第二十二話 盗賊娘、古物市で鑑定される
古物市は、古いものより人の目の方が多かった。
王都の東側、古い礼拝堂の裏通りから、細い坂道を三つ下った先にその市はある。石畳はところどころ欠け、軒先には色褪せた布が下がり、道の両側には古紙、礼拝具、壊れた香炉、聖画片、祭礼用の燭台、誰かの家から流れてきたらしい小箱が積まれていた。乾いた紙、古い木、錆、蝋、安い香油、雨を吸った革袋の匂いが混ざっている。
華やかではない。
けれど、盗み場の匂いがした。
ディアナは袖の内側で指先を動かした。値札の裏、箱の底、紙の折り癖、店主の視線。見る場所が多い。多すぎる。楽しい、と思いかけて、慌てて令嬢らしい表情をかぶり直した。
今は令嬢。たぶん令嬢。少なくとも、いきなり棚の裏を覗き込む女ではない。
「紙の竜は持ってるか」
隣を歩くカイルが低く言った。
「ある」
「落とすなよ」
「落とさない。証拠だし」
「お前が拾ったやつだろ」
「証拠です」
昨日、洗濯場で拾った破れた紙の竜は、折り癖を増やさないよう薄い板に挟んで持ってきている。捨てる理由がなかっただけだ。たぶん。紙だから軽いはずなのに、外出着の内側で妙に存在感がある。
ジークムントは少し後ろを歩いていた。古物市に王子がいるだけで目立つのに、本人は目立っていないふりをしている。銀白色の髪は薄い外套の影に収められているが、隠しきれていない。深い青灰色の瞳は、ただ品を眺めているようで、通りの奥、屋根の上、荷車の車輪の泥、店主の袖口まで拾っているのだろう。
便利だ。
腹立たしいほど、便利だ。
「ミロたちは?」
「外周。荷車と裏口を見てる」
カイルは品物を見るふりをしながら、通りの向こうへ視線を流した。そこにミロの姿はない。見えない場所にいる時ほど、あの人たちは仕事をしている。リュクスは別の入口から古紙商を回っているはずだ。ガロは屋根線、ダンテは出口、バルドは触るなと言ったものに誰が触るかを見ている。
盗賊団がばらけている。
自由になったわけではない。監視もある。条件もある。だが、今は走れるだけの道がある。
それだけで、手は動く。
目的の古紙商は、市の奥にあった。軒先には古い聖句の写し、祭礼の歌を書いた札、虫食いの本、礼拝画から剥がれたらしい縁飾りが吊るされている。昨日の紙の竜に残っていた、乾いた糊と古い倉庫の匂い。その匂いが、店の棚の奥から薄く漂っていた。
紙の竜も、この店の紙も、同じ流れを通っている。
ディアナが一歩近づいた時、店の奥から怒鳴り声がした。
「おい、なんだそれは。物を馬鹿にしてるのか、見せろ」
客が一斉に振り返る。古紙商の店主らしい丸い男が、困ったように両手を上げていた。その前に立っているのは、二十代半ばほどの男だった。くすんだ茶色の髪を後ろで雑に束ね、上等だったはずの上着を適当に着崩している。品のいい鑑定士、ではない。古物市でうっかり機嫌を損ねたら、一日中面倒そうな男、である。
その男は、手のひらほどの聖画片をつまみ上げ、眉間に深い皺を寄せた。
「絵具が新しい。縁だけ古く見せて、中央を後から削ったな。偽物を作るなら作るで、せめて下地に合わせろ。雑に作るな。偽物が泣く」
「エリアスさん、声が大きい」
「声の問題じゃない。礼儀の問題だ」
エリアス。
その名前に、前世の記憶が引っかかった。古物が絡むと、人間への礼儀を横に置く鑑定士。画面越しで見ても面倒だった人が、現実ではさらに面倒そうに怒っている。
解釈が雑に合っている。
エリアスは聖画片を店主へ押し返し、今度はこちらを見た。いや、正確にはディアナではない。外出着の内側に挟んだ薄板の端を見ていた。
「そこの手袋の女。その紙、折るな」
「え」
「紙が死ぬ。見せろ」
「初対面で紙の心配から入るんですか」
「人間は勝手に喋る。紙は喋らない。だから先に紙を見る」
理屈は通っているようで、通したくない。
カイルが一歩前に出る。ジークムントも近づいたが、エリアスは二人をほとんど見なかった。見たのは、薄板の端だけだ。人間への興味が薄い。薄すぎる。
ジークムントが静かに口を挟んだ。
「紙を見るなら、彼女に許可を取ってからだね」
「紙は彼女じゃない」
「その紙を持っているのは彼女だ」
「面倒だな」
面倒なのはどちらだろう。
