珍妙な訪問者
「瀬崎さん!これ見てくださいよ」
昼前、店に来て開口一番。私はうきうきして瀬崎さんに近寄る。「じゃーん」という効果音とともに、グレーのパーカーの前を勢いよく広げた。
「ゴングのTシャツ! 買っちゃいました!」
「……へえ」
「ちょっと! なんですか、そのつれない反応は」
私の抗議の声は無視して、瀬崎さんはTシャツに目を落とす。黒字に赤、黄色、緑と、サイケデリックな配色。中央に描かれているのは、三角形の中央に浮かぶ大きな目。このバンドがアイコン的に使うマークだ。都市伝説やフリーメイソンの象徴として使われる「プロビデンスの目」とよく似ている。……まあ、改めてまじまじと見られると、人前でどうどうと着るような柄ではないかもしれない。
「好みは人それぞれだし、いいんじゃないか。……俺なら人前で着る勇気はないけど」
「ひどい! 瀬崎さんが一番好きなバンドじゃなかったんですか! そんな言い草」
「音楽は好きだけど、別にバンTにそこまで興味があるわけじゃないし」
「そんなあ。これなら瀬崎さんも羨ましがると思ったのになあ」
この店に来てから結構経つのに、瀬崎さんが私のTシャツを褒めてくれたことは一度もない。なんだか悔しい。次こそは認めさせてやる。そんな気持ちを胸に、私はロッカーからとってきた箒で床を履き始める。
「それにしても、瀬崎さんが一番好きなバンドがゴングって、なんか意外でした」
「いくつかある中の一つってだけで、断トツでこれが一番ってわけでもないよ」
「それでもですよ。瀬崎さんって、もっとこう……小難しいインテリ系のロックを聴いてそうというか」
「なんだそれ」瀬崎さんがカウンターでパソコンを立ち上げながらため息をつく。「まあ、そういう高尚なロックも嫌いじゃないけどな。でも、好きなものはやっぱり楽しいほうがいいだろ」
瀬崎さんの言う通り、ゴングというバンドはとにかく楽しい。頭がおかしい、と言いかえてもいいかもしれない。「自分たちは惑星ゴングから来た宇宙人で、地球人の電波をジャックしてラジオ放送を行っている」なんてコンセプトで、アルバムを作っているのだから。
とくに初期の頃はサイケデリックみが強く、奇妙奇天烈、しっちゃかめっちゃかでふざけた曲が多い。なのに演奏技術はびっくりするほど高いのだから、そのギャップに脳をやられる。私は瀬崎さんに勧められて最近聴き始めたけど、すぐに気に入った。だからこのTシャツを買ったのだ。
床を履く私の背後から、瀬崎さんの声が聞こえる。
「ゴングのいいところは気楽に聴けるところなんだよな。かっこいいのに、馬鹿っぽくて肩の力が抜ける曲が多い。頭空っぽにして楽しめる」
つい、箒を動かす手を止めて振り返った。
「なんて言うか……瀬崎さんも、そういうこと思うんですね」
「はあ? どういう意味だ」
瀬崎さんが怪訝そうに顔を顰める。
失礼は承知の上だけど、この人と「馬鹿馬鹿しくて楽しいバンド」のイメージは中々結びつかない。いつも仏頂面で、笑ったところなんて滅多に見たことがないし。感情より合理でものを考えるタイプだ。きっと、私なんかじゃ想像できないくらい、色々難しいことを考えながら生きているんだと思う。こうやって一人でお店を経営しているくらいなんだから。
言葉を選びながらそんなことを伝えると、瀬崎さんはため息をついて、
「別に、そんな大したこと考えながら生きちゃいないよ。きみが勝手にそう思ってるだけで。そりゃ、全く何も考えてないとまでは言わないが……そこまで意識の高い人間でもない」
「そうなんですか」
「大体の人間は、そんなもんだろ」
キーボードを叩きながら瀬崎さんが肩を竦める。
少しだけ心が軽くなったような気持ちで、私は床掃除に戻った。
***
昼をとっくに過ぎた頃、窓の外を見ると、ぽつぽつと雨が降り出していた。道行く人の中には傘をさしている人もいる。表に出している看板はチョークで書いたものだから、濡れるとよくない。店の中に入れておこうと、私が外に出たときだ。
