04 葛原の能力
タカハシ:あのレコードって、まだお前の店にあるか?
瀬崎 :あるけど。どうした?
タカハシ:いや、ならいい
タカハシ:今度、お前の店行っていいか?
瀬崎 :別にわざわざ聞かんでも。営業時間内ならいつでもどうぞ
瀬崎 :何かあったのか?
タカハシ:いや
タカハシ:夢を見るんだ
瀬崎 :夢?
瀬崎 :おーい
チリンチリン、と音が鳴って、俺はスマホから顔を上げた。
店の入口に葛原が立っていた。
「昨日はすみませんでした。最後に失礼なことしちゃって」
黄緑色の頭が礼儀正しく一礼すると、呆気にとられた俺の顔を見てにこりと微笑んだ。
黎音堂は決して広い店ではない。中央には背中合わせになった複数のレコードラック、その周りをさらにレコードやCDの棚が取り囲んでいる。俺のいるレジまでは、その間の人一人がなんとか通れるくらいの通路を抜けなければいけない。
他に客がいないこともあってか、葛原はすいすいとその隙間を抜けると俺の前までやってきた。
「あれから今日一日、よく考えてみたんです。本当は、あんまり関わりたくなかったんですけど……やっぱり、私しかできないと思って」
何のことを言っているのか、さっぱりわからない。無言で首を傾げる俺に、葛原は苦笑いを浮かべると言った。
「昨日のレコード、私にも聴かせてもらえませんか?」
「別に聴くのは全然構わないんだけど」
レジの背後にはスタッフルームに続く扉がある。俺はそこから出ると、今取ってきたレコードに目を落とした。背後でカチャリとドアが閉まる。
「昨日はあんなに嫌そうにしてたのに、どういう心境の変化?」
「え、えっと……そのレコードが欲しいわけじゃないんです」
葛原は組み合わせた手をもじもじさせながら俯く。
「そういうの結構わかるんで、何かお力になれればと」
「そういうのって?」
「だから……」
頬を赤らめると、すばやく左右を見渡して他に客がいないことを確認した。
「そのお友達が言ってた話、多分本当なんだと思います。……私なら、確かめられます」
「え」
手の中で数cm、レコードが滑った。
「葛原さん……霊感的なものがあるってこと?」
「まあ……そうですね。そんな感じです」
細い指が派手な毛先をかき上げる。色素の薄い耳に、カラスの瞳みたいな真っ黒のピアスがついているのが見えた。
「霊的なものなら何でもわかるってわけじゃないんです。一口に霊感があると言っても、どの感覚器官を使うかは人によって違うんですよ。見れたり触れたり、中には臭いでわかる人もいるらしいです。会ったことはないですけど」
意を決したように俺を見る。白い指が、黒々とピアスの輝く耳たぶを指す。
「私は、耳でわかるんです」
「……霊の声が聞こえるってことか?」
「それ以外にも、色々聞こえます。人じゃないものが出す、声とか音とか全般。自分にせまる危険が音となって聞こえるっていう方が近いかもしれません」
「そんな……信じられないな」
「よく言われました」
葛原が肩をすくめる。唇の端に一瞬寂しげな笑みが浮かんだが、すぐに溶けて消えた。
「話しても気味悪がられるだけですし、あんまり人に言わないようにしてきたんです。でも、そのレコードが本当にヤバいものなら……それを判断するのは、私しかできないと思って」
澄んだ瞳が、まっすぐ俺を見据える。
彼女の狂言という可能性はないだろうか。レコードを持ったまま、俺はしばし思案した。仮に狂言だとして、そんなことをするメリットがどこにある?それに、嘘をついている顔には見えない……。
俺が黙ったままでいると、ふと葛原が笑顔を浮かべた。こんなときにも笑うのか。
いや、それは違うなと思い直した。
昨日の夜もたびたびこんな顔をすることがあった。バイトを辞めたと言ったとき。就活に失敗したと言ったとき。
悲しいことを誤魔化そうとするとき、彼女はこんなふうに眉を下げて笑う。
おれは無言でレコードを差し出した。丸い瞳がさらに丸く見開かれる。試聴用のヘッドフォンをつける前、小さな声で「ありがとうございます」と聞こえた気がしたが、俺は気づかない振りをした。
しばらくの間、葛原は真剣な顔で音楽に聴き入っていた。俺はカウンターに積んである音楽雑誌を捲る振りをしながら、その様子を窺った。
不思議な奴だ、と思う。
このレコードは彼女とは何の関係もない。変人扱いされるのが嫌なら、わざわざうちの店に来る義理は全くない。なのに、彼女はこうしてやって来た。昨日はなかった隈が目の下にうっすらできているのを見ると、一晩かけて色々考えたんだろう。どうしてこの店のためにそこまでしてくれるのか、俺にはよくわからなかった。
