07.告白?
集まってきた野次馬の声に、郁美は我を取り戻した。
あんなにうっとうしいと思っていたのに。
あんなに冷たく当たっていたのに。
どうして自分を助けてくれたのか郁美にはわからなかった。
好きだとか、愛してるとか、遼介に言われたがどこか胡散臭くて信用していなかったので尚更だった。
気が付けば郁美の頬をポロポロと涙がこぼれていた。
彼女は涙を拭うことも忘れ、野次馬の垣根を必死に掻き分けて、遼介のもとに駆け寄る。
彼女の視界が開けたとき、先ほど彼女のそばを駆け抜けていった長い黒髪の女子生徒――葉月が立ち尽くしていた。
葉月が見下ろす先には、赤い水溜りが広がっている。
その水溜まりに浸かるようにしてグッタリとした遼介の姿があった。
「――――ッ!」
声にならない悲鳴を上げる郁美。
慌てて遼介を助け起こそうと郁美が手を伸ばしたところを葉月が掴んで止める。
「せ、先輩が! 遼介先輩が! 助けないと! 先輩が死んじゃう!」
「落ち着きなさい! すぐに救急車が来るから! 下手にうごかすと逆に遼介が危ないわよ!」
「でも遼介先輩が! 遼介先輩が!」
どこからそんな力が出ているのか、葉月に止められながらもジリジリと遼介に近づいていく郁美。
彼女が必死になって遼介に呼び掛けるが、彼はピクリともしない。
近づいてくる救急車のサイレンの音と郁美の悲痛な叫びが響き、絶望感がじわじわと周囲に広がっていく。
「――っぶねぇ……マジで死ぬかと思ったわ」
「「へ?」」
救急車が直ぐ側で急停止した直後、ムクリと遼介が起き上がる。
ダラダラと額から血を流しながら、汗でも拭うかのように、視界の邪魔になる血をシャツの裾で拭く。
あまりにも突拍子もない展開に、その場に居た全員が呆気にとられて固まってしまう。
シーンと静まり返った周囲を、遼介は訝しげながら見渡すと、ポンと柏手を打つ。
「まいったな。俺の魅力のせいでこんな人垣が出来ちまうとな。俺って罪な男だ」
キラン、と白い歯を見せて微笑む遼介。
ダラダラと血を流しながら笑われても不気味なことこの上ない。
「り、遼介、大丈夫なの? そんだけ血を流しているのに……」
「ん? 葉月か。血が流れてるって? なるほど、どーりで視界が赤いと思ったさ。いやー婆ちゃんと話したのは久々だったなぁ」
なにが面白いのか高笑いを始める遼介。
ちなみに彼の祖母は小学校の低学年のときに亡くなっている。
「だ、大丈夫なんですか?」
「心配するな、郁美。猫が高いとこから落ちても平気だろ。それと原理は同じさ」
「いや、あきらかに違うと思いますけど……」
郁美は「頭は大丈夫ですか?」と続けて訊ねようとしたが、普段の遼介の言動や行動を考えると大丈夫には思えない。
彼女は、意外とヒドい考えにたどり着いて自己完結し、訊ねるのを思いとどまる。
「ふむ、惚れ薬の副作用じゃろうな。身体能力が常人とはかけ離れたレベル。つまり超人になっておるようじゃな」
突然現れた白髪の老人――ドクトル・ペッパーは、興味深そうに遼介を観察する。
「っ! ドクトル! いつ現れたのよ!」
「フフフッ、大切なデータを収集するためじゃ。儂はいつでもどこでも潜んで現れる準備を怠っておらんのじゃ」
「それはなんか嫌な話ね……。そんなことより、遼介は大丈夫なの?」
「正直なところ、わからんのじゃ。マウス実験で似たような現象は確認しておるからたぶん大丈夫じゃろ。儂はこのデータを検証せねば!」
言い終わると同時に駆け去るドクトル・ペッパー。
呆気に取られてしまう葉月だったが、本来やるべきことを思い出す。
同じ様に呆けていた救急隊員に檄を飛ばし、遼介を担架に縛り付けて救急車に運び込ませる。
葉月はそのまま救急車に乗り込み、救急車を発車させる。
時間にして約一分ほどの出来事で、郁美を含めて野次馬もただ救急車を見送ることしか出来なかった。
「オイラはどうすれば……」
遼介を跳ね飛ばした大型トラックの運転をしていた中年男性が哀愁を漂わせながら呟いた。
