残響 - 01
レコードショップのバイトといっても、やることは色々ある。ただ店の掃除をして、レジを打って、棚を整理して。そんなことばかりやっているわけじゃない。仕入れた中古レコードの検番をするのだって、重要な業務だ。
と言っても、この店に来てすぐに私もそんな仕事を任されたわけじゃない。下働きをして瀬崎さんのフォローをしていく合間に、瀬崎さんが少しずつ教えてくれたのだ。最初のうちは逐一チェックしてもらっていたけど、いまでは最後にざっと確認してもらうだけだ。我ながら結構信頼されているんじゃないかと、内心鼻が高い。もちろん、瀬崎さん自身はそんなこと直接言ってくれないけれど。
その瀬崎さんは表で店番をしている。私はバックヤードで、先日買い取ったレコードの検番をしていた。
まずレコードのジャケットをチェックし、その状態を評価する。次に中身を取り出してレコード盤自体をチェックし、かるく試聴する。黎音堂のバックヤードにプレーヤーがあるのは、このためだ。
そしてジャケットと盤の状態に応じて、VGやEXなどの評価記号を紙に書き込んでいく。この評価記号は、レコードショップならどこも共通して使っている。
たとえばVGは「Very Good」の略で、ジャケットなら「使用感、シワや汚れあり」、レコード盤なら「表面にキズがあり、ノイズが出る」と言った意味になる。店によって多少基準に差はあるかもしれないけれど、積極的に買いたい状態とは言えない。どこがVery Goodなんだ、と昔から思っているのだけど、誰かに言ったことはない。
反対に「EX」は「Excellent」の略で、ジャケット・盤ともに「多少の使用感はあるけど、物としてほぼ問題なし」だ。
ちなみに一番いい状態は「M」。「Mint」の略で、これは「ほぼ新品同然」を指す。正直この評価も人によってまちまちなので、あまり誠実じゃない店だと、どう見ても「VG」の状態なのに「Ex−」くらいになっていることもある。私もレコードを集め始めたばかりのときは、それで痛い目を見たことがあった。
その点、黎音堂の表記は信用できる。瀬崎さんはそんなところでこずるい嘘をつく人じゃないから。だから私もレコードの評価はしっかりやらねばと、いつもこの作業は気を引き締めてやっている。
順調に何枚かの評価を終えて、私は次のレコードを手に取った。フリートウッド・マックの「噂」。世界的にも絶大な人気を誇るバンドの一つで、その中でもとくに名盤と呼び声高いアルバムだ。私もレコードを持っている。
けれど、このジャケットはお世辞にもいい状態とは言えなかった。「VG」どころか「VG−」、下手したらお店に出すのも躊躇うレベルだ。よほど聴きこんだのか、ふちはよれによれて禿げかけているし、白いジャケットのあちこちに黒ずんだ染みがある。でも一応、中身も見てみないことには判断は下せない。
中のレコード袋をそっと引っ張り出したとき、はらりと小さな紙切れが床に落ちた。
なんだろう。
拾いあげた瞬間、私はぎょっとして目を剥いた。
――私はあなたを見つけます どこに行っても
中央に手書きでそんな言葉が書かれ、その下に相合傘が描かれている。傘の下には片方の名前しかなかった。「ミマ」。女性の名前だろうか。
そしてその言葉と相合傘以外の余白は、数えきれないほどのハートで埋め尽くされていた。殴り書きで書いたような荒いタッチで、サイズもまちまちだ。どれも黒く塗りつぶされている。中にはハートとは呼べないくらい形が崩れているものもあって、子どもが描いたような稚拙な印象を受けた。中央に書かれている文字はむしろ綺麗なだけに、そのアンバランスさが不気味だ。
私はその紙をもったまま、立ち上がってお店に続くドアを開けた。
「なんだこりゃ」
私に紙を見せられた瀬崎さんは、薄気味悪そうに眉を顰めた。
「よくわからんけど、捨てていいだろこんなもん。入れたまま売るわけにもいかないし。盤自体はどうなの?」
「ジャケットはわりと汚いんですけど、盤はこれからです」
「まあ、盤が綺麗なら店には出せるから。ちなみに、何のレコード?」
私がフリートウッド・マックの「噂」だと答えると、瀬崎さんは「よりによってか」と複雑な顔をした。
「どういう意味です?」
「あのアルバムは制作時の裏話でも有名だろ。メンバーの人間関係が最悪だったっていう……」
それを聞いて私も合点がいく。このアルバムのことを話すとき、必ずといっていいほどセットで語られる話だ。
