表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
62/62

番外編 盗賊娘、戻る場所を選ぶ


 王国の後始末は、まだ終わっていない。


 それでも、今日は珍しく旧訓練棟が静かだった。リュクスたちは王都南区へ出ている。ディアナも当然のようについていくつもりだったが、バルドに「泣いた後、熱を出した後、神話を還した後、全部まとめて休め」と言われ、カイルには無言で外套を取り上げられた。


 盗賊団による連携拘束である。


 ひどい。


 そういうわけで、ディアナは今、離宮の小さな居間にいた。


 窓の外は夕方に傾いている。庭の木々は柔らかい風に揺れ、白ではない小さな花が低い垣根のそばに咲いていた。部屋の中には火が入っている。暑すぎず、寒すぎず、けれど逃げ道を探すには少し快適すぎる温度だった。


 卓の上には、焼き菓子と温かい茶が置かれている。書類はない。押収品もない。帳簿も、封じられた小箱も、香布も、札もない。


 そのことに気づいた瞬間、ディアナは逆に警戒した。


「ジーク様」


 向かいの椅子に座るジークムントは、いつものように整った顔でこちらを見た。銀白色の髪に夕方の光が差し、細い金の気配が一瞬だけ揺れる。深い青灰色の瞳は穏やかで、だからこそ余計に信用できない。


「何?」

「書類がありません」

「ないね」

「仕事は」

「今日はしない」

「罠ですか」

「君は甘やかされる予定を罠と呼ぶのかな」

「ジーク様が用意した時点で、だいたい罠です」


 ジークムントは笑った。


「正しい警戒心だ」


 褒められた。


 ちっとも嬉しくない。


 ディアナは焼き菓子を見た。小さな丸い菓子で、赤い実が練り込まれている。リュクス宛ての花束に混じっていた赤い実を思い出し、少しだけ顔が熱くなった。あの翌朝、ジークムントが本当に許可を取りに来た時のことは、今でも鮮明に思い出せる。


 仮許可。


 リュクスがものすごく嫌そうな顔で出した、あれ。


 逃げ道を消すな。盗賊団アディンセルを取り上げるな。ディアナに選ばせろ。その条件は、いま書面になって、ディアナの手元にも一通ある。盗賊団の隠し箱にも一通ある。ジークムントの手元にもあり、サディアスが管理する写しまである。


 婚約の仮許可が、なぜか契約書の形で残っている。


 盗賊団らしいのか、ジークムントらしいのか、もうよく分からない。


「お茶が冷めるよ」

「安全ですか」

「普通の茶葉だよ」

「ジーク様の普通は信用しにくいです」

「私を何だと思っているのかな」

「ジーク様」

「それは答えになっている?」

「だいたい、なっています」


 ジークムントは少しだけ楽しそうに目を細めた。


 正解にされた気がして、腹立たしい。


 ディアナは茶を飲み、焼き菓子を一つ取った。赤い実の酸味と柔らかい甘さが舌に広がる。おいしい。おいしいのが、また困る。


「気に入った?」

「……普通です」

「君の普通は分かりやすい」

「観察しないでください」

「善処するよ」

「その顔は、しない顔です」


 ジークムントは否定しなかった。


 けれど、今日は怒る力が少し弱い。部屋が温かいからかもしれない。茶がおいしいからかもしれない。王国の後始末から少しだけ離され、盗みに行くなと全員に止められ、何も盗らなくていい場所に置かれたからかもしれない。


 落ち着かない。


 落ち着くのに、落ち着かない。


「扉は開けてある」


 ジークムントが言った。


 ディアナは思わず扉を見た。確かに、居間の扉は細く開いている。廊下には誰もいない。足音も遠い。離宮を出れば、旧訓練棟へ戻る馬車もある。庭の外壁の低い場所も、もう覚えている。


「旧訓練棟へ戻るなら、馬車を呼ぶ。リュクスのところへ行きたいなら、使者も出せる」

「急に何ですか」

「条件を守っている」

「真面目ですね」

「仮許可を取り消されたくないからね」

「そこは本気なんですね」

「本気だよ」


 さらりと言われて、返事に困った。


 ジークムントは、こういう言葉を平然と差し込む。からかいのようで、からかいだけではない。甘いのに、少し危ない。逃げ道を残すと言いながら、戻る場所の方をこちらへ見せてくる。


 ずるい。


 本当にずるい。


「君が使うかどうかは、君が選べばいい」


 ディアナは左手を握った。黒い輪の縁が、指に硬く返る。斜めに落ちる二つの縁のあいだに、赤い宝石が抱かれるようにはまっている。拘束具だったもの。偽物の国宝だったもの。今は、ディアナのものになった指輪。


