02 月夜に歌う女
「瀬崎さんも懲りないですねえ。この前私が言ったこと、もう忘れたんですか」
「忘れてないよ。だから一緒に聴こうって言ってんじゃないか」
閉店後のスタッフルーム。サカキさんが貸してくれたレコードを手にする俺の前に、葛原が腕組みをして突っ立っていた。今日の彼女はキング・クリムゾンのTシャツを着ている。若い女性が着るようなデザインじゃないと思うが、セクハラになってもよくないので言ったことはない。
「葛原さんだって、どんな音楽なのか興味あるだろ?」
「それは……ないと言えば嘘になりますけど」
腕組みをしたまま、葛原は口をへの字に曲げて俺を睨む。それがどうしたと言わんばかりだ。だが俺は一瞬、彼女のガラス玉みたいな瞳が左右に揺れたのを見逃さなかった。
「だろ? 一回聴いてみて、危なそうならサカキさんに返すから。その判断をお願いしたいんだ。嫌なら無理にとは言わん」
黒々としたガラス玉の輪郭が柔らかくなり、またわずかに揺れる。もう一押しだ。
「頼むよ。葛原さんが頼りなんだ」
とうとう、葛原はやれやれと言わんばかりにため息をついた。
「そういうことなら、まあ……嫌ではないです」
「悪いね」
御しやすい奴で助かった。内心ほくそ笑んだが、葛原には気づかれないよう努めて真顔を作る。
彼女の懸念もわからないでもなかった。この前タカハシの件であんなことがあったばかりだ。俺だって、不安に思う気持ちが全くないわけではない。だからこそ、葛原にも一緒に聴いてもらおうと思ったのだから。
でもこのときの俺は、このレコードに収録されているという歌声への興味がはるかに上回っていた。サカキさんから聞いた範囲では、大して危険そうに思えなかったというのもある。
レコードマニアのサカキさんが、あれほどまでに惚れ込み、褒めそやす歌声だ。どんなものか、一度でもいいから聴いてみたかった。
「一応、曲検索のアプリも使ってみますね。もし既に世に出てる音源なら、ほぼ間違いなく拾えるはずですし」
葛原がアプリを立ち上げる。その間、俺はレコードをセットした。
黎音堂のスタッフルームには、買い取った音源を試聴するためのプレーヤーが備わっている。入って一番奥の壁際だ。その前にテーブルとソファがあって、休憩したりレコードを試聴したりできるようになっている。ソファの背後の壁には一面金属のラックが設置されていて、査定中のレコードや音楽雑誌、その他業務に必要な色々な書類なんかが詰め込まれている。反対側の壁際にあるのは、細かい作業用のデスクだ。最近はポップ作りやチラシ作りで葛原が独占することが多い。
レコードをセットし終わった俺は、彼女の隣に腰掛けた。
物悲しいピアノの旋律が流れ出した。梅雨の夜に、家の中で聴く雨粒のような。綺麗だけれど少し寂しい音だ。すぐにその音色に被せて、一人の女性が歌い出した。
初めに連想したのは、月だった。
透き通った綺麗な歌声だ。甘く優しい響き。あまりにも透き通っていて、不思議と温度を感じない。声量もない。ともすればバックの音楽にかき消されてしまいそうな。危うさと儚さを持つ声。
それが俺に月を思わせた。雲間から見えかくれする白い月だ。
女性が窓辺に立っていた。長い髪を後ろで一つにまとめ、黒いワンピースのような服を着ている。こちらに背を向け、白い布に包まれた何かを後生大事に抱えていた。赤ん坊だろうか。わずかに見える顳顬のあたりが、青白い月の光に照らされつるりと浮き上がっていた。
女性は首をかしげ、抱いている何かを見つめているようだ。歌声が彼らを淡く照らす。女性はそっと、抱いているものを揺り動かす。
ああ、そうか。
子守唄を歌っているんだ。
いや。すぐに内心で首を振る。何を考えているんだ俺は。サカキさんにあんな話をされたから、その影響を受けているだけだ。
そう思っても、走り出した心象風景は止められなかった。女性は歌声が続く間、ずっと背を向けて腕の何かに歌い続けている。
彼女が振り向いてくれればいいのに。
ふいに、そう思った。
この美しい歌声を、俺だけに向けて歌ってくれればいいのに。
曲が進めば進むほど、その気持ちはどんどん強くなっていく。
彼女の顔が見たい。どんな顔をしているのか。どんな表情でこの歌を歌っているのか。呼びかけたら振り向いてくれるんだろうか。きっとそうに違いない。ああ、彼女の名前が知りたい――。
プレーヤーの針が上がった。
「どうだった?」
名残惜しさを抱えつつ、隣に座る同僚を見る。葛原は丸っこくキラキラした瞳を半分くらいの高さまで細め、眉間に皺を寄せて考え込んでいた。
「とりあえず……危険な感じはしなかったです。あと、アプリは反応なしです。何も出てきませんでした」
「インディーズの曲なら出てこないこともあるしなあ。まあ危ないレコードじゃないなら、よかったよ」
この前と違って、と言いそうになってやめる。幸い、葛原は気づかなかったらしい。
「で、危なくないならなんでそんな顔してんの」
