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08 喫茶カサブランカ

 喫茶カサブランカを出ると、もう外は薄紫色に変わり始めていた。黒く浮き上がるビルや家の屋根の向こうに、オレンジ色にけぶった空が見える。時刻はまだ五時前だが、まだ寒さの厳しい冬の真っ盛りとしては妥当なものだろう。


 今日はもう、残り二軒の店に行くのは難しそうだな。

 そんなことを考えながら車を停めたパーキングに向かう。そもそも、残りの店になんてかまっている場合じゃない。


 車に乗り込んだ俺は、エンジンやシートベルトそっちのけでスマホを取り出した。横で葛原が固唾をのんで見守っている。LINEの画面を開き、中西君を検索。静かに、通話ボタンをタップした。


 いきなり通話をかけたって、向こうが出ない可能性は十分にある。それならそれで、メッセージを残しておけばいい。

 スピーカーにして、スマホを持つ手をハンドルに持たせかける。しんとした車の中に、無機質な着信音が鳴り響いた。二コール。三コール。……


 やっぱり、急にかけても出ないか。

 そう諦めかけたとき、突然着信音が途切れ、やや高めの男性の声が答えた。


「はい?」

 

 中西君の声だ。素早く隣に視線を送る。葛原が緊張した面持ちで頷いた。


「あー……瀬崎だけど。久しぶり。いま、ちょっと話しても大丈夫かな?」

「はあ」


 昼寝でもしていたのか、中西君の声は眠たげだ。だが早口で事情を説明していくうち、電話口の向こうの息遣いは徐々に変化していった。


「中西君が呟いてた、友達から渡されたっていう……ビニールでぐるぐる巻きにされてたレコードのことなんだけど。顧客が探してるレコードがそれかもしれないんだ。不躾なお願いなんだけど、買い取らせてもらうことって可能かな?」

 

 中西君は答えない。二つ、三つ、躊躇うように息を吐く音が聞こえた。


「……あれ、やっぱりヤバいレコードなんですか」


 俺は空いたほうの手で、ゆっくりハンドルを握りしめた。

 助手席に座る葛原は身じろぎもしない。ただじっと、俺の手の中で光る中西君のアイコンを見つめている。


「どうして、そう思うの?」

「あれ……あれは……」


 大きく息を吸う音が何度か聞こえる。何か言いたいことがあるが躊躇っているようだ。

 俺は「聞いた内容を誰かに伝えるつもりはない」とはっきり伝えたが、それでも中西君は迷っているらしい。

 何度もなだめすかして、ようやく相手は重い口を開いた。


「……渡してきた友達が、死んだんです。しかも、そのあと……ヤバい殺人事件の、容疑者だってわかって……」


 葛原と予想した通りだ。ちらっと横を見ると、暗く澄んだ瞳が続きを促すように瞬いた。


「中西君は、そのレコード聴いたの?」

「いや、聴いてないっす……なんか怖くて。ジャケットが見れないようになってるって、おかしくないですか? それやったの、その友達らしいんすけど。

俺がなんでこんなことしたんだって聞いたら、ジャケット見たら中身聴く気にならないかもしれないからって。とにかく中身を聴いてみて、気に入ったらビニール破いてジャケットを見てもいい、とか言われて。

そんなレコード、わざわざ聴こうなんて思いませんよ」


 それに、とまた躊躇うような調子を見せつつ、中西君が続ける。


「あのレコードを手に取ると……なんか、虫を見かけることが多くて。最初に渡された日も……とりあえずしまおうとしたら、どっかからボロって芋虫みたいなのが落ちてきたんすよ。まわりのビニールの中に隠れてたのかもしれないすけど。

それからも、人から借りたもんだし嫌だけど一応聴くだけ聴くかーと思って手に取ると、どこからか出てきた芋虫が手の上はってたりして……気味悪くて、もうずっと触ってなかったんです」


 ハンドルを握る手に力がこもる。手汗が合皮をじっとり濡らして気持ち悪い。


「それで、そのレコード……いまも、中西君が持ってるの?」

「いえ……売っちゃいました。だって、気持ち悪いじゃないっすか。殺人犯からもらったレコード持ってるなんて」


 葛原がはっと息をのむ。俺は指で静かにしろと合図して、中西君に問いかけた。


「誰に売ったか、覚えてる?」

「……SNSの、相互フォロワーです。すごい年上なんですけど、オフ会で何度か会ったことがある人で。音楽以外にも、猟奇趣味っていうか……エログロナンセンス系が好きな人で。俺がそのレコードの話したら、自分が引き取りたいって言うんで……まあ俺も、持ってる理由ないしいいかなって。タドコロさんって人です」


