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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第二十四話 盗賊娘、迷いの森の奥へ入る


 迷いの森は、道を盗られたことを覚えているらしい。


 翌朝、森の外縁に戻ったディアナは、昨日見つけた石道の端を見て、まずそう思った。根の下に覗いていたはずの古い石畳は、半分ほど土に沈み、白花に似た印も苔に隠れかけている。昨日より見えにくい。昨日より森の影が濃い。森が夜のうちに、見つかったことを嫌がって、もう一度隠そうとしたようだった。


「性格悪い」


 思わず呟くと、ミロが隣でうなずいた。


「森に?」

「森に」

「今は?」

「今は」


 そこを拾わないでほしい。


 ディアナは外套の内側で羅針盤を開いた。妖精の加護を受けた小さな針は、昨日見つけた石道ではなく、その少し奥を指している。石畳は隠れているのに、針は迷わない。昨日盗った道を、まだ覚えている。


 助かる。助かるが、この森で一番迷っていないのは、羅針盤ではなくジークムントだった。


 ジークムントは少し離れた場所に立ち、森の奥を見ていた。銀白色の髪は木漏れ日を拾い、細い金の気配を一瞬だけ返す。深い青灰色の瞳は静かで、森の影にも、根の形にも、道の消え方にも驚いていない。昨日と同じだ。この森を知っている、というより、この森に拒まれていない。


 気になる。


 けれど、今は聞かない。聞けば、この人は笑って、答えになっているようで何も渡していない言葉を置く。最悪の推しである。


「昨日の石道は、この下だな」


 リュクスがしゃがみ、土を指で払った。土の表面は湿っているのに、指先に残る感触はさらさらしている。森の土にしては乾きすぎていた。リュクスが眉を寄せる。


「ガロ」

「ああ。足跡がない」


 ガロは木の根のそばに膝をつき、土と草の倒れ方を見た。昨日ここへ来たはずなのに、足跡がほとんど残っていない。草は戻り、土は均され、石の隙間に落ちていた白い灰だけが、わずかに残っている。


「森が消した、って言いたいところだけどよ」


 ミロが軽く言う。


「それ、笑い話で済まないから嫌」


 ディアナは羅針盤の針を見た。針は細く震えている。怖がっているのではない。急かしているようだった。早く行け、と。盗った道は、置いておくとまた隠れるぞ、と。


 嫌な羅針盤である。


「昨日より奥へ行く。だが、欲張るな」


 リュクスが言った。


「父さん、私を見て言ってる?」

「お前以外に誰に言う」

「信頼がない」

「信頼してるから、先に釘刺してんだよ」


 それはそれで逃げ道がない。


 バルドが小瓶を振った。昨日採った白花の灰が入っている。強く吸うなと言われたので、誰も近づきすぎていない。近づきすぎていないが、気になる。白い灰、古い石道、根の下の鍵。昨日、指輪に差した菫色。


 考えたくない。でも、見たい。盗賊として最悪の組み合わせだった。


「ディアナ」


 ジークムントに呼ばれ、ディアナは顔を上げた。ジークムントの足元から、黒鉄色の鎖が静かに滑り出す。昨日と同じように全員の位置を拾う線になり、森の影の上を音もなく走った。光を拾ったところだけ、鈍い銀を返す。


「位置は私が拾う。道は君が盗る。昨日と同じでいいね」

「私が失敗したら?」

「失敗した場所ごと拾う」

「怖い言い方しないでください」

「森の中では、怖い方が役に立つ」


 それはそう。それはそうだが、この人が言うと嫌だ。


 森より怖いものが、森の中にいる。


 カイルが、ものすごく嫌そうな顔をした。リュクスは何も言わない。言わないが、後で絶対に何か言う顔だ。ミロは口を開きかけて、バルドに肘で止められていた。偉い。今それを茶化したら、森より先に父の空気が怖くなる。


