02 失踪
開店時間を過ぎても葛原が来ない。そんなこと、雇って以来初めてだ。さっきから何度もLINEで連絡しているのだが、一向に既読がつかなかった。
寝坊でもしたのだろう。最初はそう思った。決して褒められたことじゃないが、一度くらいなら大目に見てやってもいい。出勤してきたら、一言釘をさしてやればいいだけの話だと思っていた。
だが、すでに時刻は昼過ぎだ。ここまで来るとさすがに心配になってくる。
ついには電話もかけてみたが、それも反応なしだ。コール音が鳴り続けるばかりで、誰もとらない。
短く舌打ちをして電話を切った。
葛原に何かあった。それは間違いないだろう。無断欠勤をするような奴じゃないことは、一年間一緒に働いてきてよくわかっている。
体調でも崩したのか。詳しく聞いたことはないが、彼女は一人暮らしだったはず。若いからといって深刻な疾患に罹らないという保証はない。あいつの場合、ロック漬けでどう見たって健康的な毎日を送っているとは言い難いし……。
そこまで考えて、昨日灰谷が持ってきたレコードのことを思い出した。
LPのレコードを聴いた人間が、失踪する。
嫌な予感がした。もし、そうだとしたら……。
悩む時間は、長くなかった。
バックヤードにとって返すと、棚の下の方に埋もれた書類を引っ張り出す。葛原の履歴書だ。そこに書かれた住所をすばやくメモすると、俺は店の扉に「臨時休業」の張り紙をし、葛原のアパートを目指した。
野方駅からほど近い閑静な住宅街に着く頃には、ポロシャツが背中に張り付くほど汗をかいていた。
お世辞にも新しいとは言えない、やや寂れたアパートの前に着く。通りに面した窓が狭い空間の中でぎちぎちに並んでいて、中の部屋の狭さを十二分に想像させる。金のない一人暮らしのための集合住宅といったところだ。と言っても、俺が住んでいるところも似たようなものだが……。
女性が一人で住むには、あまりにも華がない物件だ。
狭い部屋の中、心細そうにコンビニ飯を開ける葛原の姿が浮かんで、俺はすぐに首を振って打ち消した。今はそんなこと考えてる場合じゃない。
建物横の階段から二階に上がる。葛原の部屋は一番奥の、二〇六号室だ。
呼び鈴を押す。反応はない。ここに来るまでに額に浮き出た汗が、頬をゆっくりと伝っていく。
「葛原さん、いる?」
ノックして呼びかける。しばらく待ってみたが、反応はなし。
次第に高鳴る胸のざわつきを無視して、もう一度ノックする。扉の向こうには、何の気配も感じられない。
「葛原さん! いるなら返事してくれ!」
つい、大きめの声が出た。拳で強めにドンと扉を叩く。それでも、部屋の中はうんともすんとも言わない。
部屋の中に、いないんじゃないか。あるいは……。
最悪を想像して、俺は必死に目の上に垂れてくる汗を拭った。扉から突き出た、無機質なドアノブが目に付く。
普通なら、絶対許されないことだ。でも、今は非常事態。少しでもやれることがあるなら……。
心の中で葛原に謝りながら、俺はそっとドアノブを回した。
部屋の中はひんやりとしていた。キッチンの先に見える中扉が、少しだけ開いている。冷房が効いているのだ。嫌な予感に、肺をぎゅっと掴まれたような気になる。
冷房が付いているということは、葛原は部屋の中にいるのでは? それなのに、応答がないということは。
乱暴に靴を脱ぎ捨て、短い廊下を走り抜ける。すりガラスがはめ込まれた中扉を開ける。
「葛原さん!」
そこには、誰もいなかった。
壁際に寄せられたベッドの上には、ピンクのタオルケットが丁寧に掛けられている。昨日、誰かがそこで寝た形跡はない。
反対の壁際にはカラーボックスがいくつか並んでいて、レコードがぎっちり詰まっていた。その上にはプレーヤーとアンプが置かれているが、こちらも電源は落とされている。
カラーボックスの横には、いくつか漫画本や書籍が並んだ小ぶりの本棚。
カーテンレールには、黎音堂でも見たことのあるバンドTシャツが何枚かハンガーにかけられている。
枕元の上に設置されたエアコンが、静かに音を立てた。
エアコンがついているということは、少なくとも葛原は昨日、この部屋に帰ってきたということだ。
それなのに、部屋がもぬけの殻ということは……エアコンを消す余裕もなく部屋を出るような事態に晒されたか。あるいは、消さずに部屋を出ていき、そのまま失踪してしまったのか。
部屋の中央に置かれた丸テーブルに目を落とす。パソコン。マウス。ビニール袋から出された、スーパーの惣菜。手つかずということは、昨日の葛原は飯も食べていないことになる。
近寄ってテーブルの上をよく見た俺は、思わず短く声を上げた。マウスだと思っていた黒い物体は、マウスではなかった。
蛾の死骸だ。
嫌な予感が的中した。
俺はすぐその場でスマホを取り出すと、灰谷に電話をかけた。
***
俺に呼び出された灰谷は明らかに慌てた様子で何度も額の汗を拭い、「こんなことになるとは」など弁解めいたことを何度も口にした。
殴りつけてやりたい気持ちを必死に抑え、拳をぐっと握りしめる。たとえこいつが元凶だとしても、いまこいつの情報を失うわけにはいかない。
「あんたが昨日、葛原に聴かせたレコードが原因だろ? 何でもいい。あのレコードに関する情報で、わかっていることを全部教えろ。昨日聴いたときの葛原の反応も含めて、全部だ」
