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レコードショップ黎音堂の音楽怪異譚  作者: 甘月
最終話 レコードショップ黎音堂
36/39

05 ジジジ

 灰谷が車を止めたのは、山道に入ってしばらく登った先の路肩だった。あたりは既に日が落ちて真っ暗だ。エンジンを止めた灰谷は、取手に手をかけ躊躇う素振りを見せた。


「ここから少し行ったところに、登山道があります。そこから登ると、頂上まで比較的早く行けるルートのようです」


 ヘッドライトの光が、アスファルトの道路の上に不気味に伸びる。その光の輪の外側に、小さな階段の一段目が見えた。すぐそばには細長い看板のようなものも立っている。暗くて字までは読めなかったが、「○○登山道入り口」とでも書いてあるんだろう。


「私……行く必要ありますかね?」


 小さく震える声で灰谷が言う。


「当たり前だろ。誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ」

「さっきも言いましたけど……私だって命は惜しいですよ。いくらオカルト編集者として、特ダネになるって言われてもね」


 胸元をゴソゴソ弄ったあと、ダッシュボードを開けた灰谷はようやく目当てのタバコを見つけ、口に咥えた。


「ここまで連れてきたんだし、情報も十分に提供しました。もうお役御免ってことで、どうですか」


 どこまでいっても小賢しくて卑怯な奴だ。

 今までは散々、オカルト絡みといえば目の色を変えて俺たちに絡んできてたってのに。この前のストーカー女の件で命の危機に晒されて、何か思うところでもあったのかもしれない。


 俺は地面に伸びる光の先を、じっと睨んだ。登山道の階段の上は、真っ暗闇で何も見えない。獲物を捕食する怪物のように、底知れない闇がぽっかりと口を広げている。

 傍にしげる木々が、手招きをするように四方八方に枝を広げている。


 俺だって人間だ。別にこいつが着いてきたところでこれ以上役に立つとも思えないが、一人よりは複数人の方がマシだと思った。


「ストーカー女に襲われたとき、葛原がいなかったら俺たち二人とも死んでたかもしれないんだぞ」

「それはまあ……そうですけど……」

「それに、俺が葛原を連れて帰ってきたら、山から降りる足がないと困る。あんた、俺たちを見捨てて一人で帰るつもりか?」

「いや、それは……いくら私でも、そこまで人でなしじゃ」

「お役御免ってことは、そういうことだろ」


 灰谷は気まずそうに口ごもりながら、「私だって申し訳ないとは思ってるんです」というようなことをもごもご呟いた。


「そう思うんなら、俺たちが戻ってくるまで、ここで一人で待っててくれ。それが嫌なら、俺と一緒についてくるんだ」


 その一言が、決心させたらしい。

 火をつけたタバコを一息吸い、長く息を吐いたあと、灰谷は小さく頷いた。


 登山道は狭かったが、傾斜はキツくなく比較的歩きやすい。俺たちは途中で購入した懐中電灯を手に、ゆっくりと進んだ。いくらなだらかな道とは言え、夜の山道なんて二人とも歩くのは初めてだ。葛原を見つける前に、二人揃って滑落でもしたら洒落にならない。懐中電灯のわずかな光を頼りに、慎重に足元を確認しながら進むほかなかった。


 登山道によっては、丸太階段や横木などで整備されているところもあると聞く。だがここは、ある程度ならされているとは言えけもの道のようなもので、人の手が入っている気配はほとんどない。もっとも、この暗闇の中では下手に階段がある方が、躓いて危なかったかもしれない。


 リーリーと、コオロギか何かが鳴く声がどこかから聞こえてくる。夜の山の空気は都会に比べればひんやりとしていたが、それでもしばらく歩いていると脇に汗が滲む。汗をかいているのは、暑さだけが理由ではないかもしれないが。


 今更ながら、武器になるようなものを持ってこなかったことを後悔した。葛原を助けることで頭がいっぱいだった。相手がどんな奴かなんて、その時は考える余裕もなかった。


「奴に捕まるのだけは、絶対に避けましょうね」


 山に入る直前、灰谷が呟いた言葉が甦る。月明かりにぼんやりと照らされた顔は弱々しく微笑もうとしていたが、ただ口の端がピクピクと痙攣を起こしただけに過ぎなかった。

「生きたまま食われるのだけは、ごめんですから」


 脳裏に、白い骸骨のような模様が描かれた蛾の死骸が浮かぶ。サワベマキコが抱いていた、蛾の赤ん坊。あれが大きくなったら、一体どんな姿になるのか……想像すると足がすくみそうで、目の前の懐中電灯の光に全神経を集中した。