「……道だけ盗ります」


 ディアナは何とか言った。


「期待しているよ」


 期待の形が、罠に似ている。


 けれど鎖が伸びると、森の中で全員の距離が少しだけ分かりやすくなるのも事実だった。悔しい。とても悔しい。便利なのが一番腹立つ。


 ディアナは羅針盤を外套の内側に隠し、森へ足を踏み入れた。


 昨日盗った道は、すぐに姿を変えた。


 石畳の端を追っているはずなのに、三歩進むと石が消える。苔を避けて根を踏むと、今度は背後の木の位置が違って見える。鳥の声は近いのに、羽音は遠い。空は見えているのに、日差しは地面まで届かない。


 森に飲まれている。


 昨日、父が言った言葉が、足元からじわりと上がってきた。


「音が変だ」


 ガロが低く言った。


「前から水音がする。だが、地面は乾いてる」

「水場がある?」

「分からねえ。音だけかもしれん」


 ガロの声で、全員の足が少し遅くなる。ダンテは魔銃に手を添えたが、構えすぎない。銃口だけを、退路の外へ向けている。バルドは小さな布を口元に当て、空気の匂いを確かめている。ミロは軽口を飲み込み、枝の折れ方を見ていた。昨日より、皆が森の機嫌を疑っている。


 盗賊団が無能なわけではない。


 森が、本気で気持ち悪い。


「こっち、たぶん」


 ディアナは羅針盤を見ながら足を止めた。


「たぶんで行くのか」

「森相手に断言したくない」

「上等だ」


 針は左を指している。けれど、足が進みたがるのは右だ。森の中では、目で見た道と、身体が拾う道がずれる。昨日の石道と紙片の線を思い出す。真っ直ぐに見えた道が、根の下に隠れていた。


 見える道ではない。


 盗る道だ。


 ディアナは一歩下がり、足元の草を見た。草の倒れ方ではない。草の戻り方を見る。昨日、森は足跡を消していた。なら、消し方にも癖がある。完全に戻った草は怪しい。少しだけ戻りきっていない場所は、森が隠し損ねた場所だ。


「左」


 ディアナは右に見える木の根ではなく、左に見える茂みへ向かった。カイルがすぐ横につく。


「そこ、枝が低い」

「分かってる」

「分かってない時の速度だ」

「見ないで」


 身内が怖い。


 枝の下をくぐると、地面に白い石の欠片がひとつ見えた。石畳ではない。丸く削られた、小さな縁のようなものだ。指輪の輪ではない。けれど、輪を模した装飾の一部に見える。


 ディアナの指先が動く。


「触るな」


 バルドとリュクスとカイルに同時に言われた。


「まだ触ってない」

「触る前の手だ」

「盗る前の指だ」

「お前は一呼吸遅い」


 言い返せないのが悔しい。


 ジークムントが少しだけ笑った気がした。見ない。今は見ない。見たら負ける。推しの笑い声は森より危ない。


 バルドが膝をつき、石の欠片を細い金具でつついた。何も起きない。次に、昨日の白い灰をほんの少し近づける。白い灰は風もないのに、石の欠片へ吸い寄せられるように寄った。