「父さんたちのところにも、帰っていいんですよね」

「もちろん」

「盗賊団にも」

「君の家族だ」

「旧訓練棟にも」

「君の場所だろう」


 いつもの声で返されるたび、胸の奥が少しずつ熱くなる。


 だから、言えると思った。


 言えないと思った。


 どちらなのか、自分でもよく分からなかった。


「じゃあ」


 声が思ったより小さくなった。


 ジークムントは茶器へ伸ばしかけた手を止めた。


「ジーク様も」


 言葉が喉で引っかかる。


 これは確認だ。


 確認であって、甘えたいわけではない。たぶん。いや、少しはそうかもしれない。でも、それを正面から認めるには、盗賊娘としての心の準備が足りない。


 だから、確認だ。


「戻る場所の、ひとつなんですよね……?」


 言った瞬間、部屋の音が消えた気がした。


 火のはぜる小さな音も、庭の葉擦れも、遠くの足音も、全部が少し遠くなる。


 ジークムントは、すぐには笑わなかった。


 いつもなら、ひとつ、なんだ、と返したはずだ。私だけでは足りない? と甘い声で逃げ道を塞いだはずだ。それとも、欲張りだね、と楽しそうにからかったかもしれない。


 けれど、ジークムントは黙っていた。


 深い青灰色の瞳が、ただディアナを見ている。


 まずい。


 何かを刺した。


 たぶん、かなり深く刺した。


「……それを」


 落ちた声が、いつもより低い。


「私に聞く?」


 ディアナは視線を泳がせた。


「聞かないと、勝手に戻ることになるので」

「勝手に戻っていいよ」

「それは、それで困ります」

「どうして?」

「……心の準備が」


 言い終わる前に、ジークムントが手を差し出した。


 引かれたわけではない。命じられたわけでもない。ただ、そこに手が置かれた。


 見なかったことにもできる。茶を飲むふりもできる。焼き菓子を取って、盗賊なので甘いものを盗りますと誤魔化すこともできる。


 でも、戻る場所のひとつだと言ったのは、自分だった。


 ディアナは、そっとその手を取った。


 ジークムントの指が、すぐには絡まない。待っている。ディアナが握るかどうかを、待っている。


 腹立つ。


 優しいのではなく、選ばせているのが腹立つ。


 ディアナは少しだけ強く握った。


 その瞬間、ジークムントが笑った。


 いつもの余裕が少しだけ崩れた、危ない笑みだった。


「おいで」

「……命令ですか」

「願いだよ」

「願いが多いです」

「君が聞いてくれるからね」

「聞くとは言ってません」

「では、今から選んで」


 最悪だ。


 逃げ道を残されると、逃げないことを選ばなければならなくなる。


 ディアナは立ち上がった。近づく。ジークムントは手を引かない。ただ、支える。ディアナが自分で一歩進み、もう一歩進み、ジークムントの前で止まる。


 止まってから、気づいた。


 これは。


 かなり。


 戻り方を間違えた気がする。


「ジーク様」

「うん」

「これ、私が思っていた戻り方と少し違います」

「そう?」

「そうです」

「降りる?」


 まだ乗っていない。


 乗っていないのに、降りると聞かれた。


 つまり、この人は分かっている。分かった上で、逃げ道を残している。


 ずるい。


 あまりにもずるい。


「聞き方がずるいです」

「どう答える?」

「……戻る場所なので」


 ディアナは、息を吸った。


「戻ります」


 自分で言った。


 言ってしまった。


 ジークムントの指が、そこで初めて少し強くなる。引き寄せるほどではない。けれど、逃げたら追うと分かる力だった。


 ディアナは、自分からジークムントの膝の上に座った。


 足が床から離れた瞬間、胸の奥が跳ねる。前々世の名前を渡した夜の、痛みと震えを受け止められた膝上ではない。捕まった夜の、選べなかった膝上でもない。


 今は、自分で来た。


 逃げ道があるのに、来た。


 その事実が、怖いくらい甘かった。


「……重くないですか」

「軽いよ」

「即答しないでください」

「事実だ」

「事実を武器にしないでください」


 ジークムントの腕が、ゆっくり背に回る。


 強くはない。


 でも、確かだ。


 ディアナの腰のあたりに添えられた手が、道を塞がない程度に、けれどここにいると分からせる程度に、温かい。


「降りる?」

「……降りません」

「そう」


 ジークムントの声が低くなる。


「良い子だね」

「言うと思いました」

「言わない方がよかった?」


 言われると腹が立つ。腹が立つのに、少しだけ安心する。そこが一番困る。


「……今のは忘れてください」

「断る」


 本当に最悪だ。


 ディアナは顔を背けようとした。背けた先にもジークムントの肩がある。近い。近すぎる。逃げ道はあるはずなのに、逃げた先までこの人の気配がある。


 指輪の赤い宝石が、火の光を拾って小さく光った。


 魔法の反応ではない。


 ただの光だ。


 それなのに、胸の奥まで熱くなる。


「ディアナ」

「はい」

「君は、私のところへ戻るために、ずいぶん可愛い言い訳をするようになったね」

「からかわないでください」

「無理かな」

「努力してください」

「努力はしている」

「どこがですか」

「今、君がどれだけ可愛いかを全部言わずにいる」


 呼吸が止まった。


 ずるい。


 それは努力かもしれない。いや、違う。違うはずだ。でも、これ以上言われたら本当に逃げる。逃げないと言ったばかりなのに、逃げる。


