06 誘蛾灯
「サカキさん、本当にレコードを社長に渡してよかったんですか?」
まっすぐに続く田舎道。サカキさんが先頭に立って歩いて行く。ここから先は自分の足で探りたいと、一つ手前の角でタクシーを降りたばかりだ。
「ええ、かまいませんよ。代わりに、もっと重要なことを教えていただけましたから」
生暖かい風が吹き抜けていく。民家らしきものは周りのあちこちにあるのに、先ほどから人っ子ひとり見かけていない。
俺たちはサワベマキの生家を目指して歩いていた。パピ・レコードの社長が、例のレコードを返す代わりに住所を教えてくれたのだ。
「一銭にもならなそうな無名歌手の音源なんて、持ってたってどうしようもないんですが……先代から、何があってもここで保管しろと、世に出すなと言われていたんです。だもんで、さすがになくなったことが心に引っかかっておりまして」
愚直そうな蛙顔は、何も疑っていない口ぶりでそう言った。
だが俺と葛原は顔を見合わせた。その表情を見るに、俺たちが考えていたことはおそらく同じだったろう。
依然として前を歩いていくサカキさんを見る。そもそも俺たちがこうしてサワベマキの家を目指しているのは、この人が原因だ。レコードを返すのはいいが、サワベさんの情報をもっと教えてくれと社長に食い下がったのだ。
俺は正直、もう帰ってもいいと思っていた。葛原はもっとだろう。でもサカキさんは頑として引かなかった。ついに折れた俺が同行することになり、それなら私もと、葛原もついて来ることになったのだ。
昼過ぎだというのに、空はますます暗くなっていく。雨が降ってくる前に電車に乗れればいいんだが。
「ここですね」
サカキさんが立ち止まる。その視線の先に、一軒の廃墟があった。
異様な光景だった。周りにはのどかな畑が広がり、人家がいくつか固まってあちこちに点在している――その中でただ一つ、この家だけがどの家とも隣接せず、ぽつりと立っていた。まるで他の家がここを避けているかのように。
「酷い荒れ様ですね。まあ、もう何十年も前のことですから、当たり前といえばそうですが」
サカキさんは物怖じせず、苔生した石塀に近づく。子どもでも頭が出そうなくらい低い塀の向こうには、大きな割れた窓ガラスがある。中は暗くてよく見えなかった。その隣にあるのは、家の壁と同じくらい黒ずんだ引き戸だ。
サカキさんが大きく息を吐くのが聞こえて、俺はそっと隣を伺った。まさかあの扉が開くわけもあるまいが、この人なら入りたいとも言い出しかねない。
「瀬崎さん、あの窓が、見えますか」
サカキさんが二階を指さした。
一階の窓と同様に、ひび割れた小さな窓。そこに人が立ったら、上半身は丸々見えるくらいのサイズだろう。
赤ん坊を抱きかかえ、こちらに背を向けて歌っていた、とイッシーさんは言っていた。おそらく、あの窓からだ。
「彼女、あそこにいますよ」
サカキさんがそう言ったとき、さあっと、生臭い風が家の中から吹いてきた。
同時に、俺は確かに聴いたのだ。彼女の歌声を。
「ひっ」と、背後で葛原が息を呑むのが聞こえた。
「瀬崎さん」
弱々しい声が俺を呼ぶ。
「も、もう帰りましょう。瀬崎さんたちも、この声聞こえてるんですよね? 異常ですよ、廃屋から歌声が聞こえてくるなんて。しかも、この声……絶対ヤバいです」
「何を仰いますか」
サカキさんが振り向く。俺と葛原は揃って後ずさった。
サカキさんは満面の笑みだった。唇の端が頬から飛び出そうなくらい吊り上がり、瞳には狂気の色が宿っている。興奮して血が昇った顔が、どす黒く変色していた。
「彼女が、あそこにいるんですよ。ほら、聞こえるでしょう。私たちに向けて歌っているんです。あそこで」
レコードで聴いたのと同じ、美しい歌声が風に乗ってやってくる。
