだね」
そうだね、ではない。
ジークムントは笑っていなかった。笑っていないのに、全部分かった上でそこに立つつもりなのだと分かる顔をしている。
「今日は出るんですか」
「警衛騎士団長としてね。祝祷の席ではない。管理区画に近づく者を確認するだけだ」
「それも道の上では」
「だから見に行く」
簡単に言う。自分が置かれる道だと分かっていて、その声に迷いがない。ディアナは膝の上の手を見た。指先は動いていない。いつもなら針金を探す癖が出るのに、今日は固まっている。
「指」
リュクスが言った。
「動いてない」
「だから見ないで」
「動いてねえから言ってる」
盗る気がないわけではない。怖いのだ。昨日、クリスの視線がほんの一拍、菫色の瞳の少女から戻るのを遅らせた。礼儀としては何も乱れていない。笑顔も崩れていない。けれど、ディアナには見えてしまった。人の目が、何かに引かれる瞬間。あれを、今日はジークムントで見るかもしれない。そう思っただけで、息が少し浅くなる。
「持ってろ」
リュクスが小さな革袋を押してきた。中には針金と薄刃が入っている。使う予定はない。使う予定はないけれど、あるだけで少し息がしやすくなる。
「盗賊団の娘だろ」
「こういう時だけ便利に娘扱いしないで」
「こういう時だからだ」
返せなかった。
ミロが机の向こうで軽く手を上げる。
「俺は使用人区画と西回廊の噂。お嬢が見落としたものも拾ってくる」
「見落とす前提?」
「念のためってやつ。加減するって。たぶん」
「最後が信用できない」
「信用は仕事で返す」
言い方だけは格好いい。
カイルは西回廊近くの護衛配置を確認し、ガロは柱の影と曲がり角を覚える。バルドは香布を小瓶に分け、ダンテは小礼拝堂の使用予定を見ていた。父たちは、もう動く準備をしている。なら、ディアナも動かなければならない。
「ディアナ」
ジークムントの声が落ちた。
「はい」
「見るものは分かっているね」
「菫色の瞳の少女と、その周りです」
「それだけでは足りない。誰が彼女を歩かせ、誰に見せようとしているのか。そこまで盗っておいで」
「……盗賊相手に嫌な言い方をしますね」
「効くだろう?」
効く。だから腹が立つ。
「目の前のものだけ見ていると、盗れるものを落とすよ」
「分かりました」
「本当に?」
「多分」
「正直でよろしい」
「褒められても嬉しくありません」
言い返せた。それだけで、少しだけ呼吸が戻った。
王城の西回廊は、礼拝堂よりも人が少ないぶん、足音がよく響いた。白い壁に細い窓が並び、磨かれた石床に光が長く伸びている。遠くから香炉の甘い匂いが薄く流れてくる。祈りの場にふさわしい顔をした香だ。信用できない。
ディアナはサディアスから預かった書類箱を抱えていた。中身は空だ。空の箱を、仕事の顔で抱えて歩く。盗賊稼業も令嬢稼業も、結局は歩き方と顔の作り方でどうにかなるのかもしれない。いや、顔ではない。今日は手と足だ。手癖で見抜かれるし、足取りで疑われる。忙しい。
ジークムントは少し前を歩いている。今日は黒い騎士服だった。礼装ではない。第一王子というより、警衛騎士団長の姿だ。腰には剣。黒い布地が白い回廊の中で、やけにはっきり見えた。
今日は、ジークムントを見に来たのではない。そう自分に言い聞かせるほど、視線が彼の背中へ寄りそうになる。
「ディアナ」
「はい」
「箱を落としそうだよ」
「落としません」
「息も」
「止まってません」
言い切ってから、止まっていたことに気づいた。最悪だ。
ジークムントは振り返らず、少しだけ口元を緩めたように見えた。
「来る」
短い声だった。
ディアナは書類箱を抱え直した。回廊の向こうから、白い衣の女官が現れた。続いて、王妃宮の侍女が二人。その後ろに、昨日礼拝堂で見た少女がいた。
菫色の瞳の少女。
今日は白い礼服ではなく、淡い水色のドレスを着ている。祈りの場に立たせるための白ではない。けれど、清らかさを損なわないように選ばれた色だと分かる。胸には祈祷書を抱えていた。
女官たちはまだこちらに気づいていない。けれど少女は、少し遅れて足を止めた。抱えていた祈祷書の端がずれ、薄い紙片が一枚、床へ滑り落ちる。
ディアナは反射で動いていた。盗賊の足ではなく、令嬢の足で近づく。膝を折り、紙片を拾い上げる。紙には祈りの文が写されていた。綺麗な字だ。ところどころ力が入りすぎて、線が少し震えている。
「あの」
少女が、小さく声を出した。
「ありがとうございます」
近くで見ると、菫色の瞳は本当に綺麗だった。けれど、昨日の礼拝堂で見た時より、ずっと人の目をしていた。怖がって、迷って、それでも失礼がないように立とうとしている目だ。
飾り物ではない。当たり前だ。けれど昨日、あの視線の中では、一瞬忘れそうになった。
「どうぞ」