「……ジーク様」

「何」

「そういうところです」

「どこ?」

「最悪なところ」

「知っている」


 ジークムントは笑った。けれど、腕の力は少しだけ強くなった。


 ディアナはその腕の中で、しばらく黙った。茶の香り。火の温度。夕方の光。黒い輪と赤い宝石。ジークムントの腕。戻る場所のひとつ。


 全部が、現実だった。


 女神の涙はもうない。国宝もない。運命の証もない。誰かが決めた役も、中心に置くための白い花も、ここにはない。


 あるのは、ディアナが自分で選んだ距離だけだ。


「ジーク様」

「うん」

「私、ちゃんと言っていませんでした」


 ジークムントの腕が、ほんの少しだけ止まる。


 気づかれた。


 何を言おうとしているか、たぶん気づかれた。


 いつもなら、言わせる前にからかったはずだ。逃げ道を塞ぐような甘い声で、ほら、言ってごらん、とこちらを追い詰めたはずだ。


 けれど、ジークムントは黙っていた。


 待っている。


 また、待っている。


 腹立つ。


 でも、今だけは少しありがたい。


 ディアナは、ジークムントの上着を掴んだ。逃げるためではない。逃げないために。


「好きです」


 言った。


 言ってしまった。


 胸の奥が、ひどい音を立てる。


 ジークムントの腕が完全に止まった。


 勝った。


 そう思った次の瞬間、腰に回った腕が少しだけ強くなる。


「……ディアナ」


 声が低い。


 まずい。


 勝ったと思ったのに、別のものに負けそうだ。


「今の言葉を、私がどれだけ都合よく受け取るか分かっている?」

「分かっていたら言いませんでした」

「なら、今から覚えるといい」

「怖いこと言ってます」

「私は怖い男だよ」

「知ってます」


 この人は、優しいだけの男ではない。道を残してくれる。けれど、戻る場所に自分を選ばせたいと願う。願いと言いながら、こちらが選んだら絶対に離さない顔をする。


 最悪で、危険で、甘い。


 その人を、選んだ。


「好きです」


 もう一度言うと、ジークムントが息を止めたのが分かった。


「選ばれたからじゃなくて、私が選んだので」


 そこまで言って、限界だった。


 ディアナは顔を伏せた。耳が熱い。頬も熱い。たぶん首まで赤い。盗賊として、証拠を残しすぎである。


 ジークムントは、すぐには何も言わなかった。


 からかわれないのが、逆に怖い。


 ディアナはおそるおそる顔を上げた。


 ジークムントが、こちらを見ていた。


 整えそこねたような、無防備な笑みが、ほんの一瞬だけこぼれる。


 その瞬間、ディアナの胸がまた変な音を立てた。


 ずるい。


 この人は、本当にずるい。


「……君は」


 ジークムントの声が、少し掠れていた。


「私を悪くするのが上手い」

「もともと悪いです」

「そうだったね」


 ジークムントは笑った。


 いつもの余裕を取り戻そうとして、取り戻しきれていない笑みだった。


「でも、今のは君のせいにしていい?」

「よくないです」

「残念だ」

「全然残念そうじゃないです」

「嬉しいからね」


 正面から言われると、逃げ場がない。


 ディアナは唇を結んだ。言い返そうとして、何も出てこない。文句ならいくらでも言えるはずなのに、こういう時だけ言葉が盗まれる。


 誰に。


 目の前の第一王子に。


「ジーク様も、言ってください」


 言ってから、自分で驚いた。


 今日は、どうもおかしい。


 甘やかされる予定だったからだろうか。旧訓練棟に置いていかれたからだろうか。扉が開いていて、帰れる場所があるからだろうか。


 逃げられると分かっていると、言葉が少しだけ強くなる。


 ジークムントの目が細くなった。


「何を?」

「分かってますよね」

「聞きたい」

「そういうところです」

「うん」


 ジークムントは、ディアナの左手を取った。


 黒い輪の赤い宝石が、火の光を受けて小さく光る。


「好きだよ」


 低い声だった。


 訓練庭で、耳元に落とされた声とは少し違う。あの時は言い逃げだった。ずるくて、甘くて、逃げ道を奪うような一言だった。


 今は違う。


 帰れる場所を見せたまま、目の前で言っている。


「君が盗賊団の娘であるところも、逃げ足が速いところも、腹が立つほど私を見ているところも、私から逃げようとして、結局戻る場所のひとつにしてしまうところも」

「細かいです」

「全部、好きだよ」


 言葉が詰まった。


 全部。


 その言葉は、危ない。


 何度も生きてきたことも、物語越しにこの世界を見ていたことも、盗賊娘として走る足も、泣いた後に笑うところも、怒りを持って盗みに行くところも。


 全部、と言われた気がした。


 ジークムントは、指輪の縁を親指でそっとなぞる。黒い輪。赤い宝石。かつて拘束具だったもの。今はディアナのものになったもの。


「触れても?」


 聞かれた。


 今さら、と言いかけて、やめた。


 今さらではない。


 この人は、聞く。


 ディアナに選ばせるために。


「……はい」


 ジークムントはディアナの左手を持ち上げた。


 黒い輪の縁へ、唇が触れる。赤い宝石のすぐそば。


 そこへ触れられた瞬間、胸の奥が熱くなった。あの日、左手へ無理やりはめられた偽の国宝。逃げ道を塞ぐための輪。父さんたちを人質に取られた証。それが今、ディアナの指で、ディアナのものとして、ジークムントの唇を受けている。