ルールルー……ルルルー……ルー
歌声は段々と大きくなっていく。
ルールルー……ルルルー……ルー
こちらにいらっしゃい。
歌声に混じって、そんな囁きが聞こえた。気がする。
「さあ、瀬崎さんも一緒に行きましょう。僕は彼女に会うためにここまで来たんですから」
「だめです!」
葛原が俺のシャツの裾をギュッと掴んだ。
「瀬崎さんも、サカキさんも、これ以上この声を聴いちゃだめです! 今すぐ帰りましょう。私……こんなの、初めて聴きました。この前のレコードとも全然違います。人の声なのに……こんな……こんな、怖い声……」
サカキさんは意に介さなかった。
「若い子にはこの良さがわからないんでしょう。さ、あの窓から中に入れますよ」
「だから、入っちゃだめです! この声、めちゃくちゃ危険です! 私にはわかるんです!」
「うるさいぞ小娘!」
「あっサカキさん」
「瀬崎さん、行かないでください!」
サカキさんが割れた窓に向かって走り出す。それを追おうとした俺の手を葛原が握った。
ガガ……グ……ジュル……ギ……
彼女の歌声にのって、知らない音が聞こえた。
「な、なんだこれ……?」
窓際に立つ彼女の後ろ姿が見える。赤ん坊を抱えている。月明かりが彼女の額を照らしている。
何度も見た光景。そのはずなのに、ざわりと気味の悪い何かが俺の胃を撫でた。
彼女が、振り返ろうとしている。
やめろ。
あれだけ彼女がこちらを見ることを切望していたのに。
やめてくれ。どうか振り向かないでくれ。
彼女が“抱いているもの”を見たくない。絶対に見てはいけない。
必死の願いも虚しく、彼女の体がゆっくりとこちらを向いた。
俺は空いている手で口を抑えた。
彼女の顔は、影になってよく見えなかった。だが、その腕に抱いているものはーー月明かりの下、はっきりと見ることができた。
サカキさんの言う通りだった。確かに、胴体は人間の赤ん坊のそれだ。でも頭は違う。
そこには、巨大な蛾の頭がついていた。
ぼうぼうと毛の生えた黒い頭部の両脇についた、真っ赤な複眼。櫛のような形をした触角。
おぎゃあと、そいつが鳴いた気がした。
グ……ギギ……ジュル……シュー……
胃から酸っぱいものが込み上げてくる。俺は嗚咽した。
「瀬崎さん! 大丈夫ですか、瀬崎さん!」
葛原がパッと手を離す。途端に、彼女の姿も、あの嫌な音も、全てが消え去った。
「瀬崎さんも、私が聞こえてるものを聞きましたよね。あの声は危険です……早く、ここから離れましょう」
「で、でも……サカキさんが……」
葛原はきっぱりと首を振った。
「私たちに、助けられると思いますか」
目の淵が赤くなっていた。俺は何も言えなかった。
俺たちは二人で、声の聞こえなくなるところまで走った。雷鳴が轟き、空からポツポツと冷たい雫が落ち始めた。タクシーを捕まえて駅に戻るまで、一言も喋らなかった。
帰りの新幹線の中で、葛原はずっと落ち込んでいた。
二人とも雨に降られて体が冷えていた。ホームで買ってやったホットコーヒーを渡しても、ほとんど反応がない。顔を手で覆って俯いている。気持ちはわかったので、俺も話しかけなかった。俺自身、誰かと話すような気分じゃなかった。
だがそうは言っても、どうしても彼女に言っておきたいことが一つある。
大宮を過ぎたあたりで、俺は重い口を開いた。
「葛原さん」
葛原が顔を上げた。目を真っ赤に泣き腫らしている。
「その……ありがとうな。それから、色々悪かった」
「へ?」
「今回のことだよ。君の言う通りだった。あのレコードは聴いちゃいけない代物だったんだ。俺が店で聴こうとすると、いつも止めてくれただろ。それがあったから、俺はサカキさんほど取り込まれないで済んだんだ、と思う。さっきも……君が止めてくれなかったら、俺はサカキさんを追って家の中に入ってた」
