06.事故
遼介が郁美を追い回し始めて二週間が過ぎた。
最初の頃は好奇の視線が注がれていたが、今では日常の一部として受け入れられているようだった。
中には一年生とは思えないほど達観した眼差しで温かく遼介を見守る生徒までいるほどだった。
「郁美! 今日こそは俺と帰ろう! そして、愛の巣に行こうではないかぁぁぁ!」
バラを口に咥えて独楽のように回転しながら教室に飛び込む遼介。
彼は教壇の前でしばらく回転していたが、青い顔でうずくまると口元を押さえる。
「えっと……その……大丈夫、ですか?」
「ついいつもより回転数を上げてしまった……。しかし、郁美は優しいなぁ。葉月とは大違いだぁ」
「目の前で露骨に具合悪そうにされたら誰だっ――きゃ! だ、抱きつこうとしないでください!」
「ゲボッ!」
飛び掛ってきた遼介に反射的に拳を繰り出した郁美。
彼女の拳がカウンター気味に彼の頬を打ち抜く。
体を大きく仰け反らせた遼介は、そのまま脳天を床につけて見事なブリッジを作る。
「ご、ごめんなさい。反射的に……」
「いや、いい一撃だったぞ。さすが俺が見込んだ女性だ」
手を使わずに、よっ、と声を出しながら反動だけで起き上がる遼介。
頬にははっきりと郁美の拳の痕が残っていた。
「で、郁美は何故、一人で教室にいるのかなぁ? はっ、もしや俺に襲ってくださいという合図……」
「ふ、服を脱ぎ始めないでください。そ、掃除を頼まれて残っているだけですから!」
「掃除……。その割には他のクラスメイトの姿が無いなぁ」
「えっと、その、皆さん、用事があるらしくて……」
力なく笑う郁美の声はドンドン小さくなっていった。
肩を落として、ジッと床を見つめる彼女の耳にカタンという音が聞こえる。
郁美が慌てて顔を上げると、遼介が机を教室の後ろに運んでいた。
「せ、先輩……何やってるんですか?」
「何って、掃除だろ。郁美は出来る子だから一人で教室を掃除するのも朝飯前なんだろうが、俺が暇すぎるので勝手に手伝わせてもらってるのだ」
テキパキと次々と机を教室の後ろに移動させながら、遼介は器用にふんぞり返る。
郁美はその顔にポカンと口を開けて呆気にとられてしまう。
「で、でも、悪いです……。先輩に……掃除をしてもらう理由が無いです」
「理由なら言ったぞ。俺が勝手に手伝わせてもらってるってな」
にかり、悪戯をしている子供のように無邪気な笑顔の遼介。
郁美は口元を手で隠して笑いを堪らえようとするが、すぐに吹き出してしまう。
「ぷっ……なんですか、その理由。ぜんぜん意味がわかんないですよ。先輩、絶対変です」
「何を言う、他と違うからいいんだよ」
「っく、あはははっ。変って自分で認めるものじゃないですよ」
郁美は人目を気にせず笑う。
それは彼女にとって久々のことだった。
遼介も一緒になって笑う。
「変なことじゃないだろ。好きになるっていうのは相手の良いところも悪いところも含めて認めることだ。好いところだけ見てもそれは本当に相手のことを好きとはいえないだろ。俺は郁美の全てが好きだからオールオッケーだ! 一緒に掃除が出来るなんて素敵な時間じゃないか!」
「……先輩って良くそんなこと恥ずかしがらずに言えますね」
「事実を告げることに恥ずかしがる必要は無いからな」
他愛もない会話を繰り返し、二人で一緒になって笑う。
笑っているうちに、教室の掃除は終わっていた。
嫌な顔一つせずに自分の倍以上動いてくれた遼介に郁美は心のうちで感謝した。
そして、彼女は掃除が終わってしまったことを残念に思うのだった。
***
遼介と郁美は並んで校門を出る。
二人が知り合って二週間ほど経過しているが、初めての事だった。
いつも一緒に居る友だちがいない事。
遼介に教室掃除を手伝ってもらった事。
自分の中で理由付けして、郁美は遼介の「一緒に下校しよう」という誘いを受けることにした。
「いやー、郁美と一緒に帰れて俺は幸せ者だなぁ~」
「そ、そうなんですか……」
どうすればそこまで幸せそうにしていられるのか訊ねたくなるほど遼介は幸せそうな表情と空気をばら撒いていた。
郁美はあまりのテンションの違いに当てられて、少し乾いた笑いを浮かべていた。
「……遼介先輩はいつも幸せそうで良いですね」
「何を言ってるんだ! 俺が幸せなのは郁美がいるからさ」
どこから取り出したのか赤いバラを口に咥えてポーズを決める遼介。
どうしてそこまではっきりと言えるのか郁美には不思議でしかなかった。
「……はっきり自分の気持ちを言えるにはどうすればいいんだろう」
そうすれば、嫌なことを押し付けられそうになったとき断れるのに、郁美は小さく呟く。
「そんなのは簡単だろ。自分の気持ちを表現するだけだ。この俺のように」
トゥ! と声をあげると遼介はバラをばら撒きながら側転し、バク転につなげる。
そして、フィギュアスケートのように回転し始める。
「えっと、その……」
遼介の行動は先ほどの自分の発言が原因なのだろうが、とても知り合いとは思われたくない。
彼女はそそくさと距離を開けるように車道に寄る。
はぁ、とため息をつく。頭の中では自分に対する情けなさと遼介の性格に対する憧れがグルグルと頭の中を回る。
不意にドンと軽い衝撃が彼女の背後から襲ってくる。
バランスを崩して彼女の視界がグラリと傾く。
何処か遠くから「ごめん」という声が聞こえたような気がした。
郁美は少しの間を置いてから、背後からぶつかられた弾みでバランスを崩したことに気づく。
体勢を立て直そうと足を踏み出すが、縁石に阻まれる。
ゆっくりと近づいてくる地面と聞こえてくる車のクラクション。
視界の隅に映る大型トラックが自分に迫ってきていた。
そこそこの道幅があるものの、大型トラックが自分を避けられるとは思えなかった。
郁美は、思考が冷静になっていくのを感じた。
あと数秒で自分は大型トラックに跳ねられる。
襲ってくるであろう衝撃を想像し、郁美はギュッと目を瞑り身構える。
「――郁美!」
遼介の声。
グンと体が引っ張られる感覚。
尻もちの痛みとともに目を開くと、遼介の姿が車道にあった。
瞬間的に彼が自分を歩道の方に投げたことを郁美は理解する。
「遼介先輩っ!」
郁美の声に遼介は白い歯を輝かせながら微笑みながらサムズアップを返す。
次の瞬間、大きな衝突音と共に遼介の体は大型トラックに跳ね飛ばされ十メートル近く吹き飛ばされた。
ペタン、と座り込んだ郁美の横を黒髪をなびかせる二年生の女子生徒が駆け抜けていった。