 最悪だ。


 最悪なのに、泣きそうになる。


「泣く?」

「泣きません」

「そう」

「泣いたら、またバルドに休めって言われるので」

「それは困るね」

「困るんですか」

「今日は、もう少し君を甘やかす予定だから」


 甘やかす。


 その言葉が、今日はやけに胸に悪い。


「甘やかすって、何をする気ですか」

「君が許す範囲で」

「逃げ道を残すんですね」

「約束したからね」


 ジークムントの視線が、指輪からディアナへ上がる。


「口づけても?」


 今度こそ、呼吸が止まった。


 聞かれた。


 聞かれてしまった。


 聞かれなければ、怒れた。ずるいです、急です、最悪です、と言えた。けれど、聞かれると、選ばなければならない。


 顔を背けてもいい。膝の上から降りてもいい。今日はここまでですと言って、旧訓練棟へ帰ることもできる。


 でも。


 戻る場所のひとつだと、自分で言った。


 好きだと、自分で言った。


 選んだと、自分で言った。


 ディアナはジークムントの上着を掴んだ。


「……聞かないでください」


 ジークムントの目が、わずかに揺れた。


「それは、ずるいね」

「ジーク様にだけは言われたくないです」

「では、もう一度聞くよ」

「え」

「嫌なら止める。嫌じゃないなら、君が選んで」


 本当に。


 本当に、この人は。


 逃げ道を残すくせに、戻る場所をこちらへ差し出してくる。


 ディアナは目を閉じなかった。


 逃げたくなかった。


「嫌じゃ、ないです」


 ジークムントの腕が止まる。


「……そう」


 低い声だった。


 少しだけ、危なかった。


「では、覚悟して」

「何の」

「私が、かなり喜んでいる」

「それを覚悟するんですか」

「うん」


 笑いそうになった瞬間、ジークムントが近づいた。


 唇が触れる。


 ほんの少しだけ。


 けれど、触れた場所から、音が消えた。


 火の音も、葉擦れも、遠い廊下の気配も、全部が遠くなる。残ったのは、ジークムントの腕と、膝の上の温度と、唇に触れた柔らかさだけだった。


 優しい、と思った。

 危ない、と思った。


 その両方が、同じ場所にある。


 少し離れたあと、ジークムントはすぐには笑わなかった。ディアナも何も言えなかった。


 目が合う。


 逃げたい。


 逃げたくない。


 頭の中が滅茶苦茶だった。


「……逃げたくなった?」


 ジークムントが低く聞いた。


「……少し」


 少しだけ、本当だった。怖いのではない。嫌なのでもない。ただ、胸の奥がいっぱいで、どうしていいか分からない。


 けれど、扉は開いている。旧訓練棟へも帰れる。父さんたちのところへも戻れる。自分の足で、どこへでも走れる。


 その上で、ここにいる。


「でも」


 ディアナは息を吸った。


「逃げません」


 ジークムントの目が細くなった。


「今日の逃げませんは、かなり都合よく受け取るよ」

「知っています」


 知っていて、言った。


 この人が都合よく受け取ることも、離さない理由にすることも、もう分かっている。それでも、言葉を引っ込める気にはなれなかった。


「いいの?」

「……今のところは」

「ひどいね」

「逃げ道なので」


 ジークムントが笑った。


 声を立てるほどではない。けれど、胸の奥からほどけるような笑みだった。それを見た瞬間、ディアナはまた負けた気がした。


 この人の笑みはずるい。


 整った王子の微笑みでも、危険な男の笑みでもない。ほんの少しだけ、ジークムント本人の顔が見える笑い方。