「嫌な動きだな」


 バルドが呟く。


「持ち帰れる?」

「包めばな。ただし素手で触るな」

「触らないってば」

「お前の信用がない」

「今日は何回言われるの」


 数えたくない。


 バルドが石片を包む。その瞬間、手袋の下で中指の感触が変わった。冷えではない。熱でもない。金属の表面に、別の色が薄く乗ったような違和感。


 ディアナは手袋の縁を少しだけずらした。

 昨日より、見なかったことにしにくい。淡い菫が輪の縁に浮き、それからゆっくり沈んでいく。


 ディアナは息を止めた。


 ジークムントも見ていた。深い青灰色の瞳が、指輪ではなく、包まれた石片へ向く。


「また、菫色ですね」


 ディアナは小さく言った。


「そうだね」

「白花の灰と、石片と、森の奥。……嫌な並びです」

「嫌なら戻る?」

「戻ります。盗ってから」


 そう言うと、ジークムントがわずかに目を細めた。


 答えは、今ここで出すものではない。盗る。持ち帰る。並べる。後で、嫌でも繋がる。盗賊娘の仕事は、森の中で何かを解くことではない。


 森から、隠されたものを盗って帰ることだ。


「進めるか」


 リュクスが聞いた。


 ディアナは羅針盤を見る。針はまだ奥を指している。ただし、さっきより震えが大きい。奥へ行けと言っているのか、奥に行くなと言っているのか、どちらにも見える。


「少しだけ。石片があったなら、元の場所があるはず」


 リュクスは一拍だけディアナを見た。それから頷く。


「少しだけだ」

「うん」


 森の奥は、昨日の外縁とは違っていた。


 木々の幹が太くなり、根が石道を抱き込んでいる。白い苔はところどころに増え、足を踏み出すたびに靴底の下で乾いた音がした。湿った森なのに、そこだけ古い紙を踏んでいるような音がする。耳が嫌がる音だった。


 ミロが小さく肩をすくめる。


「なあ、お嬢」

「何」

「俺、さっきから同じ枝を三回見てる気がする」

「私は同じ石を二回見た」

「負けた」

「勝負してない」


 軽口を叩きながらも、ミロの視線は鋭い。ガロが木に小さく刻みをつける。だが、次に振り返った時、その刻みは反対側の幹にあった。ダンテは撃たない。撃たないまま、森の外側だけを見ている。撃ってどうにかなる森ではない。


「枝の折れ方が戻ってる」


 ミロが言った。


「折った枝が?」

「いや、折れてないことにされてる。森、几帳面すぎ」

「嫌な几帳面さだね」

「だから、戻りきってないところを見る」


 ミロは軽く言って、足元の蔓を指で引いた。蔓は地面に沿って不自然に曲がっている。誰かが踏んだ後を隠そうとして、曲がり方だけが残ったみたいだった。


 リュクスが頷く。


「拾え」

「はいよ」


 ミロが蔓の端に小さく布切れを結ぶ。森に消されるかもしれない。それでも、何もしないよりはいい。盗賊団は、完璧な道具だけで動くわけではない。消されるなら、消され方も見る。


 ジークムントだけが、歩幅を変えなかった。


 黒鉄色の鎖は全員の周囲をゆるく走っている。時々、鎖の一部が木の根を越え、石の隙間をなぞり、森がずらした距離を測るように動く。迷っているのではない。確認しているだけだ。


 ジークムントだけが、少し先の根を見ていた。


 まだ誰もそこを道だと気づいていない。羅針盤の針も、ようやくそちらへ傾きかけている。


 なのに、この人はもう見ている。


 どうして、この人は迷わないのだろう。


 ディアナは喉まで出かけた疑問を飲み込んだ。今は聞かない。聞くと、違う扉が開く気がする。森の奥にあるものより、ジークムントの奥にあるものを覗くことになりそうで、怖い。


 今は、道だ。


 ディアナは足元を見た。白い苔が切れている場所がある。そこだけ、根の流れが不自然に避けている。石畳ではなく、円を描くような縁。古い礼拝地の外枠か、道を閉じるための境目か。


「止まって」


 ディアナが声を落とすと、全員が止まった。


 森の奥に、小さな空間があった。


 広場というほど広くはない。木々の根が円を描き、その中央に低い石壇が半分埋もれている。石壇の上には何もない。ただ、白花の灰が薄く残り、石の表面には輪のような線と、花にも足跡にも見える古い彫りがあった。