ニャア
猫だ。いつからそこにいたのか、前足をそろえてちょこんとドアの横に座っている。黒と茶色の体毛がまだらに混ざり合った模様。サビ猫だ。エメラルドグリーンの宝石のような瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「か、可愛い~」
思わず手を伸ばすと、驚いたことにぐりぐりと頭を擦りつけてくる。随分人懐っこい猫だ。よく見ると鈴のついた茶色い首輪をしている。飼い猫なのだろう。
しばらくそうして猫と戯れていたかったけど、雨がだんだん強くなってきた。先に看板をしまわないと。
重い腰を上げて、店の扉を開けた瞬間。
「わっ、えっ、ちょっと」
ドアの隙間から、するりと猫が店の中に入り込んだ。私の声に気づいたお客さんが二、三人、振り返って目を丸くする。瀬崎さんがカウンターの向こうでガタッと音を立てた。
「ごめんなさい、ドア開けたら勝手に入ってきちゃって……」
店の中に戻ったとき、そこで目にした光景に、私は驚いて足を止めた。
猫は困惑する客の間をすり抜け、すたすたと店の奥まで歩いて行く。カウンターの近くまで来ると、部屋の角をピタッと見据えて止まった。スピーカーのある場所だ。
流れているのは、ちょうど今日瀬崎さんと話をした……ゴングだ。
一部始終を見ていたお客さんが、フフッと笑い声を漏らした。
「こりゃ珍しいお客さんだね。ゴング好きの猫ときたか。葛原ちゃんと話が合うんじゃない?」
私のTシャツをちらっと見て言う。猫はピンと尻尾を立てて微動だにしない。猫が尻尾を立てるのは嬉しいときだと、SNSで見た気がする。
瀬崎さんが慌てた調子で私を呼んだ。
「葛原さん、今すぐ店から出して」
「なんで? 別にいいじゃない」と、別のお客さんが口を出す。「外は雨降ってるみたいだし、しばらくいさせてあげても」
「しかし、売り物に傷をつけられちゃ困りますから……」
「でも大人しくしてるよ、その猫ちゃん」
お客さんの言う通り、猫は尻尾を立てたまま一心不乱にスピーカーを見続けている。本当に音楽を楽しんでいるみたいだ。
「葛原さん」
しきりに瀬崎さんが手招きするので、私は猫を避けてそっとカウンターに近寄った。瀬崎さんが小声で耳打ちしてくる。
「頼むよ。俺、動物は得意じゃないんだ」
「えっ、瀬崎さん猫が怖いんですか」
「そういうわけじゃないけど。いいから」
いつも以上にむっつりと口をへの字に曲げて、瀬崎さんが猫を指さす。とにかくこの子をどうにかしろということらしい。
私は外を見た。雨はさらに酷くなってきていて、窓ガラスにあたる雨粒がざあざあと流れている。さすがにこんな中に放り出すのは、人としてどうかと思う。
「とりあえずバックヤードに入れておきますよ。飼い猫みたいだし、迷子なのかも。飼い主さんが探してるかもしれないですから」
そっと猫を抱き上げると、ニャアアと抗議する鳴き声があがった。尻尾をぶんぶんと振り回している。ぐっと心を鬼にして、私はバックヤードに入るとソファの上に猫をおろした。
「ごめんね、しばらくここに……」
言い終わる前に猫が駆けだす。閉めたドアの手前まで行くと、「開けろ」と言わんばかりにカリカリと前足で引っ掻く。ドアの隙間からは、まだゴングの曲が微かに聞こえている。
「……音楽が好きなの?」
当たり前だけど返事があるわけはない。それでも言わずにはいられなかった。もしかすると、飼い主がいつも家で音楽を聴いているのかもしれない。
でも、私の疑問はすぐに解消された。曲が終わったのだ。次に流れ出したのは、ゴングとは全然違うアーティストの曲だった。
途端に、猫は興味をなくしたようにドアを引っ掻くのをやめた。「ニャオ」と不満げに一声なくと、戻ってきてソファに飛び乗る。すぐにその場で丸くなった。
「音楽じゃなくて……ゴングが好きなんだ」
もちろん、その言葉にも返事はない。ただ一瞬、尻尾の先がぴくりと小さく震えた。
