第二十六話 盗賊娘、噂の席に座る
茶会で盗むものは、宝石より面倒だ。
宝石なら、箱がある。鍵がある。見張りがいる。けれど噂には箱がない。誰かの口からこぼれた瞬間にはもう形を変えていて、拾った時には、最初に誰が落としたのか分からなくなっている。
しかもそれを、令嬢らしく座ったまま盗めと言われている。
難易度が高い。
「口元」
馬車の中で、向かいに座るジークムントが言った。
ディアナは反射で背筋を伸ばした。
「笑っています」
「引きつっている」
「努力はしています」
「努力の跡が見えすぎるね」
見ないでほしい。
ディアナは膝の上で、手袋をはめた左手を押さえた。白金色の指輪は、今日も布の下に隠れている。茶会に出るため、ロザリア先生が選んだ手袋は薄い生成りで、指先だけが少し細く見えるものだった。指輪の形を完全に消すほど厚くはない。けれど、遠目には分からない。
隠しすぎると不自然で、見えすぎると餌になる。
令嬢の装いは、盗賊の仕事より面倒だ。
「盗るものは覚えているね」
「噂の出どころ。誰が最初に置いたか。誰が拾わせたいか。誰に刺したいか」
「悪くない」
「褒められても嬉しくありません」
「なぜ?」
「仕事の内容が最悪なので」
ジークムントは少しだけ笑った。
銀白色の髪に、馬車の小窓から入る光が触れている。淡い金の気配が一瞬だけ差し、それから消えた。深い青灰色の瞳は、穏やかで、逃げ道のない色をしていた。
「止めようとしなくていい」
その声が、少しだけ低くなる。
「止めるのではなく、向きを見る。誰が拾うか。誰が笑うか。誰が目を逸らすか。誰がイレーネ嬢の名を出すか」
「……イレーネ様の名が出たら?」
「盗ればいい」
簡単に言う。
ものすごく簡単に言う。
「噂を、ですか」
「向きを」
嫌な指示だ。けれど、分かる。噂そのものは止められない。止めようとすれば、止めた者の手に汚れがつく。なら、流れを見て、刺さる先を少しずらす。
鍵穴に針を入れるのと同じだ。
力任せにこじ開ければ、壊れる。けれど、噛み合う場所をひとつ外せば、音もなく開く。
「君ならできるだろう」
「できる前提で置かないでください」
「できない?」
聞き方がずるい。
ディアナは窓の外へ視線を逃がした。王城の東棟が近づいている。磨かれた白い壁、整えられた植え込み、温室のガラス。迷いの森とは違う白だ。森の白は、根の下や石の隙間に沈んでいた。今見える白は、人に見られるために立っている。
その中へ、菫色の瞳の少女が迎え入れられようとしている。
名前は、まだ口にしない。
知っている名前が、喉の奥で小さく熱を持つ。けれど、それを今ここで出せば、なぜ知っているのかを問われる。ジークムントなら、問う。問わない顔で、逃げ道だけを塞ぐ。
だから、まだ言わない。
これは仕事だ。ジークムントの盤面のためで、盗賊団の仕事で、イレーネへ向かう棘の形を見るためでもある。
馬車が止まった。
扉の外でサディアスの声がする。会場は王城東棟にある小さな温室付きの広間だった。大きな夜会ほど派手ではない。けれど、小さい場ほど噂は濃くなる。逃げ場が少ないからだ。
ジークムントが先に降り、こちらへ手を差し出す。
その手を取る前に、ディアナは一度だけ息を吐いた。
盗るのは宝石ではない。
鍵もない。
重さもない。
けれど、刺さる先はある。
ディアナはジークムントの手を取った。
「行こうか」
「はい」
温室のガラス越しに、淡い花の匂いがした。
白花ではない。もっと薄く、飾りのために整えられた香りだ。花も、葉も、並ぶ椅子も、菓子皿も、すべてが柔らかく見えるように置かれている。
柔らかいものほど、扱いを間違えると痛い。
ディアナはそういうものを、知っている。
広間に入った瞬間、視線が集まった。
第一王子ジークムント。
その隣にいる、盗賊娘と噂される娘。
国宝に似た指輪をはめていると囁かれた娘。