 祈りの跡に見えた。


 そう見えてしまうのが、少し嫌だった。


 空気が冷える。嫌な冷たさではない。白花施療院で感じた静けさに、少しだけ似ていた。思い出しかけて、ディアナは瞬きをする。


 今は、目の前にあるものを見る。


「こんな森の中に?」


 カイルが低く言った。


「森が後から飲んだのか、最初から森の中だったのかは分からねえ」


 リュクスの声が重くなる。


 分からない。


 分からないものが多すぎる。


 バルドが石壇へ近づこうとして、足を止めた。石壇の周囲に、細い溝がある。円を描く溝。水路のようにも、境界線のようにも見える。


「踏むな」


 ジークムントが言った。


 声は穏やかだったが、全員の足が止まるには十分だった。


「分かるんですか」

「分かるというより、踏ませたくない」

「それ、分かってる人の言い方ですよね」

「そう聞こえる?」


 聞こえる。


 ただし、ここで問い詰めても、この人はたぶん何も渡さない。


 ジークムントの鎖が石壇の周囲を滑った。溝に沿って、黒鉄色の鎖が半円を描く。光を拾うと鈍い銀を返し、白い灰の上に影を落とす。しばらくして、鎖の先が石壇の奥で止まった。


 かちり。


 昨日と同じ、小さな音。


 けれど今日は、その奥で石が開いた。


 石壇の側面に、指二本分ほどの隙間ができる。中にあったのは、小さな白い欠片だった。石か、焼け残った陶片か分からない。白花の形に似ているが、花びらの一部だけが欠けている。表面には、淡い菫色の細い線が一筋だけ走っていた。


 中指に触れる金属の感触が変わった。


 冷えでも、熱でもない。ただ、白金色の輪の表面に、別の何かが乗ったような違和感。ディアナは手袋の縁を少しだけずらした。


 指輪に、菫色が差していた。


 昨日より、見なかったことにしにくい。淡い菫が輪の縁に浮き、それからゆっくり沈んでいく。


 誰も、すぐには喋らなかった。


 森の音が遠い。


 ディアナは自分の左手を見つめた。偽のはずの指輪。香りのしない拘束具。ジークムントが作った、彼のものだと示すための輪。それが、森の奥に隠された欠片へ反応している。


 便利な道具ではない。


 これはたぶん、もっと面倒なものだ。


「盗れる?」


 リュクスの声で、ディアナは息を戻した。


 バルドが石壇の隙間を見て、顔をしかめる。


「取れる。だが、周りの灰ごと包む。欠片だけ抜くと割れるかもしれん」

「じゃあ周りごと」

「簡単に言うな」

「難しくても盗るでしょ」

「お前のそういうところはリュクスに似たな」


 父が少しだけ笑った。


 ディアナも少しだけ笑いそうになった。笑っている場合ではない。けれど、笑わないと森に飲まれそうだった。


 バルドが作業に入る。カイルがその横で枝を払い、ミロが周囲を見る。ガロは音を拾い、ダンテは石壇ではなく森の外側へ注意を向けている。リュクスは全体を見ていた。


 ジークムントの視線が、石壇から左手へ移る。


 最後に、ディアナへ戻った。


 見すぎである。


「見ないでください」

「難しいね」

「難しくしないでください」


 難しくない。見なければいいだけだ。


 そう言いたかったが、言えなかった。ジークムントが見ているからこそ、森の中で取りこぼされていないものもある。逃げ道を塞ぐ目。嘘を拾う目。人を手駒にする目。


 嫌な目だ。


 けれど、今はその嫌な目が味方の位置を拾っている。


 最悪だ。


 バルドが欠片を包み終えた瞬間、森が揺れた。


 風ではない。木々の位置が、わずかにずれた。来た道が閉じる。さっきまで見えていた石畳の端が、根の影へ沈む。鳥の声が消え、代わりに誰かの足音のようなものが右奥から聞こえた。