エリアスはジークムントの顔をようやく見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。身分に気づいたのかもしれない。だが、態度はあまり変わらなかった。勇気があるのか、礼儀がないのか。おそらく後者だ。
「見るだけだ。破れてるならなおさら見せろ。雑に持つな」
「……ジーク様」
「君が決めていい」
逃げ道を渡された。
いや、違う。選ばせている顔をして、こちらの反応を見ている。ジークムントはそういう人だ。ディアナは薄板を取り出した。破れた紙の竜は、昨日より少し乾いている。折れた角、濡れて滲んだ墨、靴跡の残る胴。エリアスはそれを受け取らず、指先を宙で止めた。
「薄布」
「はい?」
「直に置くな。紙が汚れる」
人間への配慮ではなかった。
ディアナは渡された薄布の上に紙の竜を置いた。エリアスは顔を近づけ、紙の繊維、墨、糊の跡をじっと見た。さっきまで怒鳴っていた人間とは別人のように黙る。黙ると、目だけが怖い。物を見る目だ。人を見る目ではない。
「王都の紙じゃない」
「分かるんですか」
「分かる。王都の紙はもっと乾く。これは湿り方が違う。森の古紙が混じってる」
「森」
「礼拝地で使われた古い祈り紙に近い。糊に白花の灰が混じってるな。今の教会のやり方じゃない」
白花。
ディアナの左手が、手袋の下で少しだけ重くなった。
まだ色は見えない。けれど、指輪がこちらを向いた気がした。気がしただけで済ませたい。済ませたいのに、済まない。
ジークムントの視線が、手袋の上へ落ちる。
見た。絶対に見た。
「王都近くの森で、古い礼拝地」
ジークムントが言った。
「該当する場所は、多くないね」
「俺は森の案内人じゃない」
エリアスは紙の竜から目を離さないまま言った。
「紙のことなら見る。場所と人間の事情は、そっちで勝手に探せ」
「分かりやすいですね」
「分かりやすく言ってる」
ひどい。
でも、分かりやすい。
ディアナは紙の竜を見た。森の古紙。礼拝地。白花の灰。今の教会のやり方ではないもの。王都近くの森。そこまで並べれば、胸の奥に浮かぶ場所はひとつしかない。
けれど、まだ決めない。
決めた瞬間に、目が曇る。リュクスならそう言う。だからディアナは、紙の竜と、白花の灰と、森という言葉だけを胸の奥へ入れた。盗賊は、分からないものを捨てない。後で値がつくかもしれないからだ。
「おい」
エリアスの声で、ディアナは我に返った。
「目が紙から逸れた。戻せ」
「紙以外も見ます」
「今は紙を見ろ。ここ」
エリアスが紙の竜の翼の端を示した。薄い押し跡がある。昨日見た古紙商の痕跡に似ているが、さらに小さい。花のようにも、石畳の飾りのようにも見える。
「これと同じ印を押した底紙が、この市にある。さっき見た。あの店主が奥に隠した箱の底だ」
「あの店主」
「今、俺が怒鳴った奴だ」
「怒鳴った理由が多すぎて分かりません」
「偽物が雑だったからだ」
そこは一つらしい。
ディアナは古紙商の奥を見た。店主はまだ困った顔で客へ愛想笑いをしている。奥の棚には、いくつか木箱がある。礼拝具の修復品、聖画片、壊れた香炉。見た目は雑多だが、ひとつだけ箱の置き方が違った。手前に出しているのではなく、隠すように奥へ押し込んである。
盗りにくいものは、価値がある。
ディアナの指先が、袖の内側でぴくりと動いた。
カイルが横で小さく息を吐く。
「手、動いてるぞ」
「言わないで」
「止めてもやるだろ」
「場合による」
「もう針金を探してる」
「見ないで」
戻せるなら苦労していない。
ジークムントがわずかに笑った。
「見るだけにしておく?」
「……必要なら」
「盗っていいよ」
「今、聞きました?」
「聞いた」
「証人が多い」
最悪だ。
逃げ道が消えた。
ディアナは一度息を整えた。古紙商の店先には客が三人。奥に店主。さらに薄布の向こうに人の気配が一つ。箱は奥棚の下段。正面から近づけば店主が見る。横からなら客の肩が邪魔になる。上からは無理。なら、下だ。
「カイル」
「何」
「右の客、飾り紐を落としそう」
「落としそうじゃなくて、落とすんだろ」
「拾って」
「俺が?」
「自然に」
「雑だな」
カイルは文句を言いながら、すでに動いていた。飾り紐の箱へ近づき、客とすれ違う瞬間、棚の端へ軽く触れる。箱が傾き、細い紐が数本床に落ちた。
「あ、すみません」
