番外編 盗賊娘、戻る場所を選ぶ
王国の後始末は、まだ終わっていない。
それでも、今日は珍しく旧訓練棟が静かだった。リュクスたちは王都南区へ出ている。ディアナも当然のようについていくつもりだったが、バルドに「泣いた後、熱を出した後、神話を還した後、全部まとめて休め」と言われ、カイルには無言で外套を取り上げられた。
盗賊団による連携拘束である。
ひどい。
そういうわけで、ディアナは今、離宮の小さな居間にいた。
窓の外は夕方に傾いている。庭の木々は柔らかい風に揺れ、白ではない小さな花が低い垣根のそばに咲いていた。部屋の中には火が入っている。暑すぎず、寒すぎず、けれど逃げ道を探すには少し快適すぎる温度だった。
卓の上には、焼き菓子と温かい茶が置かれている。書類はない。押収品もない。帳簿も、封じられた小箱も、香布も、札もない。
そのことに気づいた瞬間、ディアナは逆に警戒した。
「ジーク様」
向かいの椅子に座るジークムントは、いつものように整った顔でこちらを見た。銀白色の髪に夕方の光が差し、細い金の気配が一瞬だけ揺れる。深い青灰色の瞳は穏やかで、だからこそ余計に信用できない。
「何?」
「書類がありません」
「ないね」
「仕事は」
「今日はしない」
「罠ですか」
「君は甘やかされる予定を罠と呼ぶのかな」
「ジーク様が用意した時点で、だいたい罠です」
ジークムントは笑った。
「正しい警戒心だ」
褒められた。
ちっとも嬉しくない。
ディアナは焼き菓子を見た。小さな丸い菓子で、赤い実が練り込まれている。リュクス宛ての花束に混じっていた赤い実を思い出し、少しだけ顔が熱くなった。あの翌朝、ジークムントが本当に許可を取りに来た時のことは、今でも鮮明に思い出せる。
仮許可。
リュクスがものすごく嫌そうな顔で出した、あれ。
逃げ道を消すな。盗賊団アディンセルを取り上げるな。ディアナに選ばせろ。その条件は、いま書面になって、ディアナの手元にも一通ある。盗賊団の隠し箱にも一通ある。ジークムントの手元にもあり、サディアスが管理する写しまである。
婚約の仮許可が、なぜか契約書の形で残っている。
盗賊団らしいのか、ジークムントらしいのか、もうよく分からない。
「お茶が冷めるよ」
「安全ですか」
「普通の茶葉だよ」
「ジーク様の普通は信用しにくいです」
「私を何だと思っているのかな」
「ジーク様」
「それは答えになっている?」
「だいたい、なっています」
ジークムントは少しだけ楽しそうに目を細めた。
正解にされた気がして、腹立たしい。
ディアナは茶を飲み、焼き菓子を一つ取った。赤い実の酸味と柔らかい甘さが舌に広がる。おいしい。おいしいのが、また困る。
「気に入った?」
「……普通です」
「君の普通は分かりやすい」
「観察しないでください」
「善処するよ」
「その顔は、しない顔です」
ジークムントは否定しなかった。
けれど、今日は怒る力が少し弱い。部屋が温かいからかもしれない。茶がおいしいからかもしれない。王国の後始末から少しだけ離され、盗みに行くなと全員に止められ、何も盗らなくていい場所に置かれたからかもしれない。
落ち着かない。
落ち着くのに、落ち着かない。
「扉は開けてある」
ジークムントが言った。
ディアナは思わず扉を見た。確かに、居間の扉は細く開いている。廊下には誰もいない。足音も遠い。離宮を出れば、旧訓練棟へ戻る馬車もある。庭の外壁の低い場所も、もう覚えている。
「旧訓練棟へ戻るなら、馬車を呼ぶ。リュクスのところへ行きたいなら、使者も出せる」
「急に何ですか」
「条件を守っている」
「真面目ですね」
「仮許可を取り消されたくないからね」
「そこは本気なんですね」
「本気だよ」
さらりと言われて、返事に困った。
ジークムントは、こういう言葉を平然と差し込む。からかいのようで、からかいだけではない。甘いのに、少し危ない。逃げ道を残すと言いながら、戻る場所の方をこちらへ見せてくる。
ずるい。
本当にずるい。
「君が使うかどうかは、君が選べばいい」
ディアナは左手を握った。黒い輪の縁が、指に硬く返る。斜めに落ちる二つの縁のあいだに、赤い宝石が抱かれるようにはまっている。拘束具だったもの。偽物の国宝だったもの。今は、ディアナのものになった指輪。