そして、何度か社交の場に姿を見せて、まだ誰にも正体を測りきらせていない娘。
見世物。
やっぱり、言葉の選び方は合っていたと思う。
ジークムントはその視線を浴びても、涼しい顔をしていた。むしろ、視線の流れを拾っている。誰が驚いたか。誰がすぐ目を逸らしたか。誰がこちらを見たまま笑みを整えたか。
嫌な人だ。
でも、今はその嫌な人の目が頼りになる。
「殿下」
数人の令嬢が立ち上がり、優雅に礼をした。ディアナもロザリア先生に叩き込まれた通り、少し遅れて膝を折る。遅れすぎない。早すぎない。盗賊の膝ではなく、令嬢の膝。
膝にも種類があるらしい。
意味が分からないが、今は必要なので使う。
「急に失礼するよ」
ジークムントは穏やかに言った。
「彼女にも、王城の空気に慣れてもらいたくてね」
「まあ。殿下が直々に」
「大切な預かりものだから」
大切。
預かりもの。
言葉だけ聞くと、丁寧だ。けれどディアナには分かる。これは、所有牽制と餌と盤面の言葉を、薄い砂糖で包んだものだ。
砂糖菓子に毒を入れる技術が高い。
ジークムントはディアナを席の近くまで導き、そこで手を離した。
「私は少し外す。無理はしなくていい」
「無理をする場に置いてから言いますか」
「君なら、盗れるだろう」
小声だった。
耳元に落ちたその声に、ディアナは返事を間違えかけた。危ない。ここで変な顔をしたら、ロザリア先生がいなくても怒られる。たぶん、心の中で。
「……盗ってきます」
そう返すと、ジークムントがほんの少し笑った。
それだけで、また周囲の視線が動く。
見られた。
今のやり取りを、何人かが確実に見た。
そういうところだ。
あの人は、ただ手を離すだけでも意味を作る。
ジークムントが広間の端へ移動すると、令嬢たちの空気が少し緩んだ。完全には緩まない。第一王子が同じ空間にいるだけで、背筋は伸びる。けれど、直接話す相手がディアナになったことで、視線の針先がこちらへ寄った。
席に案内される。
正面ではなく、少し斜め向かいに、イレーネがいた。
黒絹の髪を結い上げ、淡い青灰のリボンを控えめに差している。氷青の瞳は、場の温度に流されず、静かに澄んでいた。初めて夜会で見た時と同じだ。冷たいのではない。乱れないように立っている人の目だ。
ディアナを見たイレーネが、ほんのわずかに目を細める。
挨拶より先に、気づいてくれた。
それだけで、少し息がしやすくなった。
「ディアナ様」
「イレーネ様」
互いに名を呼ぶ。たったそれだけで、周囲の令嬢たちの目が動いた。
知り合いなのか。
どの程度の仲なのか。
第一王子のそばにいる娘と、クリス殿下の婚約者が。
音はしない。
でも、視線はうるさい。
ディアナは微笑んだ。口元だけではなく、目元も。ロザリア先生に何度も言われた。笑顔は口で作るな。目元と肩で嘘をつけ。
令嬢教育、盗賊稼業に応用が利きすぎる。
「お会いできて嬉しいです」
「わたくしも」
イレーネの返事は短い。けれど、冷たくはなかった。余計なことを言わないことで、場の余白を守っている。
ああ、やっぱりこの人は素敵だ。
守りたい、と思うにはまだ早い。
仕事として来たのだ。
そう言い聞かせても、胸の奥ではもう答えが出ている。
席につくと、すぐに茶が運ばれた。薄い磁器の茶器に、琥珀色の液体が揺れる。菓子皿には、小さな焼き菓子と砂糖漬けの果実。甘い香りはするが、嫌な甘さではない。
バルドなら何と言うだろう。
そう考えた瞬間、少し落ち着いた。盗賊団は外にいる。ミロはどこかで使用人の噂を拾っているはずだ。ガロは出入りを見て、カイルは馬車を見て、ダンテは荷を見て、バルドは香を疑っている。
自分だけではない。
なら、座ったまま盗ればいい。
「そういえば」
薄桃色のドレスの令嬢が、柔らかく切り出した。
「最近、王城でとても美しい噂がございますわね」
来た。
ディアナは茶器を持つ指に力を入れすぎないよう気をつけた。力むな。割れる。茶器も、場も。
