第二十三話 盗賊娘、迷いの森の道を盗む
紙は、思ったよりわがままだった。
旧訓練棟の作業机には、紙の竜、古物市で盗った底紙の端、ミロたちが荷車の列から拾ってきた古紙の束が並べられている。紙の竜は薄板に挟まれ、底紙の端は薄布に包まれ、古紙の束はバルドが「触るな」と言ったので、誰も触っていない。正確には、手がうずいたミロが二回ほど指を伸ばし、そのたびにバルドに睨まれた。
「紙って、こんなに面倒だったっけ」
ディアナが呟くと、バルドが湿らせた布を絞りながら言った。
「面倒なのは紙じゃねえ。紙に変なもん混ぜた奴だ」
「エリアスさんみたいなこと言い出した」
「誰だそれ」
「紙が死ぬ人」
「会っただけで面倒そうだな」
合っている。
古物市から戻ってきたばかりなのに、旧訓練棟の空気はもう仕事場の匂いになっていた。薬包、革紐、短剣の油、乾いた土、古い木の机。窓には障壁が薄く光り、扉の外には警衛騎士が立っている。自由になったわけではない。けれど、机の周りに父と仲間がいて、道具があり、盗るべきものがある。
それだけで、少し息がしやすい。
ジークムントは作業机の向かいに立っていた。銀白色の髪が窓から入る光を拾い、淡い金の気配を一瞬だけ返している。表情は穏やかだ。穏やかなのに、深い青灰色の瞳は紙片からディアナの左手まで、一度も見落としていない気配がする。
バルドは小皿に水を落とし、布の端をつけた。水ではなく、湿り気だけを移すように慎重な動きだ。毒針や薬包を扱う時と同じで、雑に見えて雑ではない。リュクスは腕を組んでそれを見ている。カイルは机の角に手を置き、ディアナが紙へ寄りすぎないよう、さりげなく位置を取っていた。邪魔ではない。たぶん。手が伸びすぎた時に止めるための、身内の配置だ。
「やりすぎるなよ」
リュクスが言う。
「分かってる」
「お前、薬草は容赦なく煮るからな」
「紙は煮ねえ」
バルドは布を底紙の端へそっと置いた。水滴は落ちない。ただ、湿り気だけが紙に移る。しばらく何も起きなかった。ミロが息を止める。ガロは窓の外を見ながら、こちらの気配も拾っている。ダンテは扉の近くで無言だが、視線だけは紙から離れていない。
そして、紙の表面がわずかに変わった。
白花に見えていた紋様の内側から、別の繊維が浮く。薄い灰色。水を吸ったところだけ、細い線が影のように現れる。花びらではない。石畳の目地だ。道だ。いや、道だったものだ。欠けた線が三つ、紙の端で途切れている。
「……これ、花じゃない」
ディアナは息を落とした。
「道、だな」
リュクスが低く言った。
「道?」
「迷いの森の外縁に、古い石道がある。今はほとんど埋まってるが、昔、森の手前まで礼拝道が続いていたって話は聞いたことがある」
「父さん、それ知ってたの?」
「知ってるだけだ。使える道じゃねえ。森に飲まれてる」
森に飲まれている。
その言い方だけで、背中の奥が少し冷えた。迷いの森。ディアナたちが盗んだ国宝を抱えて逃げ込み、そして捕まった場所。木々が形を変え、人を惑わせ、普通の感覚では抜けられない森。そこへ、もう一度入る。
嫌だ。
そう思うより先に、指先が動いた。
行くのだ、と身体の方が決めている。
「石道が森に飲まれているなら、外からは見えない。紙の線と、現地の石を合わせる必要があるね」
ジークムントが言った。
「今ですか」
「日が高い。森の外縁を見るには十分だ」
「決断が早い」
「君たちは、道が見えたら走るんだろう?」
言われた。
言われたが、その通りなので困る。
ディアナは外套の内側へ指を滑らせた。布の奥、縫い目の下。小さな硬い輪郭がある。妖精の加護がある羅針盤。ずっと隠し持っていたものだ。
ジークムントには、たぶんばれている。
けれど、言わない。
言わないなら、こちらも言わない。
盗賊なので。
「ディアナ」
リュクスの声が低くなる。
「持ってるな」
「うん」
「ならいい」
それだけだった。盗賊団の確認は短い。持っているか。使えるか。走れるか。必要なのはそれだけだ。