「父さんたちのところにも、帰っていいんですよね」
「もちろん」
「盗賊団にも」
「君の家族だ」
「旧訓練棟にも」
「君の場所だろう」
いつもの声で返されるたび、胸の奥が少しずつ熱くなる。
だから、言えると思った。
言えないと思った。
どちらなのか、自分でもよく分からなかった。
「じゃあ」
声が思ったより小さくなった。
ジークムントは茶器へ伸ばしかけた手を止めた。
「ジーク様も」
言葉が喉で引っかかる。
これは確認だ。
確認であって、甘えたいわけではない。たぶん。いや、少しはそうかもしれない。でも、それを正面から認めるには、盗賊娘としての心の準備が足りない。
だから、確認だ。
「戻る場所の、ひとつなんですよね……?」
言った瞬間、部屋の音が消えた気がした。
火のはぜる小さな音も、庭の葉擦れも、遠くの足音も、全部が少し遠くなる。
ジークムントは、すぐには笑わなかった。
いつもなら、ひとつ、なんだ、と返したはずだ。私だけでは足りない? と甘い声で逃げ道を塞いだはずだ。それとも、欲張りだね、と楽しそうにからかったかもしれない。
けれど、ジークムントは黙っていた。
深い青灰色の瞳が、ただディアナを見ている。
まずい。
何かを刺した。
たぶん、かなり深く刺した。
「……それを」
落ちた声が、いつもより低い。
「私に聞く?」
ディアナは視線を泳がせた。
「聞かないと、勝手に戻ることになるので」
「勝手に戻っていいよ」
「それは、それで困ります」
「どうして?」
「……心の準備が」
言い終わる前に、ジークムントが手を差し出した。
引かれたわけではない。命じられたわけでもない。ただ、そこに手が置かれた。
見なかったことにもできる。茶を飲むふりもできる。焼き菓子を取って、盗賊なので甘いものを盗りますと誤魔化すこともできる。
でも、戻る場所のひとつだと言ったのは、自分だった。
ディアナは、そっとその手を取った。
ジークムントの指が、すぐには絡まない。待っている。ディアナが握るかどうかを、待っている。
腹立つ。
優しいのではなく、選ばせているのが腹立つ。
ディアナは少しだけ強く握った。
その瞬間、ジークムントが笑った。
いつもの余裕が少しだけ崩れた、危ない笑みだった。
「おいで」
「……命令ですか」
「願いだよ」
「願いが多いです」
「君が聞いてくれるからね」
「聞くとは言ってません」
「では、今から選んで」
最悪だ。
逃げ道を残されると、逃げないことを選ばなければならなくなる。
ディアナは立ち上がった。近づく。ジークムントは手を引かない。ただ、支える。ディアナが自分で一歩進み、もう一歩進み、ジークムントの前で止まる。
止まってから、気づいた。
これは。
かなり。
戻り方を間違えた気がする。
「ジーク様」
「うん」
「これ、私が思っていた戻り方と少し違います」
「そう?」
「そうです」
「降りる?」
まだ乗っていない。
乗っていないのに、降りると聞かれた。
つまり、この人は分かっている。分かった上で、逃げ道を残している。
ずるい。
あまりにもずるい。
「聞き方がずるいです」
「どう答える?」
「……戻る場所なので」
ディアナは、息を吸った。
「戻ります」
自分で言った。
言ってしまった。
ジークムントの指が、そこで初めて少し強くなる。引き寄せるほどではない。けれど、逃げたら追うと分かる力だった。
ディアナは、自分からジークムントの膝の上に座った。
足が床から離れた瞬間、胸の奥が跳ねる。前々世の名前を渡した夜の、痛みと震えを受け止められた膝上ではない。捕まった夜の、選べなかった膝上でもない。
今は、自分で来た。
逃げ道があるのに、来た。
その事実が、怖いくらい甘かった。
「……重くないですか」
「軽いよ」
「即答しないでください」
「事実だ」
「事実を武器にしないでください」
ジークムントの腕が、ゆっくり背に回る。
強くはない。
でも、確かだ。
ディアナの腰のあたりに添えられた手が、道を塞がない程度に、けれどここにいると分からせる程度に、温かい。
「降りる?」
「……降りません」
「そう」
ジークムントの声が低くなる。
「良い子だね」
「言うと思いました」