カイルが拾う。客もかがむ。店主の目がそちらへ向く。エリアスが横から、わざと大きな声を出した。
「それも雑に染めてるな。菫色を名乗るな。色が泣く」
「エリアスさん、商売の邪魔です」
「邪魔される商売をするな」
ひどい。
だが、使える。
客、店主、周囲の視線がエリアスへ向いた。その間にディアナは棚の影へ滑り込む。令嬢の歩幅ではない。盗賊の足だ。靴音を殺し、布の陰で膝を折る。奥棚の下段、隠された木箱。蓋は閉じている。盗るのは箱ではない。箱を盗れば騒ぎになる。欲しいのは、箱の底紙だ。
指先を差し込み、底の紙をほんの少しだけめくる。古い糊。白花の灰。森の湿り気。紙の竜と同じ匂い。端に、細い紋様がある。花ではない。石畳だ。いや、道かもしれない。
ディアナは針金の先で底紙の角だけを薄く裂いた。音はしない。紙は抵抗したが、死ななかった。たぶん。エリアスに怒られたくないので、そこは丁寧にやった。
裂いた紙片を袖口へ滑らせる。
盗った。
「お嬢」
ミロの声が、外から一瞬だけ流れてきた。軽い。けれど、合図だった。
動きあり。
ディアナは立ち上がり、何もしていないふりで飾り紐の棚へ戻った。カイルが拾った紐を店主へ渡している。エリアスはまだ色に怒っている。ジークムントは香炉を眺めていた。見た目は穏やかだが、たぶん全部見ている。
怖い。
そして便利。
店の外で、荷車の車輪が軋んだ。古紙商の奥にいた気配が動く。薄布がわずかに揺れ、細身の男が裏口へ向かった。ミロの合図はこれか。逃げるにしては早い。荷を出すにしては遅い。
「ジーク様」
ディアナは小声で言った。
「うん」
「奥の人、動きます」
「追わせるよ」
「また言い方」
「君は盗った?」
「盗りました」
「なら十分だ」
十分。
そう言われると、余計に盗りたくなる。よくない。職業病がひどい。
ジークムントは店主に香炉の値段を尋ねた。どう見ても買う気はない。だが、第一王子が値を尋ねると、店主は逃げるように裏へ行けない。表情が固まる。エリアスはその香炉を横目で見て、さらに眉間の皺を深くした。
「それは買うな」
「理由は?」
「直し方が下手だ。古い傷を隠すなら、隠した跡を見せるな。偽物にも礼儀がある」
「参考になるね」
「買うなと言ってる」
「買わないよ」
「なら聞くな」
会話が噛み合っていないようで、目的は果たしている。店主の意識は完全にジークムントとエリアスに向いている。裏へ動いた男は、もう店の外へ出たはずだ。外周にいるミロたちが拾う。
ディアナは菫色の飾り紐をひとつ手に取った。
「これをください」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
店主の声が上ずっていた。盗られたことには気づいていない。気づくなら後だ。後でいい。後で慌てる人間の方が、道を残しやすい。
会計を済ませ、店を離れる。古物市のざわめきが戻ってきた。怒鳴り声、値切り、荷車の音、古い鐘を試しに鳴らす乾いた音。外へ出た瞬間、ディアナは袖口を押さえた。
「取ったな」
カイルが言った。
「取った」
「何を」
「底紙の端」
「また細かいものを」
「細かいものほど残る」
「それ、お前の父親も言いそうだな」
「父さんに言われた」
カイルが少しだけ笑った。
ジークムントが横に並ぶ。人混みの中なのに、距離が近い。近いのに、触れない。触れないまま、逃げ道だけを塞ぐ位置にいる。やめてほしい。助かる。助かるから、やめてほしい。
「見せて」
命令ではない。けれど、断りにくい声だった。
ディアナは袖口から紙片を出した。指先ほどの小さな紙。古く見えるが、裂いた端は新しい。そこには、白花に似せた石畳の紋様と、細い道のような線が残っていた。
左手中指の指輪が、手袋の下で淡く菫色を帯びる。
今度は、ディアナにも分かった。
白金色の輪に、ほんの薄く、祈りの色が差す。冷たくはない。熱くもない。ただ、遠くから呼ばれたように、指の根元が重くなる。
「また」
声が漏れた。
ジークムントの視線が指輪へ落ちる。笑っていない。カイルも見た。気づいたかどうかは分からないが、表情がわずかに硬くなった。
「女神に近いもの、ですか」
ディアナは紙片を見た。
「祈りの図譜の欠片、聖画片の下の紙、紙の竜。全部、古い祈りに関わる紙です。でも、紙そのものじゃなくて……場所?」