ジークムントの視線が、ほんの少しだけディアナの外套に落ちた。
「準備がいいね」
「盗賊なので」
「便利な言葉だ」
「使えるものは使います」
ジークムントは楽しそうに目を細めた。ばれている。やっぱりばれている。だが、取り上げる気はなさそうだった。そこは助かる。助かるが、見逃されているみたいで落ち着かない。
迷いの森は、王都の北東にある。
王城から馬車で途中まで進み、そこからは徒歩だった。舗装された道は途中で途切れ、草の間に古い石畳が見え隠れする。日差しはまだ明るいのに、森の入り口だけ影が濃かった。木々の枝が絡み合い、葉の裏が風もないのに揺れている。遠くで鳥が鳴いたはずなのに、音が途中で切れた。
ディアナは外套の内側で羅針盤を開いた。
ここだ。
あの日、走って、息を切らして、革袋を抱え込んで、次の瞬間には地面に縫い付けられた場所。ジークムントの銀白色の髪を見て、前世の記憶が流れ込み、推しだと気づいて、詰んだ場所。
思い出したくないこともある。
だが、盗り逃したものもある。
「足、急いでるぞ」
カイルが横で言った。
「急いでない」
「獲物を見つけた時の足だ」
「見ないで」
身内が怖い。
ミロは森の入り口を見上げ、軽く口笛を吹いた。
「お嬢、ここで捕まったんだっけ」
「そう」
「じゃあ取り返しに来た感じ?」
「何を」
「負け分」
「賭場じゃない」
でも、少しだけ近い。
負けた場所へ戻る。盗られたままにしておくのは、性に合わない。
ジークムントは森の手前で立ち止まった。銀白色の髪が木陰で少し暗く見える。深い青灰色の瞳は、森の奥ではなく、木々の隙間、地面の石、風の止まる位置を見ていた。
「この森は、人数を減らすのがうまい」
穏やかな声だった。
だから余計に、言葉だけが冷える。
「経験談ですか」
聞いてから、少しだけ後悔した。軽口で受けるには、声が静かすぎた。
ジークムントはディアナを見た。
「そうだね。置いていかれたことがある」
それだけだった。
同情を求める声ではない。傷を見せる声でもない。ただ、道具の性質を説明するような言い方だった。刃物は切れる。毒は回る。この森は人を減らす。私は置いていかれたことがある。そういう種類の事実。
ディアナは、何も言えなかった。
この人は、可哀想な王子ではない。叩かれた紙の竜を見ても、怒らなかった。今も、自分が置いていかれたことを、怒るでも悲しむでもなく、ただ見ている。
それが、少し怖い。
「だから」
ジークムントの足元から、黒鉄色の鎖が滑り出した。
地面を這う音はほとんどしない。森の影から生まれたように、鎖はリュクスたちの周囲へ伸び、輪を作るのではなく、距離を測る線のように広がった。光を拾ったところだけ、鈍い銀を返す。拘束するには緩く、無視するには存在が強い。
「位置は私が拾う。道は羅針盤を見る。役割を混ぜない方がいい」
「鎖で道案内はしないんですか」
「した方がいい?」
「いいえ。たぶん、腹が立つので」
「正直だね」
道は羅針盤で見る。
位置は鎖が拾う。
分けてくれるのは助かる。助かるのに、やっぱり逃げ道を管理されている感じがして落ち着かない。ジークムントの鎖は、いつでもディアナを捕まえられる。けれど今は、誰かが消えた時に拾うためにある。
同じ鎖なのに、少し違って見えるのが嫌だった。
「全員、森の音を信じるな」
リュクスが低く言った。
「見えたものも半分疑え。羅針盤と互いの位置だけ見る。声が聞こえても、勝手に動くな」
「お頭の声でも?」
「俺の声でもだ」
「じゃあ俺の声は?」
「最初から疑え」
「扱いがひどい」
「普段の積み重ねだ」
カイルが言った。
ミロが不満そうに肩をすくめる。軽口があると、森の入り口でも少し呼吸ができる。ディアナは外套の内側で羅針盤の針を見る。針は森の奥ではなく、少し左へずれた石畳を示していた。普通の方角ではなく、帰るための道を見る針だ。あの日も、この針はちゃんと道を示していた。
それでも、捕まった。