「言わない方がよかった?」
言われると腹が立つ。腹が立つのに、少しだけ安心する。そこが一番困る。
「……今のは忘れてください」
「断る」
本当に最悪だ。
ディアナは顔を背けようとした。背けた先にもジークムントの肩がある。近い。近すぎる。逃げ道はあるはずなのに、逃げた先までこの人の気配がある。
指輪の赤い宝石が、火の光を拾って小さく光った。
魔法の反応ではない。
ただの光だ。
それなのに、胸の奥まで熱くなる。
「ディアナ」
「はい」
「君は、私のところへ戻るために、ずいぶん可愛い言い訳をするようになったね」
「からかわないでください」
「無理かな」
「努力してください」
「努力はしている」
「どこがですか」
「今、君がどれだけ可愛いかを全部言わずにいる」
呼吸が止まった。
ずるい。
それは努力かもしれない。いや、違う。違うはずだ。でも、これ以上言われたら本当に逃げる。逃げないと言ったばかりなのに、逃げる。
「……ジーク様」
「何」
「そういうところです」
「どこ?」
「最悪なところ」
「知っている」
ジークムントは笑った。けれど、腕の力は少しだけ強くなった。
ディアナはその腕の中で、しばらく黙った。茶の香り。火の温度。夕方の光。黒い輪と赤い宝石。ジークムントの腕。戻る場所のひとつ。
全部が、現実だった。
女神の涙はもうない。国宝もない。運命の証もない。誰かが決めた役も、中心に置くための白い花も、ここにはない。
あるのは、ディアナが自分で選んだ距離だけだ。
「ジーク様」
「うん」
「私、ちゃんと言っていませんでした」
ジークムントの腕が、ほんの少しだけ止まる。
気づかれた。
何を言おうとしているか、たぶん気づかれた。
いつもなら、言わせる前にからかったはずだ。逃げ道を塞ぐような甘い声で、ほら、言ってごらん、とこちらを追い詰めたはずだ。
けれど、ジークムントは黙っていた。
待っている。
また、待っている。
腹立つ。
でも、今だけは少しありがたい。
ディアナは、ジークムントの上着を掴んだ。逃げるためではない。逃げないために。
「好きです」
言った。
言ってしまった。
胸の奥が、ひどい音を立てる。
ジークムントの腕が完全に止まった。
勝った。
そう思った次の瞬間、腰に回った腕が少しだけ強くなる。
「……ディアナ」
声が低い。
まずい。
勝ったと思ったのに、別のものに負けそうだ。
「今の言葉を、私がどれだけ都合よく受け取るか分かっている?」
「分かっていたら言いませんでした」
「なら、今から覚えるといい」
「怖いこと言ってます」
「私は怖い男だよ」
「知ってます」
この人は、優しいだけの男ではない。道を残してくれる。けれど、戻る場所に自分を選ばせたいと願う。願いと言いながら、こちらが選んだら絶対に離さない顔をする。
最悪で、危険で、甘い。
その人を、選んだ。
「好きです」
もう一度言うと、ジークムントが息を止めたのが分かった。
「選ばれたからじゃなくて、私が選んだので」
そこまで言って、限界だった。
ディアナは顔を伏せた。耳が熱い。頬も熱い。たぶん首まで赤い。盗賊として、証拠を残しすぎである。
ジークムントは、すぐには何も言わなかった。
からかわれないのが、逆に怖い。
ディアナはおそるおそる顔を上げた。
ジークムントが、こちらを見ていた。
整えそこねたような、無防備な笑みが、ほんの一瞬だけこぼれる。
その瞬間、ディアナの胸がまた変な音を立てた。
ずるい。
この人は、本当にずるい。
「……君は」
ジークムントの声が、少し掠れていた。
「私を悪くするのが上手い」
「もともと悪いです」
「そうだったね」
ジークムントは笑った。
いつもの余裕を取り戻そうとして、取り戻しきれていない笑みだった。
「でも、今のは君のせいにしていい?」
「よくないです」
「残念だ」
「全然残念そうじゃないです」
「嬉しいからね」
正面から言われると、逃げ場がない。
ディアナは唇を結んだ。言い返そうとして、何も出てこない。文句ならいくらでも言えるはずなのに、こういう時だけ言葉が盗まれる。
誰に。
目の前の第一王子に。
「ジーク様も、言ってください」
言ってから、自分で驚いた。
今日は、どうもおかしい。
