03 おいでよ
足の下で柔らかい感触がする。湿った土。葉っぱの匂い。小さい頃、同じ匂いを嗅いだことがある。いつだったか……ああ、そうだ。家族でキャンプに行ったとき。お父さんがテントを張っている横で、爽やかな澄んだ空気を思いっきり深呼吸した。「空気がおいしいねえ」なんて、母さんが笑っていた。私が覚えている、最後の家族の思い出。
あれ以来、家族でどこかに旅行したことはない。
母さんは私を避けるようになったし、そのせいかわからないけど、父さんともだんだん話さなくなっていった。父さんは色々私に話しかけてくれたけど、気を遣っているのは明らかだった。うちの家は、いつも気まずい空気で覆われていた。
頭上で木の葉がザワザワと音を立てた。もうどれくらい歩いたかわからない。そもそも、ここはどこなんだろう。なんで私はここにいるんだっけ。
わからないことだらけだけど、ここがどこかの山か森の中ということだけはわかる。ひんやりした空気が肌に心地いい。目の前には、見渡す限り背の高い木々が延々と続く。足元には雑草がたくさん生えていて歩きづらかった。普段、人が来るところじゃないのかもしれない。
空は既に暗くなり始めていたけど、不思議と怖くはなかった。
自分は、行くべき場所に向かっているんだという気がした。
おいでよ。
ひやりとした風にのって、そんな声が聞こえた。
そうだ、あのキャンプのときも。同じ声を聞いた気がする。
父さんと母さんがテントやらバーベキューやらの準備にかかりきりになって、私は何をすればいいのかわからなかった。退屈になって、二人から少し離れて森の中に入ってみた。都会のアスファルトとは違う、足の下で枝がポキッと折れたり、落ち葉の感触がザクザクと伝わってきたりする感触が楽しかった。そしたら、どこからか、ルルルルル……と笛を吹くような音が聴こえてきた。その音を探して、また歩いて……音が一番大きく聴こえるところまで来たけど、周りは木ばかりで何もなかった。
「だれかいるの?」
声に出した瞬間、音が止んだ。
--ぼくのおとがきこえるの?
しばらくして、返事があった。
「うん」
私は頷いた。自分と同じように、ここに遊びに来ている子がいるのだろうと思いながら。
--どうだった?
「きれいなおとだった。ふえもってるの?」
返事はなかった。
「わたし、あっちでキャンプしてるの。かくれんぼしてるの? あっちであそぼない?」
私は振り返って、母さんと父さんのいるほうを指差した。木々の隙間からテントのベージュ色と、その前で動く二人の姿が見えた。
--おいでよ。
ふいにそんな声が聞こえて、私はまた振り返った。木の陰に誰か隠れているのかと思って回り込んでみたけれど、誰もいない。
少し、気味が悪くなった。
母さんが私を呼ぶ声が聞こえた。
「ママとパパのとこにもどらなくちゃ。あそぶなら、あっちであそぼ」
もう一度誘ってみたけど、答えはない。私は諦めて、母さんの声がする方へ来た道を戻っていった。
そうだ。思えば、あれが不思議な音を聞いた初めてだった気がする。そのときは、近くで同じようにキャンプをしている家族がいるんだ、としか思っていなかったけれど。
ルルルルル……。
今度聞こえた音は、記憶の中の音じゃなかった。実際に、いま耳に届いた音だ。
待ってたよ。
また、声が聞こえた。
その瞬間、突然目の前が開けたような気持ちになった。
あの声の主は、私のことを待っててくれていたんだ。あれから、ずっと。
ふわりとした温かい気持ちが胸の中に流れ込んでくる。無性に懐かしかった。
ここがどこか、どうやってここまで来たのか。そんなことはもうどうでもいい。
あの綺麗な、笛のような音。あの音がする場所に、私を求めてくれる存在がいる。あそこに行けば、この素敵な音色をずっと聴き続けることができる。