だから今日は、針だけを信じない。
「左。石道が残ってる」
ディアナが言うと、リュクスが頷いた。
「先頭はディアナ。俺が横。カイルは後ろにつけ。ガロ、木の癖を見ろ。ミロ、余計なもん拾うな。バルド、匂いを吸いすぎるな。ダンテ、音が消えたら撃つな。まず止まれ」
「俺だけ信用低くない?」
「身に覚えがあるだろ」
「ありすぎて絞れない」
それでも、ミロは笑っていた。
ディアナは一歩踏み出した。
森に入ると、音が変わった。
外の風が後ろで途切れ、葉擦れが近くなる。土は柔らかい。靴底が沈むほどではないが、歩いた跡が残る前に、草が少しずつ戻っていく。石畳はところどころ顔を出し、また土の下へ消える。羅針盤の針は、北ではない方角をゆっくり示し続けていた。
一歩。二歩。石の端を踏み、苔を避ける。
後ろで鎖がかすかに動いた。誰かを引く音ではない。全員がまだそこにいる、と知らせる音だ。
ディアナは息を細く吐いた。
あの日は、逃げることしか考えていなかった。革袋を抱えて、父たちを信じて、迷いの森なら抜けられると思っていた。実際、普通の騎士だけなら抜けられたはずだ。だからこそ、ジークムントは普通の騎士だけで待たなかった。
性格が悪い。
けれど、その悪さで、父たちは捕まった。
そして今は、その悪さが森の中で味方を拾っている。
最悪だ。
道はしばらく続いた。けれど、だんだん石畳の間隔が広くなる。草が深くなり、木の根が石を割っている。古い礼拝道は、森に食われていた。紙片の線と照らし合わせると、本来なら真っ直ぐ進むはずの場所で、道は右へ曲がっている。
「おかしい」
ディアナは足を止めた。
リュクスも止まる。後ろの全員が、ほとんど同時に止まった。鎖が音もなく張り、また緩む。
「何が見えた」
「紙だと、この先に線が続いてる。でも石は右へ曲がってる」
「森が道を曲げたか、紙が嘘を混ぜられてるか」
「エリアスさんなら、紙は嘘をつかないって言いそう」
「紙は嘘をつかなくても、作った奴は嘘を混ぜる」
リュクスの声は平坦だった。
ディアナは羅針盤を見る。針は右へ曲がった石道ではなく、木の根が絡んだ正面を指していた。道は見えない。だが、針はそこだと言っている。
正面には、太い木が一本ある。幹は二股に分かれ、根元に白い苔がついていた。普通なら、そこを道とは呼ばない。けれど、石畳の欠片が根の下から少しだけ見えている。
「父さん」
「ああ。見えてる」
リュクスが膝をつき、根元の土を指で払った。古い石の端が出る。石には、白花に似た紋様が彫られていた。ただし花ではない。石畳を模した印。古物市の底紙と同じだ。
見つけた。
いや、盗った。
森が隠した道の端を、紙と羅針盤で盗み出した。
「こっち」
ディアナは言った。
声が少しだけ弾んだ。弾んだことに気づいて、慌てて息を整える。遅い。カイルが横で見ている。ミロも見ている。リュクスは見ていないふりをしている。ジークムントは、もちろん見ている。
「指先、動いてる」
カイルが言った。
「石を見る時くらい動く」
「盗る時の動きだ」
「石は盗れません」
「お前ならやりかねない」
「やりません」
たぶん。
いや、今日はやらない。
ディアナは根の下の石を見た。苔の間に、白い粉が残っている。灰だ。白花の灰。古いものか、新しく足されたものかは分からない。バルドが小さな紙包みを取り出し、手袋越しに灰をほんの少しだけ取った。
「強く吸うな」
「吸わない」
「お前は興味があると近づく」
「盗賊なので」
「理由になってねえ」
その通りだった。
ジークムントが正面の木を見上げる。鎖の一本が根の周りを滑り、土の下を探るように動いた。黒鉄色の鎖は根を傷つけず、石の隙間だけをなぞる。しばらくして、鎖の先が何かに触れた。
かちり、と小さな音がした。
地面の下で、石が少しだけ沈む。
全員が止まった。
森の音も止まった。
「罠?」
ディアナは声を潜めた。
「鍵かもしれない」
ジークムントが答えた。
「森に鍵?」
「礼拝地なら、道を閉じる仕掛けくらいはあるだろうね」
