01 奇妙な音のするレコード
人生のターニング・ポイントは突然訪れる。レコードをA面からB面へ裏返すと、それまでの音楽世界がガラリと変わるように。
だが、レコード盤を裏返す動作それ自体は繊細なものだ。だから多くの場合、誰も盤が裏返ったことに気がつかない。気づいたときにはもう手遅れだ。
俺もそうだった。後になって振り返って、初めてあのときがそうだとわかったんだ。
過ぎ去ったことを振り返ってもしょうがない。それでも考えることはやめられない。
こんなことになるなんて知っていたら。
あのとき、俺に何ができたんだろうか。
始まりは、居酒屋での友人の一言だった。
「なあ瀬崎。お前の店で買ったレコードから、変な音がするんだよ」
ハイボール片手にタカハシが言ったのは、タールを被ったような蒸し暑い夏の夜だった。
西新宿の駅から歩いて十分ほど。もつ焼きがうまい安居酒屋。こうして酒を飲むのは久しぶりだ。
「俺の店で買ったレコード? どれのことだ?」
「タイトル忘れちまったんだ。ハッピー・ルインズってバンドのアルバム。半年くらい前にお前の店に行ったとき、買っただろ」
「誰が何買ってったかなんて、いちいち覚えてられねえよ」
「それもそうか」
べとつくテーブルに肘をのせ、タカハシがジョッキを傾ける。その横顔は、前に会ったときよりもやつれているように見えた。
「二曲目の、ベースのリフから始まる曲はすげえかっこよかったな。ただ、なーんか妙な音が入ってる気がするんだよ。うまく言えないけど」
「幻聴じゃないのか?」
茶化すような俺の口調にも一切動じず、タカハシは大真面目だった。
内向的な俺と違い、タカハシは人付き合いの良いタイプだ。大学のときためしに入った軽音サークルで、積極的に俺に絡んできたのはこいつだけ。二十年近く経った今でも交流がある唯一の人間だ。そんな友人がらしくない表情を見せるのは、さすがの俺も落ち着かない。
「録音した以外の音が入るなんてありえないだろ? 雑音と聴き間違えてんじゃないか」
「俺も最初はそう思ったんだけどな。何度盤面をチェックしても、傷一つないんだよ」
「パッと見で盤面が綺麗でも、よく見ると小さい傷が入ってることはあるぜ」
「レコードの傷や埃が原因なら、さすがにわかるだろ? そういう感じの音じゃない」
「じゃあ、もともと曲に入ってる音なんじゃないか?」
当該のバンドは一応メジャーなロック・バンドだが、ややアヴァンギャルドな作風を特徴とする。変拍子やトリッキーな不協和音を曲の中に混ぜ込むから、そういう音楽を聞き慣れない彼には異様に聞こえたのかもしれない。
「いや違う。サブスクの音源と聞き比べたんだ。あんな音は、もともとのアルバムには入ってない。それに……俺の気のせいかもしれないけど、聴こえるタイミングが毎回違うんだ」
鶏レバーの串焼きを手に取り、うーんと唸る。
「プレーヤーの問題かとも思ったんだが……他のレコードではそんなこと起きないから、違うと思うんだ。わからん。俺の気のせいかもしれん」
「どんな音なんだよ? その変な音ってのは」
俺は眼鏡をはずして拭いた。信じる信じないは別として、タカハシの話に興味を持ち始めていた。自分の店で売ったレコードだけになおさらだ。
「それもよくわかんねえんだよな、実は。なんか、ボソボソ言ってるような……遠くのほうでぼんやり聞こえる感じで、はっきりしない」
「それだけじゃ全然わからんな」
「だから、俺の気のせいかもしれないって言ってるだろ? いや、そうだな、馬鹿にしないで聞いて欲しいんだが……」
タカハシがぐっと前に乗り出して声をひそめる。
「人の囁き声じゃないかと思ってんだ、俺は」
「声?」
「ああ。ずっと聞いてるとそんな気がしてくるんだ。何か言ってるようなんだが、はっきりは聞こえない。あの声が何を言ってるかわかったら、もう少し色々わかりそうなもんなんだが……」
「ふうん」
「お前、信じてないだろ」
不服そうに体を仰け反らせ、頭の後ろで手を組む。そのまま下唇をぎゅっと前につき出し何か思案しているようだったが、やがて何か思いついたのか、パッと手を離した。
「そうだ」
再度手に取った串焼きで俺を指す。
「瀬崎、これから俺の家に来ないか? お前も聴いてみてくれよ。で、同じ音が聴こえるか教えてくれ」
「今からか?」
「いいだろ、どうせ明日も休みなんだし。俺の家ここから近いんだ。酒買って宅飲みにしようぜ」
相変わらず強引な奴だ。スマホで時間を確認する。俺も奴も、誰に気兼ねすることもない独り身だ。とくに断る理由はない。
男2人で宅飲みなんてしょっぱい夜だ。だがレコードの件が気になるのも事実。
頷く俺に、タカハシは「じゃ、すぐ行こう」と伝票を取る。
「ほかに、話したいこともあるしな」
「え?」
「あ、いや、なんでもない」
ここは俺が払うからと、そそくさとレジに去っていった。
俺は普段と違う奴の態度にやや引っ掛かりを感じながらも、ジョッキに残っていたビールを飲み干し、立ち上がってあとを追った。