それがすべてだ。
目指す場所は決まった。
しっかりと、大きく前に足を踏み出す。踏みしめた足の下で、土がざくりと音を立てた。
***
夏は日が長いといえ、フロントガラス越しに見える空は下から薄紫色に変化しつつある。直に、完全に陽が落ちるだろう。
手元に見える、タバコで詰まった灰皿にちらりと目を落とす。助手席に座った瞬間は車内のひどい臭いに一瞬吐き気を催したが、窓を開けて換気したおかげでだいぶマシになった。
横では灰谷が、苛立たしげに指先でハンドルを叩いている。
「この件、やっぱり深入りしない方がいい気がします」
短いため息とともに、灰谷が吐き出した。目はまっすぐ前に向けたままだ。車内の冷房は十分に効いているのに、額にうっすらと汗が浮かんでいた。
「葛原のことを見捨てるって言うのか」
「いや、まあ、そう言われると……。でもね、私だって命は惜しいですよ」
胸ポケットに手をやり、そこにタバコがないことに気づいたのか、灰谷は苛立たしげに舌打ちした。
「どう考えたって、相手の狙いは葛原ちゃんです。それに……こいつの音楽の虜になった人間は、全員ろくな目に遭っちゃいない」
「あんたがレコードを持ち込まなきゃこんなことにならなかったんだぞ。よくそんなことが言えるな」
つい語気が荒くなる。あまりに自分勝手な灰谷の言い分に、一度落ち着いた怒りが腹の中で再び熱くなる。
灰谷はとくに動揺する風もなく、少しだけ顎を後ろに引いた。
「私がサワベマキやネクローシスの一連のレコードのことを調べていたのはね、自分の興味もありますけど、葛原ちゃんにもお願いされたんですよ」
「葛原が?」
一瞬怒りを忘れ、俺は組んでいた腕を解いて灰谷を見た。
「ええ。彼女、気にしてたみたいです。以前、ババに言われたっていう、『あの方に気に入ってもらえそうだ』って言葉をね。そのあとに、ネクローシスの一件もあったもんだから……この店に妙なレコードが集まってくるのは、自分のせいじゃないかと気に病んでたようです。それで、私に『何かわかったことがあれば教えてくれ』って、言ってたんですよ」
知らなかった。そんなこと、全然。
だからあいつは、俺が灰谷のことを悪く言うといつも庇っていたのか。
俺はもう一度、腕を組んで窓の外に視線をうつした。
「まあ、その葛原ちゃんの予感は、結果として正しかったわけですねえ。だが、相手が葛原ちゃんに目をつけたのは、そんな最近の話じゃない。あの写真を見る限り、もうずっと前から狙っていたんですよ。彼女のことを」
だから危険だと思うんです、と灰谷は続ける。
「相手の葛原ちゃんへの執着は相当なもんです。我々が行ったところで、助けられる見込みは……限りなくゼロに近いでしょう。逆に言えば、向こうの狙いは葛原ちゃんただ一人です」
流石にその先を口にするのは気が咎めたのか、続く言葉はなかった。だが、それでも十分だった。
葛原を助けに行かなければ、これ以上黎音堂に危害が及ぶことはない。
そういうことだ。
俺は黙って、窓の外の景色を見続けた。空はさっきよりもさらに暗くなっていて、遠くに見える山の影が黒々と立ちはだかっている。一定間隔で並ぶオレンジ色の照明が、高速道路の激しいスピードの中で次々と後ろに流れていく。
俺は葛原を想った。
たしかに、最初に彼女を雇ったきっかけは、俺の店を守るためだった。彼女に危険なレコードを聴き分けてもらうことが目的だった。そうでなければ、雇う必要なんてなかった。
店を守るという当初の目的を考えれば、ここで葛原を助けることはむしろ真逆の行動になるといえるだろう。彼女がいる限り、俺の店にはまた変なレコードが集まってくるのだろうから。