「戻るぞ」


 リュクスの声が低く飛んだ。


 全員が動く。ディアナは羅針盤を開いた。針が揺れている。揺れて、止まらない。帰り道を拾おうとしているのに、森が針の周りで道を動かしている。


「針が暴れてる」


 ディアナが言うと、ジークムントの鎖が一気に伸びた。


 黒鉄色の線が地面を走り、木の根を越え、全員の足元を拾う。拘束ではない。位置の確認。だが、昨日より鎖の数が多い。森が人数を減らす前に、先に数を数えている。


「声を信じるな。鎖の内側から出るな」


 ジークムントの声は静かだった。


 その静けさが、逆に怖い。


 ミロの左側から、ミロの声が聞こえた。


「お嬢、こっち」


 本物のミロは右後ろにいる。


 ディアナは足を止めた。止めた瞬間、左の茂みが深く沈む。踏み込んでいたら、根の間に落ちていたかもしれない。


「性格悪い!」


 今度は大きめに言った。


「森に?」

「森に!」


 ミロ本人が後ろで返した。まだ軽口が返る。なら大丈夫。たぶん大丈夫。大丈夫ということにする。


 羅針盤の針はまだ定まらない。昨日盗った道が、森の奥でほどけている。ディアナは唇を噛んだ。考えろ。いや、考えすぎるな。盗る時は、手が先に答えを拾う。


 来た時、石道は見えなかった。けれど草の戻り方、苔の切れ目、根の避け方が道を教えていた。戻る道も同じだ。森が消すなら、消し跡を見る。


「右じゃない。正面でもない。……下」


「下?」


 カイルが聞き返す。


「石道が、根の下をくぐってる」


 ディアナはしゃがみ、木の根の隙間に手を伸ばした。カイルがすぐに腕を掴む。止めるためではない。落ちた時に引くためだ。


「届く?」

「届かせる」


 盗賊なので。


 指先が石に触れた。冷たい。古い。白花の印はないが、石の目地がある。道だ。森が根の下に隠した道。


「こっち。根の下を回る」


 リュクスが頷いた。


「低く行け。枝に引っかかるな。ダンテ、後ろ」

「ああ」


 動き出した瞬間、森の奥で何かがざわめいた。人の気配にも、獣の気配にも似ている。だが、追ってくるというより、こちらを数えている感じがした。


 気持ち悪い。


 ものすごく気持ち悪い。


 ディアナは根の下をくぐり、石道の端を踏む。カイルが続き、ミロがその後ろで「俺の足長いんだけど」と小声で文句を言い、ガロに頭を押された。リュクスは最後まで森の奥を見てから動く。ジークムントは迷わない。鎖の中心にいるのに、誰よりも森の外へ近い場所を知っている顔をしていた。


 なぜ。また疑問が浮かぶ。飲み込む。


 今は、戻る。


 森は何度か道をずらした。右からリュクスの声が聞こえ、左からカイルの足音がして、正面にさっきの石壇がちらついた。全部、信じない。信じるのは羅針盤と、石の感触と、仲間の本物の位置。それから、足元を走る黒鉄色の鎖。


 悔しいが、鎖は頼りになった。


 森の外の光が見えた時、ディアナはようやく息を吐いた。


 あと少し。


 そう思った瞬間、足元の土が崩れた。


「ディアナ」


 ジークムントの声が近かった。


 黒鉄色の鎖が腰に絡むより早く、ディアナは石の端を蹴った。転ぶ。いや、転ばない。転びながら姿勢を変える。盗賊団で何度もやった逃げ方だ。落ちるなら、落ちながら盗る。倒れるなら、倒れながら掴む。