「さらっと嫌なことを言いますね」
「嫌なことほど、先に言った方がいい」
正論が嫌いになりそうだ。
沈んだ石の奥で、細い空気の流れが生まれた。葉が揺れる。風がなかったはずの森の奥から、微かに白花の匂いがした。強くはない。甘くもない。古い布に残った香りのような、乾いた匂い。
左手中指の指輪が、手袋の下で淡く菫色を帯びる。
ほんの一瞬。
古物市の時より薄い。けれど、確かに色が差した。白金色の輪に、遠い祈りの色が触れて、すぐに沈む。
ディアナは息を止めた。
ジークムントの視線が落ちる。何も言わない。言わないから、余計に見られているのが分かる。
「この奥ですね」
ディアナは指輪ではなく、木の根元を見た。
「たぶん」
「行く?」
「行きたいです」
答えは早かった。
早すぎた。
ジークムントがこちらを見る。リュクスも見る。カイルが眉を寄せる。ミロが「お」と口だけ動かす。やめて。言わないで。
「でも、今日は入りません」
ディアナは続けた。
「道は見つけました。灰も取った。奥に何かあるのも分かった。これ以上は、森の中で準備なしに踏み込むところじゃない」
「正しい判断だな」
「今、意外そうに言った?」
「言ってない」
「言った」
リュクスが低く笑った。
「よし。引くぞ。こういう場所は、見つけた時が一番危ねえ」
「森が?」
「人間がだ」
その言葉で、盗賊団の空気が変わった。ガロが森の奥を見て、ダンテの指がわずかに動く。ミロの軽さも、半歩だけ後ろへ引いた。
人の気配。
ディアナにはまだ見えない。けれど、盗賊団がそう動いたなら、いる。
「追いますか」
ジークムントが穏やかに聞いた。
「今日の獲物じゃねえ」
リュクスが即答する。
「賢明だね」
「殿下に褒められると、ろくでもねえ気がするな」
「それは心外だ」
少なくとも、傷ついた様子はない。
ジークムントの鎖が、こちらと森の奥の間に静かな境目を置いた。黒鉄色の線が、影の中で鈍く光る。踏み越えようとすれば絡め取られる。けれど今は、誰かを縛るためではなく、引き際を決めるための線に見えた。
この人は、逃げ道を奪うのがうまい。
敵からも。
味方からも。
「戻るぞ」
リュクスの声で、ディアナは羅針盤を確認した。針は来た道から少しだけずれた方向を示している。森が道を変えたのか、羅針盤が戻る道を拾ったのか。考えすぎると足が止まる。
今は、戻る。
石道の端、白花の灰、根の下の鍵らしき石。盗ったものは小さい。けれど、次に奥へ入るための道としては十分だった。
森の外へ出ると、音が戻った。鳥の声、風、遠くの馬の鼻息。普通の音があるだけで、肩から力が抜ける。ディアナは外套の内側で羅針盤を閉じた。針はまだ、森の奥を忘れていないように細く震えている。
「迷いの森、相変わらず性格悪い?」
ミロが首を回しながら言った。
「うん」
「即答かよ」
「否定する理由がない」
ミロが笑う。カイルも少しだけ口元を緩めた。リュクスは何も言わず、ディアナの頭に軽く手を置いた。褒めるでも、慰めるでもない。戻った確認。ちゃんといるか、という手。
ディアナはその手を受けたまま、森を振り返った。
ジークムントは少し離れたところに立っていた。黒鉄色の鎖はもう足元へ戻りかけている。さっきまで全員の位置を拾っていた線が、するすると森の影から引き上げられていく。置いていかれたことがある、と言った人が出した鎖。
「今日は、ここまでですね」
ディアナは言った。
「不満そうだ」
ジークムントが言う。
「不満です。でも、足りないくらいが次に盗りやすいので」
「盗賊らしい判断だ」
「褒めています?」
「もちろん」
「信用できない」
ジークムントは笑った。
森は、道を隠していた。
けれど、隠しきれてはいない。土の下、根の下、白花の灰の奥に、古い石道の端が残っている。
ディアナは外套の内側で羅針盤を押さえた。
奥へは行かない。今日は、ここまで。
けれど、道は盗った。
次は、この森の奥に隠されたものを盗りに行く。