「うーん、変な音はしなかったんですけど……なんか違和感があって落ち着かないというか」
「あんまり気に入らなかったってこと?」
「そうですねえ。声は綺麗だなと思いましたけど。曲は湿っぽくて、私の好みじゃないです。もっと明るい曲か、疾走感のある曲のほうが好きですね」
「聴いてる間、連想したものとかなかった?」
「へ? 別に、何もなかったですけど……」
サカキさんから聞いた心象風景のことは、葛原には伝えていなかった。先入観が入らない状態でどうなるのか試したかったからだ。やはり、ただの偶然なんだろうか。
考え込む俺に、葛原は何かを感づいたらしい。
「瀬崎さん、何か隠してませんか?」
若い女ってのは、どうにも変なところで勘がいいから厄介だ。しぶしぶ、俺はサカキさんのことを話した。
「それは……ちょっと不気味ですね」
「でも、害があるもんでもないだろ。ただの偶然だよ。さっき聞いたときに危険な音はしなかったんだろ? そんなに神経質にならなくてもいいって」
「うーん、そんな短絡的に判断していいものですかね」
少なくとも俺は安堵していた。葛原の態度はこの前とはまるで違う。つまり現状、このレコードは安全ということだ。そしてそれは、俺がこのレコードを聴き続けてもよいということを意味する。
今晩、家に持って帰ってもう一回聴いてみようか。
良い考えだと思った。あの歌声に包まれながら眠りに入ることができたら。いつもより良い夢が見られる気がする……。
「うわっ」
葛原の悲鳴で我に返った。彼女はレコードジャケットを手に、プレーヤーの前で立ち竦んでいた。
「どうした?」
「せ、瀬崎さん、これ……今、ジャケットの中から……」
言葉は続かなかった。葛原は両手にジャケットを抱き抱え、凍りついたように足元を凝視している。そこに何かあるらしい。俺の座っている位置からでは見えない。
立ち上がって葛原の背後に近づいた。さっき俺がレコードをセットしたときは、そこには何もなかったはずだ。どうしたというんだろう。
葛原の肩越しに覗きこむ。瞬間、俺はギョッとして息を呑んだ。
人差し指くらいのサイズの芋虫が3匹、床の上でのたうっていた。鱗みたいな質感の黒い肌。むちむちと節くれだった体。その体節ごとに、人間の目玉みたいな赤い模様が点々とついている。
どうやってここに来たのかわからないが、床の上に落ちたときに二匹ひっくり返ったらしい。膿の溜まった吹き出物みたいな赤い足がウネウネと、意味もなく空を掻いていた。
気味の悪い光景だ。
どこから入ってきた。そう葛原に聞こうとして、床に落ちるもう一匹に目をやったとき。
俺は再度言葉を飲み込んだ。
残る一匹は床に正対していたが、幸いそこから動く気はないらしい。後ろ足は床につけたまま、頭部らしきものを持ち上げ、左右にくねらせている。その動き自体もグロテスクではあった。
が、問題は頭部そのものだ。
「これ……人の顔に見えません?」
葛原の言う通りだった。黒い頭頂部に、一箇所ぽっかりと白く浮き出た部分。そこに人の顔のような黒い模様が浮き出ていた。子どもの描いた絵のような、記号的な顔だ。それが却って不気味だった。閉じた目、鼻、少しだけ開いた口。まるで眠っているかのようにーーあるいは、死んでいるかのように。
デスマスク。
そんな単語が脳裏を掠める。さながらこいつは、死者の仮面をつけた黄泉からの使いだ。死人の体を媒介に、栄養分を吸収して成長し、やがて羽化する。……そのとき、こいつらはどんな姿となるのだろう。
目の前に、腐食した腕がちらつく。痩せこけ、紫色に変色した腐りかけの腕。膿の詰まった水疱がそこら中にできてーー芋虫みたいに動いていた。ちょうど、こんなふうに……。
頭を振り払い、嫌な連想を押し退ける。
「これ、どこから入ってきたんだ」
「だから、レコードジャケットですよ!レコードしまおうとして取り上げたら、中からボロボロって……心臓とまるかと思いましたよ」
「本当に?」
葛原が嘘を言っているとは思わないが、俄には信じがたかった。ジャケットの中に入っていたなら、いつから入っていた? レコードをセットしたのは俺だ。そのときは、確実にこんな芋虫どもはいなかった。いたなら、いくらなんでも気づくはずだ。でも、それならいつ、こいつらはここに入った?
「瀬崎さん、何の虫か知ってます?これ」
「いや。蝶か蛾の幼虫なんだろうが……見たことないな。とりあえず、片付けるか。葛原さん、箒とちり取り持ってきてくれる?」
はい!と勢いよく返事して、葛原が壁際のロッカーに向かう。
「もしよければ、なんですけど、レコードしまうのもお願いしていいですか? 私、本当に虫苦手で……まだ心臓バクバクいってますもん。また虫が出てきたりしたら、今度こそ本当に心臓とまっちゃいますよ」
俺は「ああ」とか「別に」とか、覚えていないが何かしら上の空で返事した。葛原が何に驚いたかなんて、今はどうでもいい。
やっぱり、今日このレコードを家に持って帰るのはやめよう。
足元でのたうつ芋虫を見下ろしながら、そう思った。




