03.ドクトル・ペッパー
授業開始を告げるチャイムの音が校舎に響き渡る。
葉月は生まれて初めて授業をサボるという罪悪感に苛まれながら、目の前に正座して震える白髪の老人を、汚物でも見るような目で見下ろす。
「名前は山田恋次。歳は六十五歳で職業は科学者。間違いないわね」
「違う! 儂は世紀の天才科学者、ドクトル・ペッパー――ゲハッ!」
雄叫びを上げた老人の頬を葉月の形の良い足が蹴り抜く。
もし、男子生徒が居たならば、彼女に蹴られるという快感を想像して身悶えするか、ふわりと浮かんだスカートから見えた白い輝きに感激していたかもしれない。
「胡散臭いのよ! ドクトルはドイツ語でペッパーは英語でしょうが!」
老人――ドクトル・ペッパーは頬を押さえたままのた打ち回り、葉月の言葉が通じたようには見えない。
先ほどの一撃は葉月が頑丈だと思っている康司でさえ数分沈黙させる威力がある。
それなのに元気にのた打ち回るドクトル・ペッパーの姿に葉月は少し感心してしまう。
「いきなり何するんじゃ! この小むす――」
痛みが治まったドクトル・ペッパーはガバッ、と起き上がり、憤怒の表情だ葉月を睨み上げる。
だが次の瞬間、蛇に睨まれたカエルのように青くなって硬直する。
仁王立ちで見下ろす葉月の迫力に完全に飲み込まれていた。
ダラダラと脂汗を流しながら、ドクトル・ペッパーは大人しく彼女の前に正座をする。
「で、惚れ薬を作ったからサンプルデータの収集をやっていた。バイトで自販機の飲み物の補充をする際に混入することを思いついた。間違いないわね」
「は、はい。その通りです」
「なんで人様に迷惑かかるようなことしてんの? いい歳した大人がさ」
「滅相もございません。ただ、ただ……」
ドクトル・ペッパーは涙を流しながら独白し始める。
「儂の若い頃は、頭脳明晰で容姿端麗、もちろん運動も人並み以上に出来た。当然、モテにモテまくっていたんじゃ。交際を申し込んできた女性の数は四桁に迫るほどだったんじゃ」
ドクトル・ペッパーが右手を握りしめながら語る。
「だが、当時の儂はそれが煩わしかったんじゃ。儂は世界平和のために科学に身を捧げることこそが儂の使命だと信じておったんじゃ。そして、様々な研究に没頭して四十歳を過ぎた頃に、儂はようやく気づいたんじゃ」
「……何に気づいたのよ?」
「儂はモテなくなっていたんじゃ! そして! 儂は真理に気づいてしまったんじゃ! 何故、研究だけに没頭してしまったんじゃ! もっとウハウハと人生を謳歌すべきだったんじゃ! 輝いていたあの頃を! 儂は何故無駄にしたんじゃ!」
立ち上がり、熱い涙を流しながら、咆哮するドクトル・ペッパー。
彼から放たれる異様な熱意に、葉月は思わずドン引きしてしまう。
ドクトル・ペッパーは整形で見た目だけ若くてもモテない。
だから、惚れ薬を開発して女性に飲ませ、自分に惚れさせようという計画を立案したと語る。
「……で、完成した惚れ薬が本当に効果があるのか、確かめるために自販機に惚れ薬を混入させたわけ?」
「そうなるのじゃ。これも偉大なる科学の糧とな――ぶべっ!」
もの凄く良い笑顔のドクトル・ペッパーの頬を葉月は反射的に蹴り抜く。
ふつふつと目の前の老人――ドクトル・ペッパーに対する殺意が募っていく葉月。
彼女の王子様とでも言うべき遼介が、ただの変人に成り下がってしまったのだから仕方ないかもしれない。
「解毒剤とか無いの?」
「そんな物は存在しないのじゃ。まずはどの様な効果があるかを確認し、それを以て解毒剤の調合を行う予定じゃったからな」