「美しい噂、ですか」
別の令嬢が、知っているくせに知らない顔で首を傾げる。
「ええ。菫色の瞳を持つお嬢様のお話ですわ。女神様の祝福を受けたような、たいそう清らかな方だとか」
清らかな。
その言葉が、ふわりと置かれた。
まだ誰も傷つけていない。まだ棘ではない。けれど、棘になるための先端は、もう磨かれている。
ディアナは茶器を置いた。
音を立てない。
慌てない。
盗賊が鍵穴に針を入れる時と同じだ。
「まあ。そのお話、どちらから?」
できるだけ、何も知らない顔で聞く。
薄桃色の令嬢が、少しだけ目を輝かせた。
「王城の侍女たちが話していたと聞きましたわ」
「教会の方からも、似たお話があったとか」
「女神様のお色ですものね。きっと特別な方なのでしょう」
王城。
侍女。
教会。
同じ言葉が、別の口から出る。
自然に広がった噂ではない。置かれている。拾いやすい場所に、拾いやすい言葉で。
撒かれた種が、一斉に芽を出す。
嫌な畑だ。
「イレーネ様は、ご存じでした?」
薄桃色の令嬢が、何気ない顔でイレーネへ向いた。
来た。
ディアナの背中に、冷たいものが走る。
まだ悪意とは言えない。けれど、向きは分かる。菫色の瞳の少女を持ち上げる話が、どうしてイレーネへ向くのか。クリス殿下の婚約者。王家に近い令嬢。凛として、隙がなく、冷たいと言われやすい人。
清らかな少女の噂は、比べる相手が置かれた瞬間に、棘になる。
イレーネは茶器を置いた。
音はしなかった。
「ええ。少しだけ」
声は静かだった。
「けれど、噂は噂ですわ。祝福という言葉を使うなら、なおさら軽く扱うべきではありません」
場が、ほんの少し止まった。
冷たい、と受け取る人もいるかもしれない。堅い、と笑う人もいるかもしれない。
でも違う。
これは、誰かを下げるためではなく、言葉を乱暴に扱わないための線だ。
ディアナは、膝の上で指先を握った。
ああ。
だから、この人は素敵なのだ。
「確かに、祝福という言葉は大きいですね」
ディアナは口を開いた。
令嬢たちの視線がこちらへ向く。
怖い。
でも、盗る。
「女神様の祝福だなんて、本人のいない場所で飾りのように使うには、少し重すぎます。イレーネ様は、その方を軽んじたのではなく、言葉を軽く扱わないようにとおっしゃったのだと思います」
薄桃色の令嬢が、笑みを整えたまま瞬きをした。
今、噛み合わせがひとつ外れた。
イレーネが冷たい、という向きへ行きかけた噂が、言葉を軽く扱う方が失礼、という向きへずれた。ほんの少しだ。けれど、ほんの少しでいい。
鍵穴の中で、針がひとつ噛んだ。
「それは……もちろん、その通りですわ」
「素敵な方だと伺ったからこそ、出どころもきちんとしていた方が、その方のためにもよい気がして。王城の侍女筋と、教会の方。どちらから先に出たお話なのでしょう」
問いを、もう一度置く。
ただし今度は、好奇心ではなく礼儀の形で。
祝福を軽く扱ってはいけない。
なら、その噂を軽く広げるのもよくない。
そういう形にして、戻す。
薄桃色の令嬢は、ほんのわずかに視線を右へ流した。
右。
窓際に座る、淡い若草色のドレスの令嬢。さっきから口数は少ない。けれど、菫色の瞳の話が出た時、最初に扇を開いたのは彼女だった。顔を隠すためではない。笑みを見せすぎないためだ。
そちらか。
ディアナは茶器を持ち直した。
「わたくしは、侍女から聞いただけですわ」
薄桃色の令嬢が言う。
「王城は広いので……どちらの方から伺ったお話か、私にも分かりますか」
聞きすぎると不自然だ。だからディアナは、少しだけ困ったように微笑んだ。
盗賊は、知らないふりをする。
知っているふりより、知らないふりの方が扉は開く。相手は教えたがる。教えることで、少し上に立てるからだ。
薄桃色の令嬢の表情が、ほんの少し緩んだ。
「王妃宮に出入りしている方だと聞きましたわ。直接の侍女ではなく、控えの方ですけれど」