 安全に頂上に行くこと。灰谷が得た文献通りなら、そこに葛原もいると考えていいだろう。そして葛原を確保し、皆で安全に山を降りること。いま考えるべきことは、それだけだ。

 葛原が山頂にいるとして、まだ無事でいるのか。

 そんなことは、いま考えちゃいけない。

 懐中電灯を握る手に、力がこもった。


「瀬崎さんが彼女のためにここまでするとは、思ってませんでしたよ」後ろから、灰谷がポツリと言った。

「だって、そんなに人に興味もつタイプじゃないでしょ、あなた」


 俺は一瞬立ち止まって振り返った。


「あいつは、別だ」

「なぜ?」再び歩き出した俺に、灰谷の声が届く。

「葛原ちゃんのほうはともかく、私から見て、瀬崎さんがとくに彼女に入れ込んでるような様子はありませんでしたけどねえ」

「別に、あんたに見せることじゃないだろ」


 静かな山道に、二人の足音がザクザクと、わずかに響く。


「俺があの()に売ったレコードで、あの()の人生が救われた。そいつがヤバいことに巻き込まれたなら、また救ってやる義務がある。それだけだ」

「おかしな論理ですねえ」


 灰谷が少しだけ、いつもの調子を取り戻して鼻を鳴らした。


「要は、あなたの人生に葛原ちゃんが意味を与えてくれた。だから彼女のことを助けたい。そういうことでしょ」


 俺は振り返らなかった。初めはなだらかだった勾配が徐々にキツくなってきて、若干息が上がってきた。


「だとしたら、おかしいか」


 灰谷がどういう表情をしていたかはわからない。俺の言葉に、「いいえ」と短く答える返事だけが耳に届いた。


 しばらく歩いていると、カチリという音のあと、後ろから焦げ臭い独特の匂いが漂ってきた。

「おい」

 俺は再度足を止め、灰谷を睨みつけた。


「タバコはやめろ。山火事になったらどうする」

「ちゃんと携帯灰皿持ってきてますって」

 灰谷も苛々した様子で俺を睨み返す。


「タバコくらい吸わせてくださいよ。こんな状況、落ち着いてられる方がおかしいんだから」

「けど、匂いなんかで俺たちの居場所がバレるかもしれない。目立たない方がいいだろ」

「山頂に近づく前には消しますよ」

「それならもう消した方がいい」


 俺は懐中電灯で少し上の方を照らした。道の先がT字の形に分かれている。右から来る道は俺たち以外のルートの登山道で、ここで合流するのだろう。合流地点に小さな立て札がある。光を当てると、左の道を示す矢印と「山頂まで1km」の文字が見えた。


 灰谷が小さく息を吐く音が聞こえた。

「わかりま……」

 ガサガサガサッ


 何かが激しく動く音が、俺たちの背後から聞こえた。

 俺も灰谷も、一瞬その場に凍りついた。心臓がどくどくと脈打ち始める。いや待て。まだ焦るのははやい。ただの野生動物かもしれない。いや、それならそれで別のヤバさがあるのか? とにかく、落ち着け。いまパニックになるのだけは、避けたい。


 懐中電灯の光の中に、無精髭の生えた顔がぼうっと浮かび上がる。目がきょときょとと忙しなく動き、額に脂汗が浮かんでいる。

「今のって……」

「わからん。とりあえず落ち着こう。そこから動くな」


 そのとき、生臭い匂いが俺たちの鼻を突き刺した。思わず鼻を手で覆う。この匂いには覚えがある。タカハシの腕から漂ってきた匂いだ。


 ジジジ……

 何かが回転するような音が聞こえる。鳴き声だろうか。セミともコオロギとも違う、生理的に不快感を催す異様な音。

 バサ……

 重たい何かが、大きく羽ばたく音が聞こえた。


「うわあああああ」

 灰谷が叫び声を上げて走り出した。

「待て!」

 俺の静止も聞かず、灰谷が横を走り抜けていく。

「くそ」すぐにその後を追った。


 後ろからは、ジジジ……ジジジ……という音がだんだん近づいてくる。ちくしょう。だめだ、想像するな。

 羽音がする。規則的に頬を撫でる、生暖かい風。やめろ、絶対に振り返るな。


 必死に自分に言い聞かせ、足をがむしゃらに前に出す。灰谷を呼ぼうとしたが、舌が口蓋に張り付いて動かない。背後でグチャ、という音がしたのは気のせいか。何の音かなんて考えたくない。足が震える。どうしてもっと速く走れないんだ。


