05 まずは
三日後、タカハシが店に来た。
奴が扉を開けた瞬間、俺は言葉を失った。
数日会わなかっただけで、友人は十歳は老け込んだのではないかというほど様変わりしていた。顔色が悪く頬がこけて、しなびた瓜のようだ。目の下には濃い隈ができていた。あまり寝れていないのだろう。
それだけじゃない。
タカハシの右腕は、肘から手首まで包帯で覆われていた。
「どうしたんだよ、それ。大丈夫か?」
タカハシは下を向いたまま答えない。レジ前に来た瞬間、かすかな臭気が漂った。魚が腐ったような嫌な臭いだ。
「瀬崎、あのレコード、あるんだよな」
「あるけど……どうした? 大丈夫か?」
「返してほしいんだ」
「急にどうしたんだよ。お前が持ってってくれって言ったレコードだろ。それに……」
他に客はいなかったが、自然と声を抑えてしまう。
「あの声、俺も聞こえたんだ。あれは、やばい。聞かないほうがいい」
タカハシは俺の話を聞いているのかどうか、よくわからなかった。レジの前で俯いたまま、小刻みに体を揺らしている。
「タカハシ、お前ちょっと変だぞ。この前も夢がどうとか変なメッセージ送ってくるし……」
「いいから早く持って来いよ!」
バンッと勢いよくカウンターを左手で叩く。
いつもへらへら笑っているタカハシがこんなふうに怒鳴るなんて、初めてだ。
俺がレコードを取ってくると、少し冷静になったのか、タカハシは申し訳なさそうに頭を下げた。
「悪かった。お前が夢の話をしたから……」
「だから、その夢がどうしたんだ」
「……ナカノが毎日出てくんだよ。あいつが夢に出てきて、あのレコードを聴けって言うんだ。俺のすぐ耳元で。毎晩。お前にあれを渡してから毎晩だよ」
「ただの夢だろ?」
「違う」唸るようにタカハシが答える。
「あいつが言うんだ……聴かなきゃ許さないって。真っ赤な空の中に、あいつの首だけ浮かんでて。その首が、ものすごい顔で俺のこと睨むんだ。毎日、毎日、必ず夢の中で」
額にうっすら脂汗が浮かんでいた。
「あいつ……あいつ、ほんとは知ってたんだ。俺が、萌美ちゃんと……」
ふいに、タカハシが丸まった雑巾みたいに顔をくしゃくしゃにした。
「なんで、俺がこんな目に遭うんだよ……そりゃ、あいつには悪いことしたけど……たった一回だぞ? 一回! それだけで、なんでここまで……」
ちくしょう、と啜り泣く。
「俺は、もう、あれは聞きたくないんだ。あの声をまた聞いたら、俺は、俺は……」
「タカハシ、落ち着けよ。俺も人から聞いたんだけど、声が聞こえるだけなら大丈夫らしいから。何言ってるかわかんなきゃ大丈夫って」
「わかったんだよ」
タカハシがゆっくりと顔をもたげた。血走った目が俺を睨む。
「あの声が何を言ってるか、あの夜わかったんだ」
タカハシは右腕の包帯を解き始めた。生臭い臭気が強くなる。俺はやめろと言おうとして、
「お前、それ……」
言いかけた言葉は続かなかった。
タカハシの右腕は、肘から手首まで、チアノーゼを起こしたみたいに薄汚い青紫色になっていた。一部は紫を通りこして黒く変色し、肉が腐り落ちてきそうだ。
壊死しかけている腕のあちこちに、五百円玉くらいの大きさのでかい水疱が浮き出ていた。水疱も腕と同じ気味の悪い紫色をしている。腐りかけのマンゴーみたいな色をした膿が詰まっていた。
俺には、その膿がもぞもぞと動いているように見えた。
白い幼虫が土の中で蠢くように。
まるでそこにいる何かが、タカハシの腕から養分を吸い取って成長しているかのように。
たまらず顔を背けた俺に、タカハシが静かに告げた。
「マズハ、ミギウデ」
「……は?」
「あの声は、そう言ったんだ。まずは、って言ったんだよ。なあ瀬崎」
真っ赤に充血した目がこちらを見据える。
「あのレコードを聴き続けたら……俺、どうなるんだと思う?」
タカハシと連絡がとれなくなったのは、その1週間後だった。
「瀬崎さんのせいじゃないです。もう……関わらないほうがいいと思います」
数日後。店にやってきた葛原は、俺から話を聞いてそう言った。
「心配なお気持ちはわかりますけど、私たちでどうこうできる問題じゃないです」
「そうは言っても、何かできることもあるかもしれないだろ。俺は詳しくないけど、お祓いとかって効果あるの? こういう場合。タカハシの夢にナカノ君が出てきたってことは、それが原因じゃないかと思うんだが」