「で、でも……」
「サカキさんのことは、君のせいじゃない」
「私が、もっと早く……あのレコードの危険性に気づけてたら……」
「そんなこと言ったら、俺だってそうだ」
葛原が赤くなった目をゴシゴシと擦る。
「ごめんなさい」
「謝るなよ。自分が悪くないことで」
すっかり冷めたコーヒーを一口飲む。感謝を伝えるつもりが却って傷つけたかと思ったが、葛原は顔を覆うのをやめてコーヒーを手に取った。
俺はずっと気になっていたことを、もう一つだけ聞くことにした。
「あの家の前であの声が聞こえたとき……君にも見えたのか?彼女の姿が」
葛原はスンスンと鼻をすすりながら、それでもしっかりと頷いた。
「あれ……何だったと思う?」
「わかりません。でも、社長さんの言ってた話が本当なら……あれが、サワベさんが身籠ったっていう……《《山にいる何か》》との子なんだと思います」
「あの家の二階にいたと思うか」
「ええ。おそらく。きっと、彼女も一緒にいるんだと思います……ずっと。あの歌は……子守唄でもあるけど、同時に、父親代わりを探すための歌だったんじゃないでしょうか。だから、男の人ばかり魅せられていたんですよ。あの家に誘き寄せるために」
全身にぞくりと寒気が走った。濡れたシャツは乾き切っていない上、新幹線の冷房もよく効いていたが、それが原因じゃないのは明らかだった。
「父親代わりって……何させられるんだよ」
「わかんないです。でも、あの家の前まで来て、あの歌声が聞こえたとき……目当てじゃない女の私でもはっきり危険だとわかったのは、それだけあの声に込められた悪意が強かったからだと思うんです。だから……」
それだけ聞ければ十分だった。
俺たちは再び黙り、東京駅で分かれるまでほとんど言葉を交わさなかった。
それからサカキさんがどうなったのか、俺は知らない。少なくとも、彼が黎音堂に来ることは二度となかった。
一度だけ、やめておいた方がいいと思いながらもサカキさんの携帯電話にかけたことがある。もしかしたらあの後、何事もなくこちらに戻っているかもしれない。
奇跡的に電話はつながった。
「サカキさん?」
俺の問いかけに答える声は、なかった。
代わりに、パタパタと何かが羽ばたく音が遠くで聞こえた。シュー、シューと、何かが息を吐くような音が規則的に聞こえる。ジュル……ジュル……と、水っぽい何かが床の上を這うような音。あのとき、葛原に手を握られたときに聞こえたーー。
そこまで聞いて、俺は電話を切った。
今日も俺は、コーヒーを飲みながら店番をする。葛原はラックの整理をしている。いつもと変わらない、なんてことのない日常。
この一件で葛原が辞めるだなんて言い出さないか心配だったが、杞憂だった。
「瀬崎さんが何て言おうと、好きな音楽に関われるこの仕事だけは辞めたくないんです」
あの日俺と分かれる前、ただ一言彼女はそう言った。
有り難かった。
どんな理由があろうと、俺はこの店を辞めるつもりはなかった。たとえこの先どんな危険なレコードがこの店に来ようと。この店だけは、潰させやしない。
葛原と同じだ。ロックは俺の唯一の取り柄だ。せっかく手に入れた好きなものに関われる仕事を、みすみす手放す気なんてない。それが、どんなに自分勝手なエゴだったとしても。
読んでいた雑誌から顔を上げる。チリンチリン、とドアベルが鳴った。
読んでくださった方、ありがとうございます!
このエピソードで、第2話も一旦終わりとなります。次回からは第3話を更新予定です。
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