正直なところ、葛原がいなくなっても俺一人で店を続けることは、十分に可能だ。彼女は優秀なバイトだ。それは間違いない。接客態度はいいし、レジ打ちなどの細かい業務もそつなくこなすし、ポップを書く才能もある。でも、それだけだ。残酷だが、それは事実だ。彼女がいないと黎音堂が回らない、なんてことはない。
汚れた窓ガラスの向こうに、葛原の困ったような笑顔が浮かんだ。
あの笑顔が苦手だった。
あの顔を見るたびに、ここまでこいつはどんな人生を送ってきたのだろうと、考えざるを得なかった。私はこんなに傷ついているのに、誰も気がついてくれない。そう言われているみたいで、心臓の奥がざわざわして落ち着かなかった。周りの奴らが気づこうとしないことにも、もっと苛々した。普通に笑えば、十分魅力的な笑顔なのに。
だから一度、彼女にその顔で笑うなと苦言を呈したことがある。あれは完全に俺のエゴだった。俺が、見たくないから。苛々させられるのが嫌だから、そう言っただけだ。
葛原がどう思ったのかはわからない。でもそれ以来、彼女があの顔で笑うことは滅多になくなった。少なくとも、俺の前では。
その代わり、よく泣くようになったし、生意気な口をきくことも増えた。それはそれで困ったのも事実だ。いつもヘラヘラ笑っているだけの奴かと思いきや、意外と喜怒哀楽の激しい奴だった。そういうタイプは苦手だ。彼女の能力の件がなきゃ、自分からわざわざバイトとして雇うなんて絶対有り得ない。
俺はずっと一人で店をやってきた。いや、一人でやってこれたんだ。
うるさくて子どもっぽくて泣き虫で、俺のペースを乱してくるような同僚なんて、欲しくなかった。
はずだった。
「どうして俺には言わなかったんだ」
心の中だけで呟いたつもりが、口に出ていたらしい。灰谷が気まずそうに舌を鳴らす音が聞こえた。
「瀬崎さんに、心配かけたくなかったんじゃないですか。あの娘、気にしいだし」
「変な我慢はするなって、前にも言ったのに……」
もう少し、信頼されていると思っていたんだが。店に妙なレコードが集まる原因が自分だとわかったら、俺が解雇すると思ったんだろうか。いやそれとも、何も言わずに辞めるつもりだったのか。
「そのうち、言うつもりだったと思いますよ」静かに灰谷が言った。
「だってあの娘、あの店のことも瀬崎さんのことも大好きじゃないですか。まあ、それはちょっと語弊があるかもしれませんが……尊敬はしてますよ。じゃなかったら、この前のストーカー女の件だって、あんなに体はって瀬崎さんのこと守ろうとしませんって」
窓ガラスに浮かぶ葛原の顔が、目まぐるしく変わっていく。好きなアルバムについて熱心に話しているときの顔。レコード盤の検盤をしているときの真剣な顔。俺が述べたアーティスト観に対して、不満そうにしているときの顔。シャマールがいなくなったときの泣き顔。よしので酒を飲んでいるときの楽しそうな顔……。
そして昨日、ピンク・フロイドのTシャツをプレゼントしたときの顔。
あいつが、どんな人生を送ってきたのかなんて俺は知らない。知る必要もない。確実にわかるのは、あいつの人生が音楽に救われたということだけだ。
たぶん、昔の俺みたいに。
俺がレコードショップをやる理由に気づかせてくれたのが、葛原だ。
今までは、ただ自分がレコードを好きだから。そんなふうにしか思って来なかった。
本当は違った。
昔の自分や葛原みたいな奴が、良い音楽と出逢えて、少しでも人生を違う方向に歩んでみようと思うことができたなら。
それは、すごく意味のあることじゃないかと、心のどこかで思っていたからだ。
「葛原は助ける。絶対にだ」
窓の外を見たまま言い放った俺の言葉に、灰谷は沈黙で答えた。