***
翌日、猫の件は警察に届けた。飼い主については警察のほうで公告を出してくれるらしい。見つかるまで黎音堂で預かることになった。
「俺は反対だ」
瀬崎さんは不機嫌にそう言ったけれど、他にどうしようもなかった。警察では預かってくれないし、私も瀬崎さんも、住んでいるアパートはペット禁止だ。渋る瀬崎さんをなんとか説得して、二人でペットショップに行ってケージや柵を買ってきた。
猫はゴングの曲名にちなんで、“シャマール”と呼ぶことにした。私も今まで知らなかったけれど、シャマールというのはペルシャ湾岸地域で吹く強風のことだそうだ。「シャマール」と呼ぶと喉をごろごろ鳴らすのが、たまらなく可愛かった。
シャマールは不思議な猫だった。
ゴングが好きだ、という私の見立ては当たっていた。店のBGMでゴングがかかると、決まってというほどバックヤードからナアナアと鳴き声がする。間近で聴きたいらしい。
とはいえ、店に出すわけにもいかない。瀬崎さんが嫌がるし、何より目を離したすきに脱走したら大変だ。
だからそんなときはこっそりバックヤードで、店には漏れない程度の音量で、私のスマホからゴングをかけてあげた。そうするとシャマールはいつもピタッと立ち止まり、神妙な顔で音楽を聴く。集中しているようだった。ときどき、まるで音量が小さいとでも言うように、私に向かって鳴くこともあった。
「よっぽどゴングが好きな飼い主さんのところで育てられてたんですねえ」
夜。カリカリを頬張るシャマールの横にしゃがみ込み、私は頬杖をついた。瀬崎さんは少し離れたロッカーの前に立って、警戒した視線をこちらにちらちら送っている。
「最初にこの店に入ってきたのも、きみのTシャツが原因かもな。あの日、ゴングのTシャツ着てたし」
たしかに。いきなり擦り寄ってきて随分人慣れした猫だと思ったけど、あれはゴングのTシャツを着ていたからかもしれない。この子の飼い主もよく着ていたとか。ありえそうな話だ。
「もしかすると、うちの店のお客さんに飼い主がいるかもしれませんね。心当たりないんですか?」
私の問いに、瀬崎さんは残念そうに首を振った。
「ゴングが好きな人は何人かいるが、そのなかで猫を飼ってるって人はいないな」
そう言うと、シャマールの耳の付け根を撫でている私を見て、眉を顰める。シャマールはすでにカリカリを食べ終わっていて、気持ちよさそうにゆっくりと目を閉じた。
「随分きみになついてるな、その猫」
「最初の印象がよかったからですかね。でも、それ言うなら瀬崎さんだって仲良くできるんじゃないですか? 同じバンドが好きな同士として」
「馬鹿言え。猫にゴングの良さがわかってたまるか。第一、そいつ俺にはいつも威嚇してくるぞ」
「それは、瀬崎さんがこの子のこと怖がってるからですよー。動物って、そういうの敏感ですもん」
「怖がってない」瀬崎さんは、ますます不機嫌そうに眉間の皺を深くした。
「ったく、誰がここに住まわせてやってると思ってるんだか……恩知らずな猫だ」
そうやって瀬崎さんがときどき不愉快そうにする以外は、シャマールとの日々は穏やかに過ぎて行った。
店に来たら、餌を上げる。開店する。BGMにゴングが流れたら、シャマールにも聴かせに行く。閉店したらまた餌を上げて、食べ終わったら朝の分も入れておく。
閉店後の食事の最中に、ゴングをかけてあげることもあった。それもレコードで。初めて聴かせたときに、シャマールが大喜びしたからだ。興奮した様子でバックヤードを走り回り、何度もニャアニャアと鳴き続けた。瀬崎さんは壁際に張り付いて怒っていたけど、今度「よしの」でビールを奢ると言ったら許してくれた。
そんな日が続いた、ある日のこと。
仕事が終わってバックヤードに入ると、シャマールが待ち構えたように走り寄ってきた。ニイニイと鳴きながら私の足に擦り寄ってきて離れない。餌を用意している間も、妙に落ち着かなげにそわそわしている。
どうしたんだろう。
