04 笑顔の価値
「本当にすまなかった」
テラゾーのライブの次の日。瀬崎さんは店で会うなり、また私に謝ってきた。昨日も散々謝ったあとなのに。
私が意識を失っていたのは本当に一瞬だったようだ。気がついたらライブハウスの床に倒れていて、瀬崎さんやオーナーや、周りのお客さんたちが心配そうな顔で覗きこんでいた。大丈夫だけど念のため帰る、という私に付き添うようにして、瀬崎さんがタクシーを呼んで最寄り駅まで送ってくれた。タクシーの中で何回も「もう大丈夫ですから」と言う私に、瀬崎さんはずっと「自分がライブに誘ったから」と謝っていた。
別に瀬崎さんが謝ることではないのに、と思う。私はあのライブハウスから離れられさえすればよかったから、大丈夫だと答えたのは本心だった。むしろタクシーまで呼んでもらって、楽しみにしていたはずの太陽の靴下は私のせいで見れなくて、こちらこそ申し訳ない気持ちだった。
だから私は昨日タクシーの中で伝えたことを、そのままもう一度伝えた。
「瀬崎さんが謝ることじゃないですよ。タクシー呼んでいただけてすっごく助かりましたし! むしろ、ライブ鑑賞を途中で中断させちゃってすみませんでした」
「いや、そういうことじゃないんだよ」
瀬崎さんは気まずそうに唇を曲げると、無精髭をボリボリと掻いた。
「もっと早く……俺がきみを帰らせればよかったと思って。あのとき、嫌そうにしてたから」
「あのときって?」
「ライブが始まる前。オーナーとババさんと話してたときに、様子がおかしかったろうが」
「ああ……」
その後のことのほうが印象的過ぎて、そんな前のことすっかり忘れていた。私はへらっと笑って「気にしないでください」と言った。
「それだって瀬崎さんのせいじゃないですから。はっきり言わなかった私がよくなかったんです」
瀬崎さんは不機嫌そうに眼鏡の奥の目を細めると、「はあ~」とでかいため息をついた。少し心臓が跳ねる。怒らせてしまっただろうか。
「そうやって笑うのはやめろよ」
「……へ?」
「葛原さん、いつも嫌なことを誤魔化すときに笑うだろ。昨日もそうだった。俺があのライブハウスに何かあるのかって聞いて、大丈夫って答えたとき。本当は、あの時点できみが何か我慢してるのに気づいてたんだ」
「……そんなに私、わかりやすいですか」
「ああ。わかりやすい」
あっさり言い放つと、瀬崎さんはもう一度ため息をついて頭を掻いた。
「俺は一応、葛原さんの雇い主で上司なんだ。部下が何かに困ってるんなら、それを解消する義務がある。昨日はそれを怠った。俺の責任だ。ライブが始まったのなんか気にせずに、会場から引きずり出してでもきみの話を聞くべきだった」
ちらりとこちらを見て、軽く頷く。
「嫌なことはちゃんと嫌って言えばいい。俺に胡麻擦ってもしょうがないだろ。笑って誤魔化し続けたところで、すり減るのは自分だけだ」
じゃあ俺は品出しするから、と言いたいことだけ言って、瀬崎さんはさっさとバックヤードに入ってしまった。
後に残された私は、今の言葉をどう受け止めたらいいのかわからないまま、ただ瀬崎さんが入っていった扉を見続けていた。
***
ババさんが店に来たのはその日の夕方だった。
ドアベルの鳴る音に顔をあげた私は、一瞬誰なのかわからなかった。見たことある顔だけど、どこで会ったんだっけ。
一拍遅れて、昨日テラゾーで見た顔だと思い出した。
瞬時に顔に熱が集まる。不可抗力とはいえ、昨日はあれだけ人がいるところでいきなり気絶するなんて醜態をさらしたのだ。しかもババさんは関係者。ライブの進行に影響が出たと、文句を言いに来たのだとしてもしょうがない。
「あ、あの、昨日は本当にご迷惑をおかけして……」
あたふたと頭を下げる私の前に来て、ババさんは「迷惑?」と不思議そうな顔をした。
「迷惑って何のことですか。それより、昨日は大丈夫でしたか? ライブ前から調子悪そうでしたし、ライブ中に突然倒れて帰っちゃったから。心配してたんですよ」
私はゆっくりと顔をあげる。昨日も思ったけど、こうして明るい光の下で見ても端正な顔立ちの人だった。マッシュに刈り上げた黒髪、冷静そうな切れ長の瞳、よく通った鼻筋。私にはよくわからないけど、なんとなく理系っぽい雰囲気のある人だな、と思った。PAなんて仕事をしているくらいだからきっと音楽が好きなんだろうけど、服装は地味だ。無地のグレーのパーカーに黒のチノパンという、そこらへんの大学生にでもいそうな出で立ちだった。
そんな私の思考を読んだみたいに、ババさんが私のお腹当たりに目を落とした。
「クイーン好きなんすか」
「え? あ、はい。大好きです」
「昨日も着てましたよね。『世界に捧ぐ』のジャケットのデザインのやつ。かっこいいなーと思って。今日のは……どうかと思いますけど」
「なっ、『ザ・ミラクル』の何が悪いんですか!」
