第二十五話 盗賊娘、人の流れを盗む
旧訓練棟の机の上に、森から盗ってきたものが並べられた。
白い欠片。石粉のついた布片。乾いた蔓。どれも宝石のように分かりやすい価値はない。売れば高い、という顔もしていない。けれど、ジークムントはそれらを見ていた。
銀白色の髪に、窓から入る薄い光が触れている。淡い金の気配が一瞬だけ差し、それからすぐに消える。深い青灰色の瞳は、欠片そのものではなく、欠片が置かれた位置を見ているようだった。ひとつずつ並べられたものの向こうに、別の線を引いている目だ。
嫌な目である。
見られているのは欠片なのに、なぜかこちらの逃げ道まで測られている気がする。
「これ、売れねえな」
ミロが机の端から白い欠片を覗き込んだ。
「売るな」
「言ってみただけだって」
「お前の言ってみただけは、半分本気だ」
「信用がない」
「実績がある」
リュクスに即座に切られ、ミロは肩をすくめた。反論しないあたり、自覚はあるらしい。バルドは包み布をほどかず、細い金具で白花の灰の位置を整えている。手袋越しでも触りたくない、という顔だ。カイルはディアナの少し後ろに立ち、机の上よりもディアナの左手を見ていた。
見なくていい。
指輪はもう、ただの白金色の輪に戻っている。森の奥で差した菫色は、今はどこにもない。ないはずなのに、手袋の下の中指だけが、まだ何かを覚えている気がした。
菫色。
森の欠片。
そして、菫色の瞳を持つ少女。
考えるな。考えると、余計なものまで思い出す。
いろいろ困る。
「殿下」
リュクスが低く呼んだ。
「で、これは何なんだ。森の奥まで入って盗らせたんだ。まさか、白い石ころを並べて満足する趣味じゃねえだろうな」
「趣味にしては手間がかかりすぎるね」
「否定だけしろ」
父さん、強い。
いや、相手がジークムントなので、そのくらいでちょうどいい。丁寧に聞くと、丁寧に逃げられる。この人は、逃げ道を塞ぐのも上手いが、自分の逃げ道を作るのも上手い。
ジークムントは白い欠片を見下ろしたまま、穏やかに言った。
「品物はもう足りている」
その場の空気が、少しだけ変わった。
ディアナは顔を上げる。リュクスも、カイルも、ミロも、バルドも、ジークムントを見た。サディアスだけが少し後ろで静かに立っている。最初からその言葉を聞くために控えていたような顔だった。
「足りている?」
ディアナは思わず聞き返した。
「白花、香、祈りの跡、森。答えではない。だが、同じ手が触れている」
ジークムントの声は、静かだった。
静かなのに、机の上の白い欠片が急に重く見えた。白花施療院。祈りの図譜。甘い香。迷いの森。ばらばらだったものが、きれいに並びすぎている。きれいすぎるものは、たいてい誰かが並べている。
盗賊なら、分かる。
偶然落ちたものと、見せるために置かれたものは違う。
「今欲しいのは、品物を運ぶ手だ」
ジークムントは続けた。
「神話をなぞる手がある。教会か、王城か、それとも両方か。そこを見る」
「見て、どうする」
リュクスが低く問う。
ジークムントは、少しだけ笑った。
「盤面に乗せる」
すぐには、誰も笑わなかった。
リュクスは机の上に並んだものを見下ろした。白い欠片。石粉のついた布片。白花の灰。どれも値のつく宝ではない。
「……なるほどな」
リュクスが低く息を吐いた。
「品を盗らせてたんじゃねえ。品を動かした奴の癖を見てたのか」
「癖は出る。祈りにも、荷にも、噂にも」
「性格が悪いな」
バルドがぼそりと言った。
「褒め言葉が多い日だね」
「褒めてねえ」
「王子様らしいってことだろ」
ミロが肩をすくめる。
「女神様だろうが教会だろうが、見つけたら机に並べる気なんだからさ」
「机に並べるだけで済めばいいね」
「済ませる気ねえだろ」
「さて」
答えになっていない。けれど、否定でもなかった。盗賊より性格が悪い。
盗賊は、見つけたものを盗るだけだ。ジークムントは、見つけたものを餌にして、取りに来た手まで捕まえる。その手ごと、自分の盤面へ引きずり込む。
王子様のやることではない。
いや、ジークムントにとっては、これが王子の仕事なのかもしれない。
最悪だ。
しかも、その最悪さが頼りになる。
推しでなければ、もっと素直に怖がれた。