店のBGMでゴングが流れたときの反応と似ている。そういえば、ここのところしばらくゴングは流れていなかった。もしかすると「聴きたい」と言っているのかもしれない。
「またゴングか」
怪しげなボーカルエキゾチックなメロディーを歌い始めたとき、瀬崎さんがバックヤードに入ってきた。
「シャマールが聴きたそうにしてたので」
「猫のくせに贅沢だな」
ちらっとソファの足元を見た瀬崎さんが、「あれ」と足を止める。
「そいつ、どうしたんだ?」
シャマールは目の前におかれた餌の皿に目もくれず、背筋を伸ばしてお座りの姿勢をしていた。目は、部屋の角……私たちのロッカーの上あたりを、じっと見つめている。そこには何もないのに。
「シャマール?あれ?どうしたの?」私が話しかけても、シャマールは目もくれない。
「……何かいるの?」
おそるおそる口に出す。シャマールの反応なんて期待していたわけじゃない。ただ不安になっただけだ。猫が部屋の一点を見て動かなくなる……なんて話、怪談にありがちだから。まさか、この部屋に何かが……。
背筋に冷たいものが走る。
そのとき、シャマールがゆっくりと瞬きをした。とても満足そうに。
「シャマール?」
きれいな緑色の瞳がこちらを見る。シャマールはとことこと私の足元までやって来た。屈んだ私の手の先をぺろりと舐める。そして短く一声、「ニャー」と鳴いた。
驚いたことに、シャマールはそのあと瀬崎さんの足元にも歩いて行った。棒立ちになる瀬崎さんを見上げて、やっぱり一声「ニャー」と鳴く。
私たちに、お別れを言っている。
無性にそんな気がして、私は不安になった。尻尾をぴんと立てた後ろ姿に、「シャマール、どこにもいかないよね? ね?」と話しかける。でも、シャマールはもう返事をしてくれなかった。
次の日の朝。
バックヤードに、シャマールの姿はなかった。
昨日帰るときに間違いなくケージに入れたし、戸締りだってちゃんとした。扉の前には柵だって設置してある。脱走するなんてありえない。
それなのに、どれだけ探してもシャマールは見つからなかった。手つかずのカリカリだけが、昨日の夜と同じまま皿の上に盛られていた。
ぼろぼろと泣く私を瀬崎さんは懸命になだめてくれた。店の開店時間を遅らせて、二人で警察にまた届け出を出しに行った。でも私は、もうシャマールは見つからないだろうという気がしていた。
昨日のあれは、やっぱりお別れだったんだ。
店に戻ったとき、瀬崎さんが「慰めになるかはわからんが」とぼそりと言った。
「昨日のあれ……飼い主が、迎えに来てたんじゃないか? ゴング好きの。あいつ預かってから結構経つのに、飼い主が見つかる気配もなかったし。もしかしたら……」
軽く肩を竦める。私はまだ腫れぼったい目をごしごしとこすった。
瀬崎さんがそんな私を見て、頷く。
「あいつがゴングばっかり聴きたがってたのは、ゴングが流れたら飼い主に会えるって思ってたからなのかもな」
「それ……それじゃあ……」
私は俯く。昨日、シャマールが見ていた部屋の隅……あそこに、飼い主が来ていたんだろうか。そしてシャマールは行ってしまったのだ。飼い主と一緒に。
「私が昨日レコードをかけなかったら……シャマールは……」
「そんなふうに思う必要ないだろ」瀬崎さんがひらひら手を振った。
「シャマールは飼い主にずっと会いたかった。それで、昨日ようやく会えたんだ。きみのおかげで。だから最後に挨拶したんだろ。ありがとうって言ってたんだよ、多分。そう思っとけ」
私は昨日、シャマールに舐められた手を見つめた。ざらりとして温かい舌の感触、やさしい鳴き声が甦る。
また涙が溢れそうになるのを堪えて、私は小さく笑いを漏らした。
「瀬崎さんにも、ちゃんと感謝してたんですね。恩知らずの猫なんかじゃないですよ」
瀬崎さんは「ぐ」と言葉に詰まると、気まずそうに首の後ろを撫でた。でもしばらくすると、珍しく、本当に瀬崎さんには珍しく口の端に笑みを浮かべて、
「まあ……音楽のセンスは中々いい奴だったな」
と呟いた。