甘やかされる予定だったからだろうか。旧訓練棟に置いていかれたからだろうか。扉が開いていて、帰れる場所があるからだろうか。
逃げられると分かっていると、言葉が少しだけ強くなる。
ジークムントの目が細くなった。
「何を?」
「分かってますよね」
「聞きたい」
「そういうところです」
「うん」
ジークムントは、ディアナの左手を取った。
黒い輪の赤い宝石が、火の光を受けて小さく光る。
「好きだよ」
低い声だった。
訓練庭で、耳元に落とされた声とは少し違う。あの時は言い逃げだった。ずるくて、甘くて、逃げ道を奪うような一言だった。
今は違う。
帰れる場所を見せたまま、目の前で言っている。
「君が盗賊団の娘であるところも、逃げ足が速いところも、腹が立つほど私を見ているところも、私から逃げようとして、結局戻る場所のひとつにしてしまうところも」
「細かいです」
「全部、好きだよ」
言葉が詰まった。
全部。
その言葉は、危ない。
何度も生きてきたことも、物語越しにこの世界を見ていたことも、盗賊娘として走る足も、泣いた後に笑うところも、怒りを持って盗みに行くところも。
全部、と言われた気がした。
ジークムントは、指輪の縁を親指でそっとなぞる。黒い輪。赤い宝石。かつて拘束具だったもの。今はディアナのものになったもの。
「触れても?」
聞かれた。
今さら、と言いかけて、やめた。
今さらではない。
この人は、聞く。
ディアナに選ばせるために。
「……はい」
ジークムントはディアナの左手を持ち上げた。
黒い輪の縁へ、唇が触れる。赤い宝石のすぐそば。
そこへ触れられた瞬間、胸の奥が熱くなった。あの日、左手へ無理やりはめられた偽の国宝。逃げ道を塞ぐための輪。父さんたちを人質に取られた証。それが今、ディアナの指で、ディアナのものとして、ジークムントの唇を受けている。
最悪だ。
最悪なのに、泣きそうになる。
「泣く?」
「泣きません」
「そう」
「泣いたら、またバルドに休めって言われるので」
「それは困るね」
「困るんですか」
「今日は、もう少し君を甘やかす予定だから」
甘やかす。
その言葉が、今日はやけに胸に悪い。
「甘やかすって、何をする気ですか」
「君が許す範囲で」
「逃げ道を残すんですね」
「約束したからね」
ジークムントの視線が、指輪からディアナへ上がる。
「口づけても?」
今度こそ、呼吸が止まった。
聞かれた。
聞かれてしまった。
聞かれなければ、怒れた。ずるいです、急です、最悪です、と言えた。けれど、聞かれると、選ばなければならない。
顔を背けてもいい。膝の上から降りてもいい。今日はここまでですと言って、旧訓練棟へ帰ることもできる。
でも。
戻る場所のひとつだと、自分で言った。
好きだと、自分で言った。
選んだと、自分で言った。
ディアナはジークムントの上着を掴んだ。
「……聞かないでください」
ジークムントの目が、わずかに揺れた。
「それは、ずるいね」
「ジーク様にだけは言われたくないです」
「では、もう一度聞くよ」
「え」
「嫌なら止める。嫌じゃないなら、君が選んで」
本当に。
本当に、この人は。
逃げ道を残すくせに、戻る場所をこちらへ差し出してくる。
ディアナは目を閉じなかった。
逃げたくなかった。
「嫌じゃ、ないです」
ジークムントの腕が止まる。
「……そう」
低い声だった。
少しだけ、危なかった。
「では、覚悟して」
「何の」
「私が、かなり喜んでいる」
「それを覚悟するんですか」
「うん」
笑いそうになった瞬間、ジークムントが近づいた。
唇が触れる。
ほんの少しだけ。
けれど、触れた場所から、音が消えた。
火の音も、葉擦れも、遠い廊下の気配も、全部が遠くなる。残ったのは、ジークムントの腕と、膝の上の温度と、唇に触れた柔らかさだけだった。
優しい、と思った。
危ない、と思った。
その両方が、同じ場所にある。
少し離れたあと、ジークムントはすぐには笑わなかった。ディアナも何も言えなかった。
目が合う。
逃げたい。
逃げたくない。
頭の中が滅茶苦茶だった。
「……逃げたくなった?」
ジークムントが低く聞いた。
「……少し」
少しだけ、本当だった。怖いのではない。嫌なのでもない。ただ、胸の奥がいっぱいで、どうしていいか分からない。