 それを見るたび、逃げ道をひとつ盗られる。


 ディアナは額を、ジークムントの肩へそっと寄せた。


 自分から。


 そこまでしてから、ようやく気づいて固まった。


「今のは」

「戻っただけだろう?」

「……言い方」

「違う?」


 違わない。


 違わないから困る。


 ジークムントの手が、ディアナの背に触れた。優しく撫でるのではない。ただ、そこにある。逃げても追える。けれど、逃げないなら支える。そんな手だった。


「何度でも戻っておいで」


 低い声が落ちる。


「旧訓練棟へ帰っても、盗賊団のところへ走っても、王都へ盗みに出てもいい。君の逃げ道は消さない」


 そこで、少しだけ腕の力が強くなった。


「でも、戻る場所のひとつに私を入れたことだけは、もう返さない」


 最悪だ。


 けれど、嫌ではなかった。


「盗られたなら、盗り返します」

「何を?」

「ジーク様の隣です」


 ジークムントの手が止まった。


 勝った。


 今日、何度目か分からない勝ちだった。


 でも、勝った瞬間に、また別の何かに負ける気配がした。


「……ディアナ」

「はい」

「君は本当に、私を悪くする」

「もともと悪いです」

「うん」


 ジークムントは、ディアナを抱く腕に少しだけ力を込めた。口づけは、もう落ちてこない。ただ、近くにある気配だけが、ひどく甘い。


 ディアナは目を閉じた。逃げるためではない。少しだけ、この場所を覚えるために。


 茶の香り、火の温度、夕方の光。黒い輪と赤い宝石。ジークムントの腕。戻る場所のひとつ。


 たぶん、これからも何度も逃げ道を探す。腹が立ったら逃げるし、怖くなったら走るし、父さんたちのところへ帰る。旧訓練棟で騒ぎ、盗賊団と仕事をし、王城の裏を走り、ジークムントに文句を言う。


 それでも。


 戻る場所に、この人もいる。


 それを選んだのは、ディアナ自身だった。


「ジーク様」

「何」

「今日は、まだ帰りません」


 言ってから、恥ずかしくなった。


 けれど、言い直さなかった。


 ジークムントは、すぐには答えなかった。


 少しだけ沈黙して、それから、ひどく静かに笑った。


「そう」


 腕が、ほんの少しだけ強くなる。


「では、今日はここにいなさい」

「命令ですか」

「願いだよ」

「また願いですか」

「君が選べるようにね」


 ディアナは顔を上げた。


 ジークムントがこちらを見ている。深い青灰色の瞳。甘くて、危なくて、逃げ道を塞ぎたがるくせに、今は逃げ道を消さない人。


 ディアナはその目を見て、少しだけ笑った。


「なら、選びます」

「うん」

「ここにいます」


 ジークムントの笑みが、今度こそ崩れた。


 ほんの一瞬だけ。


 その一瞬を、ディアナはちゃんと見た。


 盗った。


 そう思った。


「ディアナ」

「はい」

「好きだよ」

「……私も、好きです」


 今度は、少しだけ言いやすかった。


 帰れる場所があるから。


 戻る場所があるから。


 この隣を、自分で選んだから。


 ジークムントが、ディアナの左手をもう一度取る。黒い輪が火の光を受けて鈍く銀を返し、赤い宝石が小さく光った。


 誰かに選ばれたからではない。


 この場所へ戻ることを選んだのは、ディアナ自身だった。


 だからディアナは、もう少しだけ逃げずにいた。


 戻る場所のひとつで。


 自分で盗った、甘い隣に。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