 聞き覚えのある名前に、俺と葛原は素早く顔を見合わせた。

 先ほど行った古書店の店主が言っていた名前と同じだ。店によく来る客で、音楽にも詳しいと言っていた……。


「その、タドコロさんって人と連絡とれる?どんな人か、もうちょっと詳しく教えてほしいんだけど」

「あ、はい、DM送ることも可能ですし……瀬崎さんが、直接会いに行っても大丈夫だと思いますよ」


 続く中西君の一言に、俺も葛原も言葉を失った。


「その人、喫茶店やってるんで。たしか……カサブランカとか、そんな名前の店だったと思います」



***

 店に戻ってきた俺たちをマスターは不審そうな顔で見た。黒縁眼鏡の奥で、爬虫類のような目がギュッと細められる。不機嫌そうな口元が、首元で小さく束ねられた白髪まじりの髪と同じくらい、厳しく引き結ばれていた。


 俺はすばやく店内を見渡した。俺たちが出たあとに他の客も席を立ったのか、店にはマスター以外誰もいない。好都合だ。

 

「なんのご用ですか」


 不信感を隠そうともしない声音で問いかける。

 店内には相変わらずでかい音でレコードが流れていたが、店主ともあればさすが慣れているのか、その声はよく通っていた。


「たびたびどうも。タドコロさん、であってますかね?」


 開かれた目に、明らかに警戒の色が宿る。


「ええ、まあ、そうですが。一体あなた方……」

「突然やってきて不躾だとは思います。実は私、中西……いや、“せいご君”の知り合いなんです。普段はこういうレコードショップをやってまして……」


 カウンターに近づき名刺を渡す。タドコロはじろりとそれに目を落としたのち、俺と葛原を交互に見比べた。


「あ、彼女はバイトの葛原です」


 ぺこりと葛原が頭を下げるが、それにも動じない。客商売をやってるくせに愛想のない奴だ。

 そんなことを言えば、隣の緑頭に「瀬崎さんが言うことじゃないですよ」なんて言われそうだが。


 ため息をこらえながら、俺はこちらを睨み続ける渋面に対してことの経緯を説明し始めた。


「……というわけで、もしせいご君から引き取ったレコードをお持ちなら……私たちに売っていただくことは可能でしょうか。いや、本当に図々しいお願いだとはわかってるんです。ただ……」


 これはだめだな。話し続けながらも、俺は胸に広がる虚無感を抑えられなかった。


 タドコロはずっと不機嫌に口をひん曲げたたまま、じっと俺の名刺を見下ろしている。こちらの話をちゃんと聞いているのかさえ怪しい。


 無駄な抵抗だと思いながらも、精一杯必死な口調でお願いする。実際、必死だ。あの客が次にうちの店に来るのは二日後。そのときにレコードがなかったらどうなるか……いや、二日後はよくても。さらにその次も、またその次も用意できなかったら。

 その先はあまり想像したくない。


 一通り俺の話を聞いたタドコロは、眼鏡をはずすと大きくため息をついた。胸元から取り出した眼鏡拭きで表面を拭う。色よい返事は期待できなさそうだ。


 ダメ押しでもう一度話しかけようとしたそのとき、


「あ、あの、ピンク・フロイドお好きなんですか?」


 出ようとしていた声が途端に行き場をなくす。かわりに俺は、開きっぱなしになった口を隣に向けた。

 葛原はわずかに頬を上気させ、まっすぐ前を向いている。


 ……こいつはこんなときに、何を言ってる?