どうして俺は、昨日葛原にもっと詳しくレコードのことを聞かなかったんだろう。いや、そもそもどうして、聴かせてしまったんだろう。
店のカウンターに拳を打ち付ける。灰谷が、額に当てた手の下から気まずそうに俺を見上げた。
「……実は一つ、瀬崎さんにはお伝えしてなかったことがあります」
「なんだ」
「あのアーティストの名前のことです」
灰谷が大きく息を吸う。
「私なりに、サワベマキとネクローシスのレコードの件は、ずっと調査を続けていたんですよ。瀬崎さんと葛原ちゃんの話を聞く限り、その2つのレコードが絡んだ件には必ずと言っていいほど、“蛾”が出てきます」
「それがどうした」
俺はいらいらと歯噛みした。俺も葛原も、薄々気がついていたことだ。だからこそ、葛原の部屋に蛾の死骸があったことに焦っているのに。
「昨日お持ちしたレコードのアーティスト名……LPを、瀬崎さんはレコードの規格のことだと言いましたね。しかし、私はそうじゃないかもしれないと思ったのです。LPは、Lepidopteraの略ではないかと。Lepidoは鱗、pteraは翅。……つまり、蝶や蛾が属する鱗翅類の学名です」
気がついたら、俺はカウンター越しに灰谷の襟を掴んで引き寄せていた。
「お前……それがわかっていて、あの娘にレコードを聴かせたのか!」
灰谷は腹を括ったのか、大して動じた風もなく俺を睨み返した。
「葛原ちゃんの了解は得ましたよ。それに、昨日聴いたときは普通に音楽を楽しんでましたし。特に気になる様子は、ありませんでしたけどねえ」
だから私も当てが外れたなあ、なんて思ったんですが、と両手を挙げる。
俺は目の前の軽薄な面を睨んだまま、ゆっくりと襟を掴む手を離した。
「でも実際に、葛原はいなくなった。昨日あんたが言ってた、催眠レコードとやらの都市伝説通りにな。どうして彼女なんだ? あんたの会社の人間は、聴いてもなんともなかったんだろう?」
「それは……私にも、わかりませんよ。現に、昨日私だって一緒に聴いてるのに、こうして何ともないんですから」
くそ、今こんなこと話し合っていてもしょうがない。俺は舌打ちして頭を振った。大事なのは、葛原がどこに行ったかだ。
そう灰谷に伝えると、奴もすぐに同意した。
「いままでのことから考えて、S−−に引き寄せられたことは間違いないでしょう。だが、問題はS−−のどこか、です。範囲が広すぎる。もう少し、詳しい情報が欲しい」
数十分後、俺は灰谷とともに、再び葛原の部屋に来ていた。
先ほど訪れたときと何も変わっていない。テーブルの上に蛾が転がっている以外は、至って普通の一人暮らしの家だ。
手がかりと言われても、何を探せばいいのか。カラーボックスの前に行って何枚かレコードを取り出してみたが、何もおかしなところはなかった。どれも真新しい外袋に入れられている。葛原は、普段からちゃんとレコードを大切に扱っているんだろう。
灰谷は黒い死骸をためつすがめず眺め、写真を撮ったりスマホを操作したりしている。やがてため息をつくと顔を上げた。
「蛾の種類から、何かわかるかもと思いましたが。検索しても、こんな蛾、全然出てきませんね」
俺も近寄ってよく見てみる。真っ黒の体。白い骸骨のような模様の頭頂部。
間違いない。サカキさんから預かった、サワベマキのレコード……あそこから出てきた、芋虫の成体だ。
蛾の子ども。記憶の底で、何かがざりっと嫌な音を立てる。サワベマキの家で見た、あの不気味な赤ん坊の姿……いや、それよりも前だ。たしか、パピ・レコードの社長から聞いた話で……
「彼女の子どもは、お山にいる何かと交わってできた」
頭の中で何かが走るのと、灰谷が「瀬崎さん!」と声を上げるのが同時だった。
「これ、見てくださいよ! この写真!」
灰谷はカラーボックスの横の本棚の前にいた。成人男性の膝上くらいまでしかない小ぶりな本棚の上に、鏡や小物入れなどが丁寧に並べて置かれている。
灰谷が手にしているのは、まな板くらいの大きさのコルクボードだ。表面には写真が雑多に貼られている。若い女性がこういったもので思い出作りをするというのは、俺も聞いたことがあるが……葛原のは、世間一般の女性が作るものとはだいぶ内容が違いそうだ。
ほとんどが、ライブに行ったであろうときのポスターや会場の記念写真だった。チケットを写り込ませているものもあれば、葛原本人が自撮りと思われる角度で入っているものもある。誰かと一緒に写っている写真はほとんどない。
その中で唯一、彼女以外の人間が写っている写真があった。灰谷が指差しているのもその写真だ。かなり古い。家族写真だろうか。
真ん中ではにかみながら笑っているのが、葛原だろう。髪先は緑色じゃないし顔つきもあどけないが、面影がある。両隣にいるのは両親か。母親は少し神経質そうだが、それでも優しい笑顔を浮かべている。人のよさそうな笑顔を浮かべた父親は、丸っこい目の形が娘とよく似ていた。
三人の頭上には青い空と木々の枝が広がり、後ろにはテントが見える。
そういえば、前に葛原から「キャンプ」という言葉を聞いたような……。
「葛原ちゃんの肩のとこ、よく見てください」
灰谷が囁くように言う。その指先をもう一度よく見て、俺は素早く顔を上げた。灰谷が、よくわかったと言いたげにゆっくり頷く。
「蛾、ですよね。これ。葛原ちゃんの肩にとまってるの」
眉をハの字にすると、苦しげに息を吸った。
「このまま葛原ちゃんのことを追いかけて……本当に大丈夫ですか?」