レコーディング時、五人のメンバー中二組のカップルが破局状態にあった。おまけに残る一人のメンバーもこの時期離婚しているらしく、バンド内は地獄のような雰囲気だったそうだ。そんな愛憎うずまくどろどろした環境だったにも関わらず、できあがったアルバムはポップで聴きやすく、心にすっと入ってくる。ロック好きなら誰もが愛する名盤だ。……個々の歌詞の内容は失恋についてのものが多いのだけど。
そんなアルバムに、どこか狂気じみた情念を感じる紙切れが入っていたなんて……たしかに、「よりによって」と言いたくなるのもわかる気がした。
バックヤードに戻った私は、真っ先に隅のゴミ箱に紙切れを突っ込むと、残りのレコードの検番作業に取り掛かった。
***
次の日、私が店に着くと、先に来ていた瀬崎さんがいきなり凄い顔で睨んできた。
「おい、どういうつもりだ? いたずらにしちゃ悪趣味すぎるぞ」
不機嫌どころではない。めちゃくちゃ怒っている。眼鏡の奥で、整えられていない眉毛がぎゅっと山を作っていた。
こんなに怒った瀬崎さん、初めて見たかもしれない。
何のことかわからなくて、私はどもりながら必死に問い返した。
「これ、昨日捨てとけって言っただろうが。きみがやったんじゃないのか?」
瀬崎さんが差し出してきたのは、昨日の紙切れだった。
「いや、私ちゃんと捨てましたよ! そこのゴミ箱に! やったって、何をです?」
真剣に答える私を見て、瀬崎さんも嘘はついていないと思ってくれたらしい。険しい山をつくっていた眉が、徐々になだらかな平面に戻っていった。
「……今朝ここに来てロッカー開けたら、扉の内側にこれが貼りついてたんだよ」
深いため息をつくと、頭を掻く。わけがわからなくて、私は瀬崎さんとロッカーの間を何度も見比べた。
「でも私、昨日本当にちゃんと捨てましたよ?」
「ああ。それはもうわかった。疑って悪かったよ。そういう嫌がらせをするタイプじゃないとわかってはいたんだが」
手の中の紙をくしゃくしゃに丸めると、瀬崎さんはそのままゴミ箱に入れる。
「これが入ってたレコード、いまどこにあるんだ?」
「そこの棚に入れてますよ。瀬崎さんに値付けしてもらってから店に出そうと思って」
瀬崎さんは私が指さした棚をしばらく睨むと、またため息をついた。
「しばらくは様子見だが……店に出すのは、やめたほうがいいだろうな」
閉店後、私はいつものように看板をしまおうと店の外に出た。そのとき、誰かの視線を感じてふと顔を上げる。
店の前に走る通りは広くないけれど、等間隔で街灯が立っていて、夜でもそれなりに明るい。その街灯の、店の前から三本目――距離にして百メートルくらいのところに、小さな人影が見えた。と言っても、かろうじてそこに人がいるとわかるくらいの大きさだ。
なんとなく、女の人かなと思った。逆光のせいでこちらから見えるのは黒い影のみだけど、下半身が丸みを帯びたフォルムになっていて、ロングスカートを履いているように見える。
私に気づいているのかいないのか、その人は微動だにしなかった。ただ街灯の下でまっすぐに立ち尽くしている。
仮に、こちらを見ているわけじゃないとしても……夜遅くに、道の端で理由もなく棒立ちになっている人がいるなんて。
不気味ではあった。
私は店の中に戻ると、すぐ瀬崎さんを呼んだ。訝しげな顔で瀬崎さんが奥から出てくる。
「外に変な奴がいるって……どのへんだ?」
二人で揃って外に出たとき、私のうなじの毛がぞくっと逆立った。
あ、これはまずい。
そう思った瞬間、耳の奥でゴボッと水音のようなものがした。
ゴボゴポッ……コポポポポ……
水の中で誰かが溺れているような、泡の音。私は急いで瀬崎さんを振り返った。
瀬崎さんは目を細めて額に手をかざしながら、人影が立っているほうを見ている。
「たしかに、人がいるみたいだけど……俺、目悪いしよく見えないな。葛原さん、よく気づいたなあれ」
「瀬崎さん」あの人影に聞こえるわけないとわかっていても、つい囁き声になってしまう。
「呼んでおいてごめんなさい。すぐ、中に戻りましょう」
私の顔色を見て、瀬崎さんもすぐに状況を理解したみたいだった。二人で店の中に戻ると、しばらくして水音は聞こえなくなった。
瀬崎さんを呼ぶんじゃなかった。
後悔の念に駆られて、ぎゅっと手を握りしめる。あの音は……私と瀬崎さんが、二人で外に並んだときから聞こえ始めた。二人が一緒にいるのを許さないと言ってるみたいに。