けれど、扉は開いている。旧訓練棟へも帰れる。父さんたちのところへも戻れる。自分の足で、どこへでも走れる。
その上で、ここにいる。
「でも」
ディアナは息を吸った。
「逃げません」
ジークムントの目が細くなった。
「今日の逃げませんは、かなり都合よく受け取るよ」
「知っています」
知っていて、言った。
この人が都合よく受け取ることも、離さない理由にすることも、もう分かっている。それでも、言葉を引っ込める気にはなれなかった。
「いいの?」
「……今のところは」
「ひどいね」
「逃げ道なので」
ジークムントが笑った。
声を立てるほどではない。けれど、胸の奥からほどけるような笑みだった。それを見た瞬間、ディアナはまた負けた気がした。
この人の笑みはずるい。
整った王子の微笑みでも、危険な男の笑みでもない。ほんの少しだけ、ジークムント本人の顔が見える笑い方。
それを見るたび、逃げ道をひとつ盗られる。
ディアナは額を、ジークムントの肩へそっと寄せた。
自分から。
そこまでしてから、ようやく気づいて固まった。
「今のは」
「戻っただけだろう?」
「……言い方」
「違う?」
違わない。
違わないから困る。
ジークムントの手が、ディアナの背に触れた。優しく撫でるのではない。ただ、そこにある。逃げても追える。けれど、逃げないなら支える。そんな手だった。
「何度でも戻っておいで」
低い声が落ちる。
「旧訓練棟へ帰っても、盗賊団のところへ走っても、王都へ盗みに出てもいい。君の逃げ道は消さない」
そこで、少しだけ腕の力が強くなった。
「でも、戻る場所のひとつに私を入れたことだけは、もう返さない」
最悪だ。
けれど、嫌ではなかった。
「盗られたなら、盗り返します」
「何を?」
「ジーク様の隣です」
ジークムントの手が止まった。
勝った。
今日、何度目か分からない勝ちだった。
でも、勝った瞬間に、また別の何かに負ける気配がした。
「……ディアナ」
「はい」
「君は本当に、私を悪くする」
「もともと悪いです」
「うん」
ジークムントは、ディアナを抱く腕に少しだけ力を込めた。口づけは、もう落ちてこない。ただ、近くにある気配だけが、ひどく甘い。
ディアナは目を閉じた。逃げるためではない。少しだけ、この場所を覚えるために。
茶の香り、火の温度、夕方の光。黒い輪と赤い宝石。ジークムントの腕。戻る場所のひとつ。
たぶん、これからも何度も逃げ道を探す。腹が立ったら逃げるし、怖くなったら走るし、父さんたちのところへ帰る。旧訓練棟で騒ぎ、盗賊団と仕事をし、王城の裏を走り、ジークムントに文句を言う。
それでも。
戻る場所に、この人もいる。
それを選んだのは、ディアナ自身だった。
「ジーク様」
「何」
「今日は、まだ帰りません」
言ってから、恥ずかしくなった。
けれど、言い直さなかった。
ジークムントは、すぐには答えなかった。
少しだけ沈黙して、それから、ひどく静かに笑った。
「そう」
腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「では、今日はここにいなさい」
「命令ですか」
「願いだよ」
「また願いですか」
「君が選べるようにね」
ディアナは顔を上げた。
ジークムントがこちらを見ている。深い青灰色の瞳。甘くて、危なくて、逃げ道を塞ぎたがるくせに、今は逃げ道を消さない人。
ディアナはその目を見て、少しだけ笑った。
「なら、選びます」
「うん」
「ここにいます」
ジークムントの笑みが、今度こそ崩れた。
ほんの一瞬だけ。
その一瞬を、ディアナはちゃんと見た。
盗った。
そう思った。
「ディアナ」
「はい」
「好きだよ」
「……私も、好きです」
今度は、少しだけ言いやすかった。
帰れる場所があるから。
戻る場所があるから。
この隣を、自分で選んだから。
ジークムントが、ディアナの左手をもう一度取る。黒い輪が火の光を受けて鈍く銀を返し、赤い宝石が小さく光った。
誰かに選ばれたからではない。
この場所へ戻ることを選んだのは、ディアナ自身だった。
だからディアナは、もう少しだけ逃げずにいた。
戻る場所のひとつで。
自分で盗った、甘い隣に。