「そこの本棚にある本、ピンク・フロイド関連のが多いなって思って。その大きいハードカバーの全集、私も持ってるんです」


 葛原が指す先にあるのは、タドコロの背後にある棚だ。両脇にはみっちりレコードが詰まっているが、中央の部分はやや開けた空間になっていて、プレーヤーやステレオなどのオーディオ機器が入っている。その機器類が並んでいる段のもう一つ上に、音楽関係の書籍が二十冊ほど無造作に並んでいた。


 タドコロは少し驚いた顔をして、眼鏡をかけなおした。


「お嬢さん、ピンク・フロイドが好きなんですか」

「はい! アルバム、全部レコードで集めてるんです。レコードがないのはCDとかDVDでも集めてるんですけど、やっぱりピンク・フロイドはどうしてもレコードで聴きたくって」

「そりゃあそうだよ。ピンク・フロイドはいい音響で聴かなくちゃ、その魅力の半分もわからんからね」

「このお店の音響、めちゃくちゃいいですもんね。さっき来たときも思ってたんですよ」


 へえ、とタドコロが少し頬を緩ませる。


「よかったら聴いてみる?ピンク・フロイド。アルバム好きなの言ってもらえれば」


「いいんですか?」と葛原が前のめりになる。呆気にとられる俺をちらりと振り返って、タドコロに見えない位置で親指をぐっと上げた。

 何がいいんだ、と突っ込みそうになったが、ひとまず自分に任せろということらしい。俺が出る幕もなさそうなので、とりあえず静観することにした。


 十分も話すうちに、二人はなんだかんだと意気投合したようだ。あれだけ胡散臭そうに葛原を見ていたタドコロが、いまや笑顔すら見せて談笑している。いい加減、二人の話を黙って聞くのも耐えがたくなってきた。そのとき、葛原がふと例の笑顔を浮かべた。

 本当は笑いたくないときに見せる、あの笑顔だ。


「それで、あの……さっき瀬崎さんが言ったレコードの件なんですけど」

「……ああ、あれか」


 タドコロは腕を組むと、ふーむと低い声で唸った。探るような視線が、俺たちに一回ずつ向けられる。


「……聴きたいの?あれ」

「いえ、聴きたいわけじゃないんです!」

 葛原が慌てて否定する。

「ただ、どうしても欲しいっていうお客様がいらっしゃって……他にどこでも、見つけられなかったものですから」

「うーん……それなら、まあ……いいか」


 白髪頭が屈むと、カウンターの下で何やらごそごそと出し入れを始めた。葛原が得意げな顔でちらりと振り返る。

 へえ、なかなかやるじゃないか。

 先ほどの彼女と同じようにこっそり親指を立てようとした瞬間、タドコロが立ち上がった。


 とたんに葛原がぎょっとしたように身を引く。

 だが俺も彼女のことは言えない。その手の中のものを見た瞬間、冷たい手に首筋を掴まれたような感触がした。


 そこにあるのは、黒いポリ袋に包まれたレコードだった。かろうじてレコードだとわかるのは、それがレコードジャケットと同じサイズの正方形をしているからだ。中身はまったく見えない。ここまでは、中西君から聞いたのと同じだ。


 しかし、いまタドコロの手の中にあるレコードは、それだけではなかった。さらにその上から、白いビニールテープで何重にもぐるぐる巻きにされているのだ。あまりに厳重に巻きすぎて、今度はポリ袋自体もその隙間からわずかにしか見えないくらいに。

 まるで中にあるものを、二度と外に出さないようにしているかのようだった。


「それは……?」


 俺の問いかけには答えず、タドコロは手の中のものに目を落とす。


「そのお客がどうなっても、私は無関係ですからね」


 そう言って、俺に狂気じみた袋とテープの塊を渡してくる。


「あんた方は、これを聴くつもりはないんでしょう? そのほうがいい。このままその客に渡してください。お金は要りません。私も、引き取ってもらえるならそのほうが有難い」


 俺は手の中の物体に視線を落とす。袋とテープを何重にも重ねられたせいで表面はごわごわしていたが、その向こうにしっかりと、固くて薄い厚紙の感触があった。


「……タドコロさんは、聴いたんですか?この中身を」


 言ってすぐ、聞かなきゃよかったと後悔した。

 俺を見るタドコロの目から、突然一切の感情がなくなった。蛇のように冷徹で油断のならない視線が、値踏みするように俺を刺す。

 葛原が、一歩俺のほうに近づいた。


「聴かないほうが、いいですよ」


 タドコロの声は、その目と同じように感情が読めなかった。


「それも」と、俺の手の中のジャケットを指す。


「見ないほうがいいです。袋は、もともと被せてあったんですけどね。つい興味をそそられて、もともとあった袋を破って、開けてみたんです。いまの外装は、そのあと私が付け直したものなんですよ」


 タドコロが指を下ろす。


「もう、二度と見なくてすむように」


 それだけ聞けば、もう十分だった。

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