黄緑色の毛先が左右に振れた。
「その後輩の方が根本の原因ではないと思います。なんというか……きっかけは別にあって、そこにたまたまその方の念が乗っかっただけというか」
「きっかけ?」
葛原が気まずそうに目をそらす。
「やっぱり……あのレコードが一番の原因だと思います。あれそのものが、ヤバいんです」
「どうしてそう思う?」
しばらく返事はなかった。葛原は腕を組んで真剣に考え込んでいる。ややあって、言葉を選んでいるかのように、ゆっくりと話し始めた。
「前に、私は音で危険を察知できるって言いましたよね。霊の声以外にも、色々聞こえるって。明らかに……あのレコードの声は、私が今まで聞いた中で一番危険でした。いくらナカノさんって方の怨念が強かったとしても、それだけであんな声にはならないです。いえ、厳密に言えば……あれは多分、本当は声ですらないと思います」
「声ですらないって? どういうことだ。君だって、人の声に聞こえるって言ってたじゃないか」
「人の声に似せているだけです。あれを出しているのがなんであれ、もともと人間ではないですよ」
立ちすくむ俺を、葛原はどこか悲しそうな顔で見た。
「幽霊に、あんな声出せるわけないですから」
黙り込む俺に、葛原は、あのレコードがなぜこの店にあったかはわからないと話した。曰く、災害にあったようなものでたまたまなのではないか、と。
「気をつけたほうがいいと思います。一度そういうのと縁ができると、集まりやすくなるって言いますし……だからこれ以上縁を深めないためにも、この件にはもう関わらないほうがいいんですよ」
葛原の言ったことをすぐに理解できなかった。したくなかった。
一度縁ができると、集まりやすくなる?
これからも、今回みたいなレコードが紛れ込むってことか?
そんなもの売り物にできるわけがない。俺の店からタカハシみたいな犠牲者を増やすなんて御免だ。でも、そんなこと俺にどうやって判別できる?
俺は考えた。考えて考えて、一つの結論を出した。
「葛原さん、次のバイトってもう決まったの?」
「それは、へへ、お恥ずかしながらまだです……」
「この前、女将さんが言ってた話だけど。真剣に考えてみてほしいんだ。ここで、働く気はない?」
「いいんですか?」
葛原の表情が変わる。好きなアーティストのライヴを目の前にしたような、キラキラした希望に満ちた顔。
「うん。きみの音楽知識なら申し分ない。それに、もしきみの言うとおり、そんなヤバいレコードがうちに集まりやすくなるなら……それを選別する耳のある人がほしい。だろ?」
葛原は笑った。耳の話をしたときに見せた、困ったような笑顔じゃない。心からの笑顔だった。
今でも考える。
この先、何が起こるのか知っていたら。
俺はそれでも、このとき葛原を誘っただろうか。
閉店後、俺は店内をもう一度見回った。機器の電源、スタッフルームの鍵、レジの鍵、諸々点検して、最後に店の電気を消す。パチッと音がして、周りが急に暗くなった。目に入る光は月明かりと、店の目の前にある街頭だけだ。
外に出ると、煌々と光る街頭によくわからない羽虫がたくさん群がっているのが見えた。ふと、タカハシが「虫の羽音みたいな音が聞こえる」と言っていたことを思い出す。
俺は頭を振って嫌な記憶を払うと、振り返って店のドアに鍵をかけた。そのとき、
パタパタ……
かすかに虫の羽音のような音が聞こえた。
次の瞬間、何かが物凄い勢いで飛んできてドアにぶつかり、グシャッと嫌な音を立てて下に落ちた。思わず覗き込む。蛾だ。子どもの握りこぶしくらいのサイズの、でかい蛾だった。
パタパタ……
また、音が聞こえた。
俺は振り返った。街頭が照らす夜道には、なんの気配もなかった。
もう引き返せない。
どこかで、レコード盤の裏返る音がした。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!!
このお話は今後も、瀬崎と葛原の凸凹コンビが様々な「音の怪異」に立ち向かう、連作短編のような構成となっています。
気に入っていただけたら、続きも読んでいただけたらとても嬉しいです。
また、もしよければ、応援、ブクマ、評価などしていただけますととても励みになります!
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!