ディアナは紙片を差し出した。少女は両手で受け取り、ほっとしたように胸元へ戻す。
「王城は、広いですね」
「……はい。迷いますよね」
「迷ってはいけないと言われているのですが、廊下も扉も、どれも似ていて」
困ったように笑う。作った笑みではない。誰かに見られるための微笑みでもない。緊張で固くなった口元を、なんとか柔らかくしようとしている笑みだった。ディアナの胸が、少しだけ痛む。
「私も、よく迷います」
つい、そう言っていた。
少女が目を瞬く。
「あなたもですか」
「はい。王城の廊下は、まっすぐに見えて、まっすぐじゃないので」
「……分かります」
小さく返ってきた声に、少しだけ笑いが混じった。
その瞬間、女官がこちらに気づいた。
「リリア様」
名前。リリア。
少女がはっと顔を上げる。紙片を祈祷書へ挟み直し、ディアナへもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いいえ」
それだけだった。ただ紙を拾っただけ。ほんの短い会話をしただけ。けれど、ディアナの中で、昨日の「菫色の瞳の少女」は少しだけ形を変えた。
リリア。一人の少女。そう理解した直後だった。
リリアが、ジークムントを見た。
ジークムントも、リリアを見た。
その瞬間、回廊の音が遠くなった。
足音も、衣擦れも、香炉の薄い甘さも、窓から差す白い光も、全部が一歩ぶん退いたように感じた。
二人だけが、そこに残った。
実際には、誰も動いていない。
ジークムントは立ったままで、リリアも祈祷書を抱いているだけだ。
それなのに、そこだけが世界から切り離されたように見えた。
ディアナは、理解するより先に分かってしまった。
自分だけが、一歩外へ出された気がした。
痛い、と思うより先に息が止まった。
ジークムントは動かなかった。指先も、肩も、足も、何ひとつ乱れない。けれど、視線だけが戻らなかった。ほんの一拍ではない。ディアナが思っていたより、ずっと長く。
リリアも目を離せないでいた。けれど、その顔に浮かんだのは喜びではなかった。驚きだった。自分の中で何が起きたのか、自分が一番分かっていないような顔だった。祈祷書を抱く指が、少しだけ強張っている。
甘さではなかった。なのに、目が離れない。そのことが、余計に怖かった。
ディアナの背筋が冷えた。
さっき、分かってしまった。リリアは、怖がって、迷って、それでも礼を失わないように立っている一人の少女だ。
その隣へ、ジークムントの視線が置かれる。
そのことが、どうしようもなく痛かった。
「ジークムント殿下」
女官の声で、音が戻った。
ジークムントの視線が外れる。
外れた。
やっと。
そう思ってしまった自分が、また嫌だった。
「ここは警衛騎士団の管理区画に近い」
ジークムントの声は穏やかだった。けれど、いつもより少し低い。
「どちらへ?」
「王妃宮より、小礼拝堂へ」
「その道では遠回りだね」
女官の指が祈祷書の端を押さえた。王妃宮の侍女の一人が、ほんの少し視線を伏せる。伏せるのが早い。覚えた。覚えたはずなのに、胸の奥がまだ回廊に置き去りにされている。
「案内を戻しなさい」
「ですが、王妃宮より」
「王妃宮へは、私から確認を入れる」
逃げ道を塞ぐ声だった。
女官が口をつぐむ。侍女たちが頭を下げる。リリアは少し遅れて、祈祷書を抱えたまま深く礼をした。
「申し訳、ございません」
細い声だった。責められると思っている声。
ジークムントはリリアを見た。また、一瞬だけ。今度はさっきとは違う。観察する目だった。盤面を見る目。誰がこの少女をここへ運んだのか、その手の位置を測る目。その方がジークムントらしい。らしいのに、さっきの視線が消えない。
「君が謝ることではないよ」
穏やかな言葉だった。
リリアの菫色の瞳が揺れる。普通なら優しい言葉に見える。けれど、ディアナには、その奥の線が見えた。君が謝ることではない。なら、謝るべきなのは誰か。ジークムントはもう、そこを見ている。
「戻りなさい」
リリアはもう一度頭を下げ、女官たちに促されて来た道を戻っていった。菫色の瞳は、最後にほんの少しだけジークムントへ戻りかけた。けれど、すぐに伏せられる。その小さな動きまで、痛かった。
回廊には、薄い香と白い光だけが残った。ディアナは書類箱を抱えたまま、動けなかった。
「見たね」
ジークムントが言った。
こちらを見ずに。
「……はい」
声が少し掠れた。
仕事中だ。戻れ。盗賊娘だ。今見たものを報告するために来た。痛いとか、嫌だとか、そういうものはあとでいい。あとで。でも、あとでどこへ置けばいいのか分からない。
「戻ろう」
ジークムントはそれ以上何も言わなかった。それがありがたくて、少しだけ苦しかった。