王妃宮。
言葉が、ディアナの胸の中で沈んだ。
重い。
茶器より、ずっと。
若草色の令嬢が、そこで初めて口を開いた。
「けれど、教会からのお話もございますわ。明日の祝祷の席で、そのお嬢様が紹介されるかもしれないと」
「祝祷の席?」
イレーネが静かに聞き返す。
待っていた。
この話を、ここで出すために。
若草色の令嬢は、柔らかく微笑んだ。
「ええ。クリス殿下もお出ましになるそうですもの。女神様の祝福を受けた方がいらっしゃるなら、ご挨拶くらいはなさるのではなくて?」
場の空気が、もう一度動いた。
今度は、分かりやすかった。
クリス殿下。
菫色の瞳の少女。
祝祷の席。
そして、イレーネ。
点が並ぶ。
並べられている。
ディアナは息を整えた。ここで焦るな。焦れば、イレーネを守りたい気持ちごと見える。ジークムントにも、周囲にも。
イレーネは崩れない。
氷青の瞳は静かなままだ。茶器を持つ指も、背筋も、声の温度も変わらない。けれど、だからこそ、周囲は好きに意味を作る。
冷たい。
動じない。
嫉妬もしない。
愛されているのか分からない。
違う。
それは、乱れないように立っているだけだ。
「祝祷の席なら、なおさら軽い噂にしてはいけませんね」
ディアナは微笑んだ。
「クリス殿下も、イレーネ様も、王家と公爵家のお立場がありますもの。まだ正式に紹介されていない方のお話を、誰かと並べるように語ってしまっては、そのお嬢様も困るのではありませんか」
困る。
その言葉を置く。
菫色の瞳の少女を持ち上げる話が、誰かを比べる話になれば、その少女本人も困る。女神の祝福という言葉で飾られた、まだ顔も知らない少女。彼女を悪く言う必要はない。悪いのは、その名前も知らない少女を飾りにして、別の誰かへ棘を向ける手だ。
だから、そちらへ返す。
「清らかな方なのでしょう?」
ディアナは続けた。
「でしたら、なおさら。本人の知らないところで、勝手に誰かと比べるのはお気の毒です」
場が、少しだけ静まった。
若草色の令嬢の笑みが、薄くなる。
誰も責めていない。
けれど、続ければ下品になる。
そういう空気に変わった。
「……ディアナ様は、お優しいのですね」
薄桃色の令嬢が言った。
その言い方にも、少し棘があった。けれど、さっきより浅い。刺さる場所を探し直している棘だ。
ディアナは笑った。
「そう見えたなら、今日の支度がよほど上手くいったのだと思います」
場が、一瞬止まった。
言いすぎたか。
いや、盗賊娘と名乗るよりはましだ。たぶん。たぶん、ロザリア先生にもぎりぎり叱られない。
次の瞬間、小さな笑いがこぼれた。誰かが扇の陰で口元を隠す。別の令嬢が、困ったように目を伏せる。空気が、ほんの少し緩んだ。
重くなりすぎる前に、笑いへ逃がす。
優しさではなく、支度。
善意ではなく、立ち方。
そういうことにしておく。
「では、その支度で噂の出どころまで見抜いてしまわれるのかしら」
若草色の令嬢が言った。
笑っている。
けれど、今度は向こうもこちらを見ている。油断していない目だ。
ディアナは、茶器を置いた。
「そこまでは。今日は、お茶をいただきに来ただけですもの」
「今日は?」
イレーネの氷青の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
しまった。
いや、しまっていない。たぶん。たぶん大丈夫。
ディアナは微笑みを保つ。
「王城の茶会は、まだ慣れませんので」
苦しい。
けれど、嘘ではない。
ミロなら後で笑う。カイルなら眉を寄せる。父さんなら、余計なことを言うなと目で言う。ジークムントなら、きっと笑う。
今は笑わないでほしい。
広間の端を見ると、ジークムントは別の貴族と穏やかに話していた。こちらを見ていない。見ていないように見える。
絶対に見ている。
見ないでほしい時ほど、この人は見る。