私のせいで、また瀬崎さんを危険な目に遭わせてしまうかもしれない。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、瀬崎さんは落ち着いた声で「今度はどんな音が聞こえたんだ?」と聞いてくる。
「……水音です。ゴボゴボーって、人が溺れてるみたいな。聞いてるだけで息苦しくなってきて、嫌な感じでした」
耳の中にさっきの音が甦って、私は俯く。脳裏に嫌な光景が思い浮かんだ。冷たい水の中。真っ暗で先の見えない水底に吸い込まれていく体。必死で手を伸ばすのに水面には届かない。そのうち光も届かなくなって、あたりは完全に暗闇にのみ込まれて……訪れる静寂。
死のイメージだ。
私の話を聞いた瀬崎さんは、難しい顔をしてしばらく腕を組んでいた。が、何かに気づいたように店の窓に駆け寄る。
「……いまはもう、いなくなってるみたいだな。まだいたら、警察でも呼ぼうかと思ったんだが」
その言葉を聞いて、私も瀬崎さんの隣に立って外を見た。
瀬崎さんの言う通り、街灯の下にはもう誰の姿もなかった。
***
次の日に私が店に着くと、また瀬崎さんが怖い顔をしてロッカーの前に立っていた。でも今日は怒っている顔じゃない。どちらかというと困惑している顔だ。
「葛原さん。これ……どう思う?」
半ば予想はしていたけれど、それでもその手の中にあるものを見たとき、私はぎょっとして身を引いた。
たしかに瀬崎さんが昨日捨てたはずの、あの紙切れだった。
しかも不思議なことに、シワの一つもないまっさらな状態だ。私は間違いなく、昨日瀬崎さんがこの紙をくしゃくしゃにするのを見ているのに。
「また、ロッカーの中にあったんですか?」
私の問いに、瀬崎さんはむっつりと頷いた。
「今回も、灰谷さんに相談したほうがいいですよ。瀬崎さん、連絡とってくださいよ」
「あいつに相談して何が解決するもんか」
瀬崎さんは灰谷さんのことが嫌いだ。その気持ちはわからなくもないけど……なんだかんだ、私はそこまで悪い人じゃないと思っている。私のこの能力のことも、本気で人にばらすつもりがあるようには見えないし。それに……。
まあ、たしかに態度に軽薄なところがあるのは否めない。だから瀬崎さんのように真面目なタイプとは、とことん相性が悪いんだろう。
案の定、瀬崎さんは断固として首を縦に振らなかった。融通の効かないおじさんは、これだから厄介だ。
気づかれないようにため息をついて、私は掃除道具をもって店に出た。
開店後、店番をしていると常連のお客さんが話しかけてきた。
「葛原ちゃん、ちょっといいかな?」
薄くなった額に不安の色をにじませて手招きしている。嫌な予感がして近づくと、お客さんは窓際によって外を指さした。
「あの人、さっきからずっとあそこに立ってるんだよね。なんかこの店のほうをじっと見てる気がしてさあ……ちょっと、気味悪くない?」
その指先に目線をうつし、私は背中が総毛立つのを感じた。
昨日の人影が、またそこにいた。明るい光の中で見ると、女の人だということがはっきりわかる。ピンク色のフレアのロングスカート。上は白いカーディガン。顔は遠くてはっきり見えなかった。長い黒髪がまっすぐに伸び、顔のまわりを覆っている。昨夜と同じように、身じろぎもせずじっと黎音堂のほうを向いて立っている。
でも私がぞっとしたのは、そこじゃなかった。
人影のサイズが、昨日より大きくなっている。
昨日よりも近づいている。
ゴボゴボ……と、また耳の奥で泡音が聞こえた。
私は精一杯の笑顔を作って、お客さんに「気にしないでください」と伝えた。成功していたかはわからない。お客さんはまだ不安そうな顔をしていたから。私が、「万が一のときは警察に通報する」と伝えると、ようやく納得した様子で会計を済ませていった。
それからしばらく、営業中にその女の人を見かけた。服装はいつも同じだ。
あるときは電柱の影に。あるときは通りに面したお店の庇の下に。時間帯はまちまちだ。昼間のこともあれば、夕方や夜のこともあった。気がつくと、いつの間にか通りにいるのだ。そして、私や瀬崎さんが気づくとどこかに姿を消す。まるで最初から存在していなかったかのように。
「人間、だと思います?」
女の人が初めて現れてから四日目の夜、瀬崎さんに聞いてみた。