旧訓練棟へ戻ると、机の上にはすでに紙が増えていた。ミロが拾った使用人区画の噂。ガロが写した西回廊の見張り位置。カイルが確認した王妃宮の馬車の動き。バルドが採った香の欠片。ダンテが抜いてきた小礼拝堂の使用予定。
盗賊団は、ちゃんと仕事をしている。ディアナも、仕事をしなければならない。
「ディアナ」
カイルがこちらを見た。
「手」
言われて、ディアナは自分の手を見た。空の書類箱を抱える指が、白くなるほど力を入れていた。
リュクスが短く言う。
「置け」
父親の声だった。
ディアナは机の端へ箱を置く。空の箱なのに、やけに重かった。ジークムントは窓際に立った。サディアスは扉のそばに控える。盗賊団の視線が集まる。逃げられない。逃げるつもりもない。
「西回廊で、リリア様と会いました」
ミロの笑みが消えた。
リュクスの目が鋭くなる。
「名前、出たのか」
「女官が呼びました。リリア様、と」
ディアナは息を吸う。
「祈祷書から紙片を落として、私が拾いました。少しだけ話しました。王城は広くて迷う、と。間違えないようにしているだけに見えました。……飾り物じゃありませんでした」
言ってから、自分の声が少し沈んでいることに気づいた。誰も茶化さない。ありがたい。ありがたいのに、余計に痛い。
「その後、ジーク様と目が合いました」
部屋が静かになる。
「空気が、変わりました」
言葉にした瞬間、回廊の白い光が胸の奥に戻ってきた。二人だけが、そこに残ったように見えた。自分だけが、外へ出されたように感じた。
「昨日、クリス殿下がリリア様を見た時、視線が一拍だけ戻るのを遅らせました。今日は、それより強かったです。ジーク様は、動いていません。でも、視線だけが、戻りませんでした」
ジークムントは否定しなかった。
それが、痛かった。
「リリア様も、目を離せないでいました。でも、嬉しそうではなくて。驚いていて、怖いみたいにも見えて」
言葉が、思ったより先に出ていく。
「ジーク様も、見ていました。戻らなくて。昨日のクリス殿下より、ずっと長くて。そこだけ、音が遠くなったみたいで」
胸が痛い。何を言っているのか、自分でも少し分からなかった。
「リリア様は、たぶん、何も知らないんです。迷っていて、怖がっていて、でも、ちゃんと立とうとしていて」
声が、少しだけ詰まる。
「なのに」
その先が出なかった。なのに。ジークムントの視線は、そこへ置かれた。そう言えばいいのに、言えなかった。
リュクスが黙って聞いている。カイルも、ミロも、ガロも、バルドも、ダンテも口を挟まない。ディアナは手袋の下の左手を握った。痛みの原因は、そこではない。分かっている。でも、胸の奥が痛かった。
「ディアナ」
ジークムントが名を呼んだ。
「はい」
返事はした。いつもの声に戻したつもりだった。でも、ジークムントの顔は見られない。
ジークムントは、すぐには続けなかった。
ほんの短い沈黙だった。いつもの彼なら、褒めるにしても、からかうにしても、もっと滑らかに言葉を置く。
「よく見たね」
ようやく落ちた声は、穏やかだった。
けれど、いつものように笑ってはいなかった。
「君が見たものは、必要なものだ」
「……はい」
いつもなら、ここで何か言えた。褒められても嬉しくありません、とか、仕事ですから、とか、そういう言葉で胸の奥を隠せた。
今日は出てこなかった。
「ありがとうございます」
ただ、それだけを返した。
自分でも、違うと思った。
リュクスの指が、机の端を一度だけ叩く。カイルが少しだけ視線を伏せる。ミロは何か言いかけて、やめた。
ジークムントが、ほんのわずかに目を細める。
気づいたのか。
それとも、まだ仕事の反応として見ているのか。
分からない。
「次は」
ジークムントが言った。
「王妃宮の侍女が、なぜその道を選んだのかを見る。教会の女官がそれを止めなかった理由も。リリア嬢を警衛騎士団の管理区画近くへ運んだ手がある」
いつもなら、すぐに頷けた。盗るものが見えたなら、動ける。道でも、噂でも、棘でも。名前をつけてしまえば、少しだけ前へ進める。
けれど今は、言葉が遅れた。
「……はい」
それだけしか言えなかった。
ジークムントは黙っている。ディアナは机の上の見取り図を見た。白い紙。祈りの顔をした予定表。香の欠片。王妃宮の侍女の名。教会の女官の足跡。小礼拝堂へ続く道。
全部、見なければならない。見なければ、イレーネを守れない。
それは分かっているのに、ジークムントの顔だけはまだ見られなかった。
報告はできた。道も、手も、少しだけ見えた。けれど、菫色の瞳を見たジークムントの視線が、まだ胸の奥に刺さっている。
リリアは悪くない。
ジークムントも、何かをしたわけではない。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が痛かった。
どこへ向ければいいのか分からない痛みだけが、そこに残った。




