01 名前のないレコード
美味いコーヒーは良い音楽と同じくらい人生を豊かにしてくれる。
と言っても、俺はコーヒーのことは詳しくない。豆の種類もわからないし、飲むのが好きなだけでこだわりはない。こうして仕事中に飲む分にはインスタントでも十分だ。
平日昼過ぎ、客足が少し遠ざかった店内。レコードジャケットの古臭い厚紙の匂いとコーヒーの香り、BGMは70年代のフォーク・ロック。悪くない昼下がりだった。
葛原はスタッフルームでポップを作っている。彼女が来てから、もう二週間ほど経つだろうか。
なんだかんだ雇って正解だったと思う。彼女の音楽に対する情熱はなかなかのものだ。仕事も真面目に、そつなくこなす。今までどんなバイトも長続きしなかったと言っていたが、それが不思議なくらいだ。本人は「どこに行っても人間関係が負担だった」と、あっけらかんと笑いながら言っていたが。
どうも彼女は人と深く関わることが苦手らしい。この前俺に話した「能力」の影響もあるのだろう。同情する気持ちがないわけじゃないが、俺にとっては好都合だった。仕事仲間とべたべたなれ合うのは嫌いだ。仕事に関わる以上の会話はしたくない。それくらいの距離感が一番いい。
チリン、とドアベルが鳴る。入口に常連のサカキさんが立っていた。
「おお、お久しぶりです。ここのところいらっしゃらなかったから、どうされたのかと思ってましたよ」
「いやあ、はは、まあ色々ありましてねえ」
綺麗に刈り込まれた白髪頭に、お洒落な柄物のワイシャツ。喫茶店のマスターが一番ぴったりくるような風貌のこのおじさんは、先代のときからのお得意様だ。
いつも店内をじっくり見て回るサカキさんには珍しく、今日はまっすぐ俺のところまで歩いてきた。
「折り入ってご相談があるのです」
この人から俺にお願い事をしてくるなんて、滅多にないことだ。レアものレコードでも探しているのか。
レジの前で立ち止まったサカキさんは、躊躇いがちに黒ストライプのシャツの襟元をいじった。
「瀬崎さんに、調べてもらいたいレコードがあるんですよ」
少し驚いた。「入手してほしい」レコードがあるならわかる。ここはレコードショップだ。だが、「調べてほしい」とはどういうことだろう。
サカキさんは頭を掻き、人のよさそうな皺を顔中に浮かべた。
「突然のお願いで不躾なこととは思います。最近手に入れたレコードのことで……僕ではもう、すっかりお手上げなもので」
「ほう。そりゃまた、何があったんです?」
「それがですねえ」
ため息をつくと、手に持っていたレコード袋を開く。
中から一枚の真っ黒なレコードジャケットを取り出した。
「このアルバムを作ったのは誰なのか――作者を、調べてほしいんですよ」
「作者?」
アルバムの作者がわからないなんて、そんなことがあるんだろうか。
改めて差し出されたジャケットを見下ろした。正真正銘、黒一色のジャケットだ。アルバムタイトルもアーティスト名も、どこにも記載がない。相当古いものなのだろう。厚紙のあちこちに深い皺が刻まれ、右下には黴のあとらしき染みが浮き出ている。正方形の四辺は経年劣化で表面のコーティングが剥げ、中身の汚らしい古紙の灰色が露わになっていた。
「厳密に言えば、調べてほしいのは歌い手です」
サカキさんが続ける。
「ご覧の通りです。このレコード、タイトルもわからない。アーティストもわからない。クレジットもありません。当然歌い手が誰かもわからないと、情報がないないづくしです。ほら、裏面もこの通り。中にライナーノーツも入っていないし、レコードのラベルもジャケット同様、真っ黒です」
「ふむ。こんなもの、どこで手に入れたんです?」