突然、葛原がヘッドフォンを外した。
「瀬崎さん」
わずかに震える声で俺を呼ぶ。
「これ……これ、思ってたよりヤバいです。絶対、お店に出しちゃダメです」
ただでさえ色の白い肌が、血の気が失せて真っ青になっている。ヘッドフォンを持つ指がカタカタと震えている。
演技には見えなかった。
「瀬崎さんのお友達が言ってたとおりです。これ……人の声みたいな音が聞こえます」
こちらを見つめる顔は真剣だった。そして怯えていた。
あの日のタカハシと同じように。
俺は雑誌を閉じると、カウンターから出た。
「その声ってのは、何て言ってるの?」
「わかりません。はっきり聞こえる前に止めたので……。声が聴こえるだけならまだ大丈夫だと思うんです。何を言ってるかがわかったら、絶対だめです。すごく、よくないことが起きる気がします。」
「……ちょっと、大袈裟すぎない?」
葛原が、震える手を俺に向けて伸ばした。
「私の手を、握ってもらえませんか」
「は?」
「その状態で、このレコードを一緒に聴いてください」
「俺はいいけど、いいの? こんなおじさんの……」
「そんなこと言ってる場合じゃないですから!」
彼女の権幕に圧され、しぶしぶアンプをスピーカーに切り替える。俺たちが話す間も回り続けていたレコードの音が、店内に流れ出した。
「いいですか」
葛原がぎゅっと俺の手を握った。その瞬間。
ぼわん……
何かが耳の奥で鳴った気がした。いや、あまりに微かな音だったからそう思ったのかもしれない。どこか遠くから聞こえてくるような、それでいてすぐ近くで鳴っているような。
明らかに、このアルバムに入っている音ではなかった。
「聞こえました?」
葛原の声に頷く。同じ音が、また聞こえる。
バ……
今度はもっと輪郭を持った音になっていた。さっきよりも聞き取りやすい。人間の……囁き声のような音だ。
首筋が粟立つのを感じた。なぜかはわからないが、生理的な不快感を催す声だ。まるで人でないものが、無理して人の声を真似ているかのような。
マ……デ……
もう一度聞こえた。葛原の言うとおりだ、と、このときわかった。
この声は、何かを喋っている。
スピーカーの前にしゃがむタカハシの姿を思い出した。あのとき……もしかして、あいつはこの言葉を聞き取ったのか。
――何を言ってるかがわかったら絶対ダメです。
先ほどの葛原の言葉が蘇る。背筋を冷たいものが駆け抜けた。駄目だ。これ以上聴きたくない。
プレーヤーに手を伸ばす。だがそれより早く、葛原がレコードの針を上げた。レコードの回転が次第にゆっくりになり、やがて止まる。
葛原はパッと俺の手を離して振り返った。
「これで、信じてもらえました?」
「あ、ああ……」
俺は彼女に握られていた手を見下ろした。
「何だったんだ、今の……」
「これが、私の力……みたいなものです。変な音が聞こえるのと、触れた相手にその音を聞かせる力」
役に立ったことはほとんどないですけどね、とまた笑う。
「あいつの周りにいると変な音が聞こえるって、周りからずっと避けられてました。瀬崎さんも、気味悪かったですよね」
すみません、と黄緑の頭が下がる。
「本当は、ここまでやるつもりなくて。このお店すごくいいところだから、来づらくなるのいやですし。でも、思ってたよりずっとヤバそうなものだったので」
顔を上げた葛原は、もう笑っていなかった。
「そのレコード、絶対お店に出しちゃだめですよ。瀬崎さんも、絶対聴かないようにしてください」
本音を言えば、まだ混乱している。自分がいま経験したものが何だったのか、よくわからない。それでも、「このレコードがヤバいもの」だという葛原の言い分はすんなり納得できた。
俺は頷いた。
「よかった」
葛原がにこりと笑顔を浮かべる。この笑顔はあの恥ずかしそうな笑顔とは違う。心から安堵している顔だ。昨日の夜からこの件で心配してくれていたのだろう。礼を言うべきだろうか。でも、何に対して言えばいいのか。
迷っている間に、相手はくるりと踵を返した。
「あ、ちょっと」
考える前に声が出ていた。
入口に向かいかけた葛原が、不思議そうな顔をして振り返る。
言葉につまった俺は、彼女の服に視線を落とした。昨日とは違う、ピンク・フロイドのTシャツ。
「ピンク・フロイド、好きなんだろ?俺も好きなバンドだから、そこに一棚作ってあるよ。せっかくここまで来たんだし、見てったらどう」
どうして自分がそんなことを言ったのかわからない。
葛原は祭りでもらうビー玉みたいに目を輝かせて、嬉しそうに頷いた。