 指先が鎖に触れた。


 黒鉄色の鎖は冷たいと思っていた。


 けれど、触れた瞬間、思ったより冷たくなかった。金属の硬さはある。拘束具の重さもある。けれど、引きずるための力ではなく、そこにいると知らせるための線だった。


 ディアナは、その鎖を自分から握った。


 黒鉄色の鎖が、一瞬だけ止まる。


 すぐに、ジークムントの声が落ちた。


「そのまま。離すな」


 命令だった。


 いつものように逃げ道を塞ぐ声ではない。森の中で、位置を失わないための声だった。


「離しません」


 反射で答えてから、ディアナは自分の声に少し遅れて気づいた。


「……はぐれたら困るので」


 言い足した理由は、森に向けたものなのか、ジークムントに向けたものなのか、自分でも分からなかった。


 ジークムントは笑わなかった。引かれると思った。いつものように、逃げ道を奪われると思った。


 けれど、鎖は強く引かなかった。ただ、ディアナの手の中で少しだけ緩む。歩幅を合わせるように、長さを変えた。


 ディアナは何も言えなくなった。


「ディアナ」


 カイルがすぐそばで声をかける。


「立てるか?」

「立てる」

「手、離せるか?」

「……離せる」


 離せる。


 離せるはずだった。


 だが、森の出口までは離さなかった。カイルは何か言いかけて、言わなかった。リュクスも見ていたが、茶化さなかった。ミロでさえ、今日は口を閉じていた。偉い。とても偉い。明日何か言われる気がするが、今は偉い。


 森の外へ出ると、音が戻った。


 鳥の声、風、馬の鼻息。普通の世界の音が、一斉に耳へ入ってくる。ディアナはようやく鎖から手を離した。指に金属の感触が残っている。手袋越しなのに、まだ残っている気がした。


 ジークムントの鎖は、するすると足元へ戻っていく。


 意味を考えるな。


 考えたら負ける。


「盗ったな」


 リュクスが低く言った。


 ディアナは顔を上げる。バルドの手には、白い欠片を包んだ布。ガロの手には森の奥で拾った木片。ミロは途中で抜いたらしい細い蔓を持っている。いつの間に。ダンテは何も持っていないように見えて、袖の内側に石粉のついた布片を挟んでいた。


 盗賊団は、ちゃんと盗っていた。


 それが、妙に安心する。


「盗った」


 ディアナは頷いた。


「道と、欠片と、森の嫌がり方を少し」

「最後のは高く売れなさそうだな」

「でも次に使える」

「なら上等だ」


 父の手が、ぽん、とディアナの頭に乗った。昨日と同じ、戻った確認。けれど今日は少しだけ重い。森の奥へ入って、戻ってきた重さだ。


 ジークムントは少し離れたところで、包まれた白い欠片を見ていた。指輪に差した色のことを、まだ何も言わない。言わないが、忘れる顔ではない。絶対に覚えている。指輪の色も、森の奥の石壇も、ディアナが鎖を握ったことも。


 全部。


 最悪だ。


 王城へ戻る馬車の中で、ディアナはずっと左手を膝の上に置いていた。手袋の下の指輪は、もう色を消している。ただの白金色の輪に戻っていた。


 偽のはずの指輪。

 香りのしない、ジークムントの拘束具。

 それが、森の奥に隠された欠片へ反応している。


 考えるな。考えたら、いろいろ負ける。鎖の感触まで思い出しそうになって、ディアナは窓の外を見た。


 王城へ戻る頃には、空の色が薄く傾いていた。旧訓練棟へ向かう前に、サディアスが馬車のそばへ来る。いつもの整った顔で礼をし、ジークムントへ何かを告げようとして、ちらりとディアナを見た。


 嫌な予感がした。


 こういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。


「殿下。教会側に動きがございます」


 サディアスの声は静かだった。


「続けて」


「白花施療院とは別筋ですが、王都へ迎え入れる準備が進んでいる少女がいるようです。菫色の瞳を持つ、地方出身の少女だと」


 菫色。


 ディアナの左手は、動かなかった。

 指輪も、色を変えない。


 それでも、その色だけが耳に残った。


 ジークムントの視線が、こちらへ落ちる。


 今だけは、その目から逃げたかった。


 ディアナは息を吸った。胸の奥で、何かが小さく鳴る。怖いでも、嫌だでも、嬉しいでもない。まだ名前をつけてはいけない音だった。


 森からは戻った。けれど、次の道はもう動き出している。


 ディアナは膝の上の左手を、そっと握った。


 今日は、森の奥の欠片を盗った。


 次に盗るものは、まだ見えない。


 けれど、菫色の瞳の少女が王都へ来るなら。


 今度は、こちらが先に盗りに行く番だ。


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