「ここの常連さんで、コウダさんっていらっしゃるでしょ。私も仲良くしておりましてね。彼の娘さんが見つけたそうです。大学で軽音部に入っているそうですが、部室を皆で掃除していたときに見つけたらしくて。で、お父さんに聞かせてもわからず、僕もわからず、こうして瀬崎さんのところにお持ちしたという次第ですな」
「中身は聴いたんですか?」
「ええ。作品全体としては、あまり長くありません。A面とB面を合わせて、30分程度でしょうか」
「どこの国かもわからないと?」
「はい。歌はすべての曲に入っているのですが……歌詞はなく、ただ女性が歌うスキャットのような声が延々と入っているだけです。ですが……」
サカキさんは深々とため息をついた。
「これがこの世のものとは思えないほど、美しい歌声なんですよ」
サカキさんは俺よりはるかに年上で、もう五十か六十くらいの年だ。だが清潔感のある装いといい、面長な横顔といい、世にいうイケオジってやつに該当するんだろう。若い頃はさぞ女性に苦労しなかったろうと思われた。
そんな人でも、こんな顔をすることがあるのかと思う。
「この女性がどなたなのか、何としてでも突き止めたいのです」
「すごい熱意ですね」
「それはそうでしょう。魅力的な音楽はどこまでも追い求めるのが、音楽好きの性ではありませんか?」
サカキさんは俺に向き直ると、いたずらっぽく笑う。すぐに、その笑顔は気まずそうなものに変わった。
「実は、コウダさんはこのアルバムを手放すのは嫌がられたんですよ。ですが、僕もすっかりこの声にまいってしまいましてね。コウダさんに再三お願いして、譲ってもらったのです。」
サカキさんはくしゃりと頭を掻くと、ハハ、と短く笑い声を漏らした。
「いくら払ったかは、聞かんでください」
俺は手元のコーヒーを一口飲むと、黒一色のジャケットを見つめた。大の男二人がそこまではまったという女性ボーカル。どんな声なのか、興味がないと言えば嘘になる。
「どんな歌声なんですか?そのレコードに入っている女性の声は」
「そうですねえ」サカキさんは腕組みをして天井を見上げた。
「音域は高めです。優しくて、穏やかで、儚さもあるけれど芯の通った感じの歌声です。楽器で例えるなら、オカリナでしょうか。まるで子守唄のような……ああ、そうそう」
パチンと指を鳴らす。
「その女性の歌声を聴いているとね、ある光景が浮かぶんですよ」
「光景?」
「音楽を聴いていると、心に風景が浮かぶことがあるでしょう」
それは確かにある。心象風景というやつだ。たとえば俺はレッド・ツェッペリンの「移民の歌」を聴くといつも、荒れ果てた荒野を馬に乗って疾走する風景を思い浮かべてしまう。
俺が頷くとサカキさんは、
「その女性の歌声を聴くと、私はいつも夜が思い浮かぶんです。月明かりのもと、窓際に一人の女性が立っていて……でもこちらに背を向けているので、顔は見えないのです。その女性は何かを、おそらく彼女の赤ん坊を抱きかかえていて、その子に向かって歌いかけているのですよ。子守唄を」
随分と具体的な心象風景だ。サカキさんは、「不思議なことがもう一つあるんです」と続ける。
「コウダさんも、全く同じ光景を心に思い浮かべていたそうなんです」
奇妙な一致だ。俺は腕を組んだ。
たしかに、そういうことも全くないとは言えない。ピンク・フロイドの「エコーズ」を聴いたとき、暗い海の底から明るい水面に向かって徐々に浮上していくような曲だと思った。後からネットで調べたら、同じような感想を抱いているファンは大勢いた。しかし、それにはあの曲の歌詞の影響も大きい。
ボーカルの声のみで、ここまで具体的に曲のイメージが一致するだろうか。
「もちろん、タダでとは申しません。この女性の正体を突き止めていただいた暁には、うちにある稀少なレコードを5枚、お譲りいたします。瀬崎さんのお望みのものを、何でも。いかがでしょう?」
サカキさんはうちに来る常連のなかでも随一のコレクターだ。
断れるわけがなかった。