「……役立たずだわ。なんで一目惚れして即告白するような効果にしたのよ?」
「効果は個人差がある想定じゃったが、あれほど強引な行動に出る想定はしておらん。よほど普段から抑圧された感情とかあったんじゃろうな」
「……冷静に分析してんじゃないわよ。その惚れ薬の効果はどれくらいなのよ?」
「愚問じゃな! 永久効果を目標に調合しておるのじゃ!」
きっぱりと自信に満ちた声で答えるドクトル・ペッパー。
葉月はとりあえず、彼の頭を蹴り飛ばすことにした。
***
四時間目のチャイムが鳴り終わり、英語を担当している若い女性の教師は教室を出る。
訝しげながら彼女は先ほどの授業を振り返る。
進学を目指すクラスだけあって、いつも授業に対する真剣さを感じられる。
しかし、今日はどこかしまりが無い。
授業の進め方が悪かったのだろうか。
原因は自分自身にあると思った彼女は気合を入れなおして、次の授業では今回の分も取り戻すのだと誓うのだった。
彼女がこのクラスの担当だったのならば、先ほどの違和感の正体に気づいていたに違いない。
窓際に座る遼介がいつもは黙々と授業に望んでいるのにどこかそわそわしていた事。
廊下側に座る葉月から得体の知れない威圧感を放ちながら遼介を睨んでいた事。
それが他のクラスメートに伝播した結果、いつもと違う空気を生み出していた。
そんなことは露知らず、颯爽と教室から歩み去ろうとする遼介。
葉月は急いで彼を追う。
「遼介、どこに行くのよ!」
「どこって、あの子の所に決まってるだろ」
右手でエレガントにふわさっと前髪をかきあげる遼介。
どこから取り出したのか口には赤いバラが咥えられていた。
「あの子って……あの一年生の子?」
「当然だ。郁美ちゃんを想うと胸が弾けそうさ」
「な、な、何で名前知ってんのよ!」
「何を言っているんだ。愛する人の名前を知っているのは当然じゃないか」
ハッハッハ、と爽やかに笑う遼介。
あまりの不自然さに葉月は鳥肌が立つ。
「郁美、郁美……。お、あった。久保上郁美。一年C組。特に目立ったところは無いが小動物的な愛らしさに密かな人気有り。顔は十分上位に食い込める逸材だけど、スタイルが並でオレの興味の対象外だな」
ひょっこり顔を出した康司がやけに高そうな手帳を捲りながら葉月に伝える。
この学校の情報屋(女子生徒限定)と言われるだけあると密かに思う葉月。
ちなみに彼女の情報は康司の手帳に記載されていない。
情報を有料で提供していることを知った葉月が康司を半殺しにして教育したからだ。
それ以来、康司はいくら額を積まれようが頑なに葉月の情報を提供するのを拒んでいる。
「康司、密かなってどれくらいの人気なのよ?」
「守ってあげたいとか妹にしたいとか陰で言ってるヤツは多いらしい」
ちらり、葉月が視線を周囲に向けるとそそくさと視線をそらす男子生徒の姿が見えた。
軽いめまいを感じてしまう。遼介は基本的に善人で優しい。
今は惚れ薬が原因とはいえ本当に好きになってしまうかもしれない。
じわり、胸の内側から焦りが滲み出してくるのを葉月は感じた。
「で、遼介ほっといて良いのか? 理由は知らんけどあきらかにアイツ変だろ」
「そうなのよ。理由はくだらな過ぎるんだけどさ……って、遼介はどこよ!」
血相を変えて周囲を見渡すが遼介の姿は無い。葉月は反射的に康司の首を締め上げる。
「ギブ、ギブ……。ア、アイツならスキップしながら階段の方に……」
「なんで止めないのよ!」
ポイ、と康司を投げ捨てると葉月は昼休みで混んだ廊下を駆け始めた。
彼女から放たれる迫力に、生徒は進行を妨げないように隅に飛び退くのだった。