「品じゃなく、品を動かした手を盗る。そういうことだな」
リュクスは机の上の欠片を見下ろした。
「盗賊らしい言い方をするなら、そうなる」
「最初からそう言え」
「最初から言えば、君たちは答えを盗ろうとしただろう」
「……違いねえな」
リュクスが舌打ちした。
反論ではない。納得の音だった。
ガロは王城の使用人区画から流れる噂を拾う顔をしている。ミロは噂が流れる場所を思い浮かべている。カイルの視線は、すでに人の出入りを拾う方へ向いていた。バルドは教会側から運ばれる品や香を疑い、ダンテは扉と窓と退路を見ている。
物を盗る仕事ではない。
人の流れを盗る仕事だ。
ディアナは左手を握った。手袋の下の指輪は静かだ。静かなのに、菫色という言葉だけが胸の奥に残っている。菫色の瞳の少女。地方出身。王城へ迎え入れられる。
知っている名前が、喉の奥まで上がってきた。
けれど、今ここで口にしてはいけない。
知っている理由を、説明できない。
まだ、できない。
「菫色の瞳の少女を、王城へ入れた者」
ジークムントが指を一本立てる。
「彼女を誰に会わせようとしているのか。噂をどこから流しているのか。君たちが拾うのはそこだ。少女本人に触れる必要はない」
「本人を盗るなってことだな」
ミロが言うと、ジークムントはにこりと笑った。
「触れれば、こちらの手が見える」
「近づきすぎるな、か」
「近づくなら、向こうから近づかせる」
「言い方が悪いな、王子様」
「分かりやすいだろう?」
分かりやすい。
そして、ものすごく性格が悪い。
菫色の瞳の少女本人を追うのではない。彼女へ近づこうとする手を見つける。彼女をどこへ運ぶのか、誰に会わせるのか、どの噂を先に置くのか。それを拾う。
少女ではなく、少女を運ぶ手。
盗るものが、変わった。
「ディアナ」
ジークムントに呼ばれ、肩が跳ねかけた。跳ねなかった。たぶん。たぶん大丈夫。
「はい」
「君には、噂の向きを見てもらう」
「噂の向き、ですか」
「その噂が、どこへ刺さるか見ておいで」
息が止まるかと思った。
ジークムントの声はいつも通りだった。甘く、穏やかで、逃げ道を塞ぐ声。けれど、言われた内容が嫌だった。嫌というより、当たっているのが腹立たしい。
刺さる。
その言い方で、分かってしまった。ジークムントは噂を、流れるものではなく刺すものとして見ている。
どの名前を持ち上げるために、どの名前を沈めるのか。どの笑顔の裏で、どんな棘が磨かれているのか。そういうものは、盗賊団で嫌というほど見た。
そして、別の人生でも、嫌というほど知っている。
「……それは、ジーク様の盤面のためですか」
「盤面に乗せると言っただろう」
ジークムントは笑った。
その言葉は嘘ではない。けれど全部でもない。多分、この人はディアナが何を見るかを見ようとしている。菫色の瞳の少女を聞いて、何に反応するか。誰の名を先に思い浮かべるか。
見ないでほしい時ほど、この人は見る。
最悪だ。
「分かりました」
ディアナは頷いた。
これは仕事だ。
ジークムントが見たいのは、菫色の瞳の少女ではなく、彼女へ伸びる手。
余計な意味をつけるには、まだ早い。
早いはずだ。
サディアスが一歩前へ出る。
「王城内では、すでに侍女筋が動いております。菫色の瞳の少女。女神の祝福。地方で見出された清らかな娘。言葉は柔らかいまま、広がりだけが早い」
「早すぎるな」
リュクスが呟く。
「自然な噂というより、撒かれた種が一斉に芽を出したように見えます」
「嫌な畑ですね」
言ってから、ディアナは少し後悔した。
女神。豊穣。芽。
嫌なつながり方をする。
ジークムントが笑った。
「いい表現だね」
「褒めないでください」
「なぜ?」
「嫌な予感が育つので」
笑うところではないのに、ミロが小さく噴いた。リュクスに睨まれて黙る。偉い。いや、遅い。
「社交界へは?」
ジークムントがサディアスに問う。
「まだ表立っては。ただ、今夜の小規模な茶会で話題に上がる可能性があります」
「誰の茶会」
「マルチェント公爵家と縁のある令嬢方が数名。クリス殿下の婚約者であるイレーネ様も、招かれているようです」
イレーネ。
その名前が出た瞬間、ディアナの中で音が変わった。
菫色の瞳の少女。女神の祝福。清らかな娘。
まだ棘ではない。