茶会は、その後もしばらく続いた。菫色の瞳の少女の話は、完全には消えなかった。けれど、さっきほど軽くは扱われない。祝福という言葉を出すたびに、誰かが少しだけ慎重になる。
イレーネへ向きかけた視線も、一度薄まった。
勝った、というほど大きくはない。
けれど、盗った。
ほんの少しだけ、噂の向きを。
茶会が終わる頃、ディアナは焼き菓子の皿へ伸ばしかけた手を止めた。
若草色の令嬢が席を立つ。侍女がそっと寄る。その侍女の袖口に、薄い香が残っていた。白花ではない。けれど、白花香油に混ぜられていた甘い香と、少しだけ似ている。
これは、バルドに見せるものだ。
ディアナは、心の中でそう決めた。
さらに、扉の向こうで待つ別の侍女が、小さな封筒を受け取っているのが見えた。白い封蝋。王妃宮のものか、教会のものかまでは分からない。ただ、封筒を受け取った侍女は、茶会の主催者ではなく、控室の方へ向かった。
控室。
祝祷の席。
クリス殿下。
菫色の瞳の少女。
次の道が、見えた。
石畳ではない。
根の下でもない。
人の足と、席順と、控室と、馬車が作る道だ。
「ディアナ様」
イレーネに呼ばれ、ディアナは振り返った。
イレーネは静かに立っていた。崩れていない。乱れていない。けれど、その目は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「先ほどは、ありがとうございました」
「いえ。私は、その……思ったことを言っただけです」
「それが、難しい時もあります」
短い言葉だった。それだけで十分だった。
ディアナは胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。守れた、なんて言うには早い。救えた、なんて言えるほど大きなことはしていない。
今日、ひとつだけ。棘の先はイレーネから逸れた。
「また、お話しできますか」
ディアナが聞くと、イレーネは小さく頷いた。
「ええ。ぜひ」
それだけで、今日の仕事の半分くらいは報われた気がした。
半分。
残り半分は、たぶんこれからだ。
広間を出ると、ジークムントが待っていた。いつの間にか話を切り上げていたらしい。サディアスが少し後ろに控えている。
「盗れた?」
第一声がそれである。
余韻を返してほしい。
「少しだけ」
「悪くないね」
「褒める前に、もう少し別の言い方はありませんか」
「では、よくできました」
「それも違います」
ジークムントは笑った。
腹立たしい。腹立たしいのに、さっきまで張っていた背中が少しだけ緩む。最悪だ。
「何を見た?」
声が、仕事の温度に戻る。
ディアナは歩きながら、低く答えた。
「王妃宮に出入りする控えの侍女。教会から出た話。明日の祝祷の席。そこに、クリス殿下のお名前がありました」
「他には」
「控室へ運ばれた白い封筒を見ました」
「香は?」
「若草色のドレスの方についていた侍女から、白花香油に似た甘い香が少し。白花そのものではないと思います。バルドに見せたいです」
「見せるものを盗ってきた?」
「盗ってません。今日はお茶をいただきに来ただけなので」
「今日は」
そこを拾うな。
ジークムントの目が笑っている。けれど、すぐにその笑みは薄くなった。視線が、広間の奥ではなく、王城のもっと内側へ向く。
「明日の祝祷か」
「……会わせる気、ですよね」
「そのようだね」
誰と誰を、とは言わなかった。
言わなくても分かる。
菫色の瞳の少女。
クリス殿下。
そして、イレーネ。
ディアナは手袋の下の指輪を押さえた。指輪は静かだ。色を変えない。ただ、布越しに硬い輪郭だけがある。
今日、ひとつだけ棘の先は逸らせた。
けれど、その噂を置いた手は、茶会の席にはなかった。
王妃宮。
教会。
控室。
祝祷の席。
そして、誰かが誰かを会わせようとしている。
次に盗るべきものが、見えた。