「いやアルバムの内容は否定しませんけど、そのジャケットはさすがになしでしょ」
バンドTシャツにケチをつけられたのは初めてだ。服装にコメントをくれるような親しい友人がいなかったからかもしれないけど……会って間もない人に、こんなことを言われる筋合いはない。お気に入りのバンドの好きなアルバムのデザインのTシャツを着ていて、何が悪いというのだ。
それに、バンドTシャツはこう見えて結構高価な代物だ。高円寺の古着屋で売っているようなヴィンテージものだと、場合によっては二万円を優に超える。集めるのにもお金と時間がかかる。
私はムッとして腕を組んだ。
そんな私の思考をまた読んだのか、ババさんが嗜めるように両手を前に出した。
「いや俺もアルバムは好きですよ? というか、クイーン自体好きなバンドなんで。『ザ・ミラクル』の中だと、“アイ・ウォント・イット・オール”とか好きです」
途端に、私はTシャツのことなんて忘れて笑顔になってしまう。
「私もその曲大好きです!あと、他のアルバムだったら――」
好きな音楽の話になるとついつい熱中してしまうのは、私の悪い癖だ。他のお客がいないのをいいことに、しばらくババさんとクイーンの話で盛り上がってしまった。今まで、自分に近い年代で音楽の趣味が合う人なんていなかったのもある。瀬崎さんとする音楽談義も楽しいけれど、やっぱり年が近い人とする会話は楽しい。そんな新鮮な期待が、私の熱に余計拍車をかけていた。
けれど話が進むにつれて、ババさんは言うほどクイーンが好きじゃないのかも、という気がしてきた。もちろん、何を以て「好き」とするかなんて人によって千差万別だ。他人が勝手に推し量っていいものじゃない。それでも、私が次々と挙げるアルバム名や曲名を聞いて困ったように目を逸らすのを見ていると、これは話のきっかけ作りに過ぎなかったんだろうと感じられた。もっと話したい本題が、他にあるのだ。
「すみません、私ばっかりペラペラ話しちゃって。今さらですけど、どういうご用件でみえたんですか? 瀬崎にご用でしたら呼んできますよ」
瀬崎さんはバックヤードで中古レコードの査定中だ。背後の扉を開けようと半身になりかけた私を、ババさんは慌てた様子で両手を突き出して止めた。
「待ってください、僕が今日来たのは瀬崎さんに用があるわけじゃないんです」
驚いて足をとめる。表情の変化が少ないババさんの顔に、わずかに赤みがさした。
「葛原さんと話したかったんですよ。昨日テラゾーにいたときのことを聞きたくて。あのとき……葛原さん、何か聞こえてたんじゃありませんか?」
キィ……ン
またあの耳鳴りが聞こえた気がした。
いや違う。そんなはずない。きっと空耳に違いない。
私はババさんに向き直ると、黒く怜悧な瞳をまっすぐ見据えた。
「どうして、そう思ったんですか?」
やっとの思いで出した言葉が震えていないか、自信はなかった。口の中が急に乾いてきて、自分の声がカサカサにしわがれているみたいに聞こえた。
ババさんは、そんな私の変化なんて気にも留めないみたいに肩を竦める。
「注意深く見てたらわかりますよ。あの音が聞こえてきた瞬間、耳を押さえてたし」
「あの音って……ババさん、あの音が聞こえてたんですか!」
「ええ、まあ。他にもたまにいるんですよ、テラゾーに来るお客さんで耳鳴りがするって人。でも葛原さん、昨日気絶したでしょ。そこまでの人は初めてでした。だから多分、この人は全部聞こえてるんだろうなって」
唾を飲み込もうとしたけど口の中は相変わらずカラカラで、飲み込めるものなんて何も出てこなかった。ただ、目の前の無機質な白い顔を見つめることしかできなかった。
同じ能力を持つ人に会うのは初めてだ。そしておそらく、同じ苦しみを知る人にも。
それなのに、さっきの音楽の話と違ってちっとも嬉しくなかった。
「どうして……」
「どうして僕がここに来たか、ですか? それが話したかったことです」
ババさんは一歩カウンターに近づくと、私の耳に口を近づけるように少し身をかがめた。
「あの音が、今話題の連続殺人事件に関わる音だってのは、葛原さんももう気がついてるんでしょ? 僕、犯人知ってるんですよ」
脳裏に、昨日客席に見た女の顔が甦った。私のほうを向いていた空虚な白い顔。でもその視線は少し上に逸れていた。私の頭よりも上の位置に、何があったのだろう。昨日、私は一番後方に陣取っていた。ステージから一番離れた壁際の、関係者席の少し前に立っていて……。
関係者席。
頭の中で何かが灯った。小さな丸テーブルと椅子が三、四席ほど並んだ狭いスペース。あそこは客席と比べて一段高い場所になかっただろうか。そしてそこに座っていたのは……。
「オーナーですよ」
ババさんが冷静な声で囁いた。
「テラゾーのオーナー。ヨシダさんが、あの事件の犯人なんです」