けれど、棘になる形は見えた。
柔らかい布でも、巻き方を間違えれば首を絞める。社交界の噂はそういうものだ。笑顔で差し出される言葉ほど、後から刺さる。
イレーネが、また。
ディアナは左手を握りしめた。指輪は色を変えない。変えないまま、手袋の下で重くなる。
「ディアナ」
ジークムントの声が落ちる。
見られている。
分かっている。
でも今は、逃げるより先に考えることがあった。
「その茶会の噂、拾えますか」
ディアナが言うと、ミロがにやりと笑った。
「拾うだけでいいのか、お嬢」
「流れも見る」
「なら、俺向きだな」
「ミロだけだと余計な噂も拾ってくる」
「信用がない」
「実績がある」
父さんの言葉を借りたら、ミロが胸を押さえた。傷ついた顔をしているが、たぶん三割くらいしか傷ついていない。
リュクスが名前を呼ぶより先に、皆の目が仕事の目に変わっていた。カイルの視線は、すでに人の出入りへ向いていた。ガロは使用人の動線、バルドは香、ダンテは荷。言葉にする前に、役割が決まっていく。
速い。
宝石箱を開ける時とは違う。鍵穴はない。見える宝もない。それでも、誰が誰へ言葉を運び、どこで向きを変え、誰に刺さる形へ整えられるのか。その流れを盗る。
これは、盗賊団の仕事だ。
そして、ディアナの仕事でもある。
「君も出るよ」
ジークムントが言った。
ディアナは一拍遅れて、ジークムントを見た。
「……私も、ですか」
「噂の向きを見るには、中にいる方が早い」
「盗みに入るなら、外からでもできます」
「その場に立たなければ、刺さる場所は分からない」
「言い方」
「事実だよ」
事実なのが余計に嫌だ。
ディアナは机の上の白い欠片を見た。森の奥で盗ったもの。答えではなく、道しるべ。今度の道しるべは石ではない。人の口から人の耳へ渡る、柔らかくて薄い道だ。
その道は、イレーネへ向かっているかもしれない。
なら、外から眺めているだけでは足りない。
「……招待状はありませんよ」
「私と行けばいい」
「目立ちます」
「目立つために連れて行く」
ひどい。
あまりにも堂々とひどい。
リュクスの眉間に深いしわが寄った。カイルも同じような顔をしている。ミロは楽しそうだったので、後で黙らせる。バルドは薬箱を閉じながら、面倒なことになったという顔をした。
「第一王子の連れとして顔を出す。君がそこにいるだけで、見る者は勝手に意味を作る」
「……また、見世物にする気ですか」
「否定はしない」
「してください」
「前にも言ったね」
「覚えてるならしてください」
してくれなかった。
「君を見た者は、必ず何かを選ぶ。近づくか、避けるか、探るか、黙るか」
「私で反応を見る気ですか」
「君で、ではないよ。君を見る者を、見る」
「……誰を見るんですか」
「目を逸らさなかった者から」
答えない顔だ。
最悪だ。
誰かが反応することを、もう数に入れている顔だった。
誰を、とは言わない。言わないところが、余計に嫌だった。けれど、今ここで問い詰めても、ジークムントは笑って違う答えを置くだけだ。
なら、使えるものは使う。
盗賊なので。
「行きます」
ディアナは言った。
「イレーネ様のいる茶会なら、噂がどこを向いているか見たいです」
「いい子だ」
「盗賊に言う言葉じゃないです」
「私の盗賊娘には言うよ」
やめてほしい。
こういう時に、そういう言い方をしないでほしい。仕事の話だ。イレーネの不穏だ。菫色の瞳の少女の噂だ。なのに、耳の奥に残る言葉だけが違う方向へ転がっていく。
最悪の推しである。
リュクスがものすごく嫌そうな顔をしていた。カイルも嫌そうだった。ミロは楽しそうだったので、やはり後で黙らせる。サディアスは静かに礼をし、すでに支度の段取りへ意識を移している顔だった。
動き出す。
森から戻ったばかりなのに、次の道はもう目の前にある。
今度の道は、石畳ではない。根の下にも隠れていない。白い欠片も落ちていない。
人の口から人の耳へ渡る、柔らかくて薄い道。
間違えれば、誰かを悪役へ連れていく道だ。
ディアナは手袋の下の指輪を、そっと押さえた。
あの少女を見に行くのではない。
イレーネを守りに行く、と言うには、まだ早い。
だから今は、仕事として行く。
噂の向きを盗みに行く。