「場所」
「白花に見せた石畳。森の湿り気。白花の灰。古い礼拝地」
言葉にすると、道が見えた気がした。
見えた気がする時ほど、危ない。リュクスなら「まだ決めるな」と言う。だから、ディアナは口を閉じた。決めない。決めないが、捨てない。
エリアスが背後からずかずか歩いてきた。
「おい。盗ったな」
「声が大きい」
「盗っただろ」
「何を根拠に」
「紙の端が変わった」
見ただけで分かるのか。
分かるのだろう。この人は、たぶん。
「盗人に向いてる手だな」
エリアスはディアナの手元を見て言った。褒めているのか、鑑定しているのか分からない。少なくとも令嬢に向ける言葉ではない。
ジークムントが一歩、ディアナの前へ出た。
「紙を見る目は信用できそうだね。人を見る目は、少し直した方がいい」
「手の話だ。人間の顔は見てない」
「それが問題なんだけどね」
「物を扱う手を見ずに、物が分かるか」
エリアスは悪びれない。ジークムントは笑っている。笑っているが、深い青灰色の瞳は少しも笑っていない。空気が妙に冷える。指輪は冷えない。そこは冷えないで正しい。今冷えると話が増える。
ディアナは慌てて紙片を薄布に包んだ。
「あの、エリアスさん」
「なんだ」
「この紙、森の礼拝地に近いと言いましたよね」
「近い。だが、そのものじゃない。森のものを混ぜた紙だ」
「混ぜた?」
「古い祈り紙の繊維が残ってる。全部じゃない。欠片だ。灰と糊はごまかせない」
「それを、誰が」
「知るか」
即答。
「俺は物を見る。人間の事情はそっちで勝手に盗め」
ひどい。
でも、分かりやすい。
エリアスは紙片を見ようとして、ジークムントに視線で止められた。止まったのが意外だった。礼儀を覚えたわけではなく、これ以上近づくと面倒だと判断した顔だ。
「それを確かめるなら、紙を濡らすな」
「え?」
「湿らせると、混ぜた紙が浮く。嘘が分かる。だが濡らしすぎると死ぬ。紙が」
「紙が」
「紙が」
大事なことらしい。
エリアスはそれだけ言うと、古紙商の方へ戻っていった。途中で別の店の古い燭台を見て、また眉間に皺を寄せる。
「それも直し方が下手だ。誰だ、こんな失礼な継ぎ方をした奴は」
「エリアスさん、もう帰ってください!」
古物市のどこかで店主が泣きそうな声を上げた。
濃い。
非常に濃い。
「あの人、攻略……いえ、鑑定士なんですね」
「今、別の言葉を言いかけたね」
ジークムントが言った。
「言いかけていません」
「そう」
「そうです」
「覚えておこう」
「忘れてください」
忘れる気はなさそうだった。最悪である。
古物市の端へ抜ける頃、ミロが荷車の陰から合流した。肩に古い木箱を担いでいる。中身は空のはずだが、妙にそれらしく見える。こういう時のミロは本当に市の人間に紛れるのがうまい。
「お嬢、奥から出た奴、ガロが拾ってる」
「どこへ?」
「荷車の列。古紙を一束捨ててった。バルドが触るなって顔してた」
「正しい」
「だろ。俺も触ってない。えらい」
「普通」
ミロは肩をすくめた。軽い声だが、目は笑っていない。逃げた男を追い、捨てた古紙を拾い、けれど深追いはしていない。盗賊団の仕事だ。細い線を持ち帰る。線を束ねるのは、その後でいい。
ジークムントが短く頷いた。
「戻るよ」
「古物市はもういいんですか」
「今日ここで見えるものは見た。次は、紙が示す場所だ」
紙が示す場所。
ディアナは手袋の上から、左手の指輪を押さえた。菫色はもう薄れている。けれど、完全には消えていない気がした。女神に近い欠片。森のものを混ぜた紙。白花の灰。紙の竜。古物市。細い道が、一本ずつ繋がっていく。
まだ答えではない。けれど、道なら見えた。
盗賊は、道を見つけたら走る。
「ディアナ」
名を呼ばれ、ディアナは顔を上げた。
「紙の竜は、捨てないように」
「証拠なので」
「うん」
ジークムントの視線が、紙の竜を挟んだ薄板へ落ちた。
「それに、君が拾ったものだ」
また、そういう言い方をする。
考えるな。考えたら負ける。
古物市のざわめきが背中で遠くなる。壊れた香炉の匂い、古紙の乾いた匂い、エリアスの怒鳴り声、ミロの軽い足音。全部が混ざって、次の現場の匂いになっていく。
迷いの森。
そこは、ディアナたちが捕まった場所だ。
次に盗るのは品物ではない。
迷いの森へ入るための、道だった。