ちなみに病院に運ばれた遼介は、いたって健康体と診察され、即日退院させられていた。
***
郁美は人気のない体育館裏に一人で立っていた。
いつも一緒に居てくれる友人たち――瀬戸口莉々と西園寺紗和――には「用事があるから先に帰って欲しい」と彼女は伝えていた。
刷り込みされたヒヨコの様に友人たちの後ろを着いていくばかりの郁美が、「先に帰れ」と言ってきたので友人二人は目を見開いて驚いていた。
郁美も自分自身に対して内心驚いていた。
普段の自分なら絶対に足を運ばない場所。
さらに仲の良い友人二人の姿もない。
この場所に着いてから、彼女の心臓がバクバクと鳴り、握りしめた手には汗が滲んでいる。
鏡を見ればきっと自分の顔は真っ赤になっていると、郁美は頬の火照り具合から推察する。
彼女は自分自身を落ち着かせるために、ゆっくりと大きく深呼吸をする。
「……来てくれるかな」
不安そうに郁美は呟いた。
今日は恥ずかしすぎて遼介の顔を見ることが出来なかった。
郁美はトコトン逃げ回り、朝から遼介の顔は一度も見ていない。
でも、昼休みに遼介の靴箱に郁美は一通の手紙を入れてきた。
『放課後、体育館裏で待っています。久保上郁美』
だだそれだけの内容。
だけど郁美は三時間以上も時間をかけて、その手紙を書き上げた。
書き上げては便箋丸めてゴミ箱捨てて、新しい便箋に書き直す。
昨晩は、その作業を郁美は延々と繰り返していた。
何とか満足できる手紙が書けたとき、彼女の右手は黒炭で真っ黒になっていた。
「……落ち着いて落ち着いて」
郁美は自分に言い聞かせる。
彼女の耳に届く放課後の喧騒はどこか遠くの世界のように思えた。
気を落ち着かせるためか、郁美はカラーリップを塗った唇をソッと撫でる。
「待たせてしまったかな、俺の郁美」
「へっ? きゃ!」
突然聞こえてきた声に郁美は飛び上がりそうになってしまう。
誰もいないはずの体育館裏で、自分以外――遼介の声が聞こえてきたので当然だろう。
郁美は驚きすぎてバクバクと鼓動して痛い胸を手で押さえながら、周囲を見渡す。
すると学校の敷地を取り囲む三メートルほどのコンクリート塀の上に、バラを口に咥えた遼介が立っていた。
「フフフッ、君の気持ちはしかと受け取ったぁ! 今日は君に全てを捧げ、全てを奪わせてもらうよぉ!」
遼介は「トゥ!」と声をあげると、水泳の飛び込みのようにコンクリート塀から飛び降りる。
そして、某泥棒の三代目のように彼はトランクス以外の衣服を脱ぐ。
どういう原理なのか、郁美は理解することは出来なかったが、覚悟した眼差しで迫ってくる遼介を見つめる。
「あぁぁぁほぉぉぉかぁぁぁ!」
「ぶべらっ!」
体育館裏の静寂を根底から吹き飛ばす葉月の怒号。
遼介が体をくの字に折って、水平に飛んでいった。
何が起こったのか把握できていない郁美だったが、険しい表情のまま肩で息をする葉月の姿を認識して、何が起きたのか概ね理解する。
この場に康司が居たのなら、百キロの巨漢もぶっ飛ばしそうなドロップキックの威力を目の当たりにして失禁していたかもしれない。
「必死に我慢してきたけど、限界よ! 遼介! いい加減に元に戻りなさいよ!」
「助け――ぎょべぷ!」
最初の一撃を喰らった脇腹を手で押さえながら悶えていた遼介を蹴飛ばし、仰向けにする葉月。
間髪入れずに葉月が遼介に馬乗りになると、胸ぐらを掴んでビンタを繰り出す。
バチーン! バチーン! バチーン!
葉月の往復ビンタの音が、静かな体育館裏に響き渡る。
「りょ、遼介先輩に何するんですか! やめて――」
「あん?」
「……くだ……さい」
声を荒げた郁美だったが、完全に目の座った葉月の一言に、一瞬で気圧されてしまう。
蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった郁美が、ガチ泣きを始めるまでの三十分間。
往復ビンタと音が止まることは無かった。