突然現れ消えることについては、一応説明がつかなくもない。ここの通りは商店が多いし、小さな路地もいくつかつながっている。隠れようと思えば難しいことではないだろう。
でも、そんなことは重要じゃない。
いま一番気になるのは、日が経つごとに、確実に彼女がこの店に近づいているということだった。
瀬崎さんもその点は気にしているみたいで、口をへの字に曲げて腕を組んだ。
「わからんが……きみに音が聞こえるってことは、どちらにせよ、いいものではなさそうだよな」
「どうして水音なのかはわかんないですけどね」
例の溺れるような音も、女性が近づけば近づくほど大きくなっている。聞くたびに汚く暗い水の中で溺れるような気持ちになって、苦しかった。
「ところで、きみ、あの女の顔を見たことあるか?」
私は黙って首を振った。
もう一つ、私たちが気になっていることだ。日に日にあの女の人は店に近づいているのに、なぜか一向に顔がわからない。顔の上半分が常に影になっているのだ。いつも俯き気味に立っているのと、長く伸びた前髪が目元のあたりまで覆っているせいだと思うけど……それにしても、ここまで人の顔が見えないのはおかしい。本来はできるはずのない影が、常に顔の中にあるみたいだ。
「これってやっぱり、あの『噂』のレコードのせいですかね?」
「まあ、あのレコードがうちに来てからの話だしな……」
「やっぱり、灰谷さんに連絡とったほうがいいですよ」
途端に、臭いものでも嗅いだみたいに瀬崎さんの鼻に皺が寄る。
「別に、あの女の目的がうちって決まってるわけでもないだろ」
「でも、もしあのレコードのせいだとしたら……灰谷さんに聞けば何かわかるかも」
「随分、あいつを頼りにしてるんだな」
「だって、私たちと違って専門ですし。この前の動物ジャケットの件でも、助けてもらいましたよ」
「あれは、そもそもあいつがあんなレコード持ち込まなければ起きなかったことだろ」
「そうかもしれないですけど、でも……」
「だめだ」
灰谷さんが頼りになることを思い出させたかったけど、却って意固地にしてしまったらしい。
頑として同意しない瀬崎さんを前に、私はただ俯くことしかできなかった。
それからまた二日後の、夜。
「葛原ちゃん、この前出たピンク・フロイドのリマスター盤買ったの? どうだった?」
ラックを整理していると、常連さんが話しかけてきた。思わず笑顔がこぼれる。ピンク・フロイドの話ならいつだって大歓迎だ。あんまり話し過ぎるとレジにいる瀬崎さんに小言を言われるけど、適度なら怒られることもない。なんなら、瀬崎さんも会話に入ってくることだってある。
二言、三言、アルバムの感想を話し合ったときだ。
また、あの音がした。
ゴボッ……ゴボゴボゴボ……
「ひっ」
私の背後に視線を送った常連さんが、短い悲鳴をあげた。
背中全面に氷水をかけられたみたいに、全身に寒気が走る。
……どうして……んな……
すすり泣くような声が聞こえて、私は自分の腕を強く握りしめた。
震えが足から這い上がってくる。後ろに、あの女の人がいる。
常連さんの目は、ずっと私の後ろを凝視していた。見開いた目の端がピクピクと震えている。浅黒い頬が引き攣っている。
視線の方向からして、店の入り口のすぐ横……全面ガラス窓のところだろう。
ゆっくりと、私は振り返った。わかっていたのに、「ひあ」と情けない声が漏れるのは抑えられなかった。
女性が窓ガラスに、べったりと張り付くように立っていた。ピンクのロングスカート。白いカーディガン。両手をガラスに押し当て、中を覗き込むようにしている。黒い長髪が、血の気のない顔の周りを覆っている。長い前髪が、バサリと顔の上半分を覆っていて、この距離でも顔は全然見えなかった。唯一髪の隙間から見える土気色の唇が、痛いほどまっすぐに引き結ばれている。
表情は全然わからないのに、凍えるほど冷たい怒りを感じて、反射的に後ずさった。
女の唇が、わずかに開く。
……どうして……そんな……おんな……こ…し…やる……
私のことだ。
ゴボゴボゴボと、激しい水音が耳の奥で唸った。鼻の上まで水が迫り上がってくる。苦しい。必死に口を開けても、空気が流れ込んでこない。嫌だ。死にたくない。
ガタッと椅子を引く音がした。「葛原!」と呼ぶ声がする。
「せ……ざ……さん……」
黒くて冷たい水が口の中に流れ込んでくる。ガボッと大きく咳き込んで……私はそのまま意識を失った。