 先を行く懐中電灯の光が大きく揺れている。灰谷はもう、足元なんて確認しちゃいないだろう。前が見えているかも怪しい。危険だ。


 懐中電灯の光が右に曲がった。山を下ろうとしているらしい。


「灰谷!」


 口をこじ開け、声を絞り出した。


「気をつけろ!」


 バラバラになるのは危険だ。俺も右に曲がる。一旦、後ろにいる化け物を撒いてから、二人でもう一度山頂を目指せばいい。


 ジュル……


 羽音に混じって聞こえる、湿った音。生臭い匂いがさらに強烈になってくる。重くなってきた足に力をこめ、地面を蹴る。ザッザッという音。呼吸が苦しい。肺の奥で血の滲む味がする。でもここで止まるわけにはいかない。


 前方で、バキッと何かが砕けるような音がした。うわあ、と灰谷の悲鳴。

「灰谷! 灰谷!」

 ドサッと何かが落ちる音がする。宙に浮いていた懐中電灯の光が地面に落ちた。そのままコロコロと、道の端に向かって転がっていく。


 灰谷が、足を踏み外して落ちたのだ。


「灰谷! 大丈夫か!」


 返事はない。助けに行くべきだろうか。でも後ろの化け物は、どうする。

 一瞬迷いが生じたのが、間違いだった。

 必死に進めていた足の動きを緩めたそのとき、「ジジジジジ」と一際でかい音が聞こえた。

 しまった。反射的に、脇に飛び退こうとする。次の瞬間、右脚に鋭い痛みが走った。


「ぐあっ」


 声を上げ、そのまま横に転がる。先には朽ち木があった。誰かが踏み抜いたような跡がある。灰谷かもしれない。

 すでにダメージを受けていた朽ち木は、到底俺の体を支えられるものではなかった。

 再度バキッという音が響き、体が一瞬宙に放り出される。ズザザ……と音がして、体がゆっくりと斜面を滑り始めた。


「く……そっ」


 このまま滑落だけは絶対に避けたい。縋る思いで伸ばした手が、奇跡的に木の根に触れた。

 これだ!

 必死に手に力を込め、根をしっかりと掴む。すぐに、もう片方の手もその横に並んだ。体の動きは、ひとまず止まった。


 化け物の声は、もう聞こえない。何メートル落ちたのかわからないが、そう距離はないはずだ。月明かりの下、木の根の横に、人一人が座れそうな窪みがあるのを見つけた。そろりそろりと、その空間に移動する。右のふくらはぎを、生暖かいものが流れ落ちていくのを感じた。こっちの足には体重をかけないほうがいいだろう。どうなっているのか、今は見たくない。


 根元に座り込み、崖の上に耳を澄ました。何の音も聞こえない。羽音も、ジジジという鳴き声も。

 それでも安心はできない。たっぷり五分は待って、俺はようやく詰めていた息を吐き出した。


 安心すると同時に、激しい痛みが右の太ももを襲う。恐る恐る目をやると、ジーンズの前に500円玉ほどのサイズの穴が空いており、血が噴き出していた。鋭い何かが、太ももを貫通したらしい。どくどくと、止まる気配のない血が溢れてジーンズとその下の足を濡らしていく。足先が痺れ、冷たくなっていく感覚がする。


 たしか、大腿にはでかい血管が通っているんじゃなかったか。


 無理やり傷口から目を逸らす。そんなこといま考えても、どうしようもない。考えるな。

 着ているシャツを脱ぎ、Tシャツ一枚になる。シャツの袖を持って、これでもかというほどキツく傷口を縛りつけた。応急処置として正しいか自信はないが、やらないよりはマシだ。


「灰谷」


 小声で呼びかけたが、返事はない。すぐ近くに、誰かがいるような気配もなかった。もっと下まで滑り落ちてしまったのかもしれない。

 そうだとしたら、そもそも命があるかどうかさえ怪しい。


 冷たい恐怖が、胸の中をじんわりと侵食していった。

 こうなることを全く想定していなかったわけじゃない。それでも、いざ知った人間が死んだかもしれないとなれば、切り替えてすぐに動けるほど冷酷な人間でもない。いくら、いけすかない奴だと思っていたとしてもだ。


 俺が、あいつを無理やり連れてきたから。真っ先に浮かんだのは、その言葉だった。あいつが死んだとしたら、それは俺のせいだ。


 いやでも、そもそもあいつが葛原にレコードを聴かせなければ……。奴の自己責任だ。そんな声が続けてこだまする。いや、そんなことはどうでもいい。


 いま大事なのは、灰谷の生死が不明なこと。葛原を助けに行けるのは、俺だけになったということだ。


 木の幹を支えにして、そろそろと立ち上がる。右足がズキズキと痛むが、考えないようにした。斜面はそこまで急じゃない。気をつけて登っていけば、さっきの道に戻れるだろう。

 用心しながら、俺はそろそろと左足を前に出した。

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