05 お山
「それで、なんでそのレコード会社に行くんですか」
隣で葛原がエナジードリンクの缶を開けた。カフェインの摂りすぎは体によくないと言ったのだが、朝早起きをしたせいで眠いらしい。
「瀬崎さんだってコーヒー中毒じゃないですか」と言われては、返す言葉もなかった。
黎音堂の定休日。俺たちは新幹線に乗って、栃木県のS――という場所に向かっていた。
「イッシーさんの住んでたところから一番近くにあるレコード会社だ。そのサワベって女の人が、そこでレコーディングしていた可能性は高い」
実際、俺はそのレコード会社にアポ取りも兼ねて電話をかけていた。パピ・レコードという名前の小さな会社の社長は、電話口の向こうで「音源を持ってきてくれればわかるかもしれない」と、怪訝そうに息を吐いた。
「でも、だからって……サカキさんと一緒に行かなくても」
「しょうがないだろ。この前、あの人が店に来たときにレコード返しちゃったんだから」
葛原は不安そうだ。その気持ちはわかったが、俺は何も言わなかった。ここ最近の様子がおかしいとは言え、サカキさんは葛原よりはるかに付き合いの長い大切なお客様だ。いないところで陰口のようなことは言いたくない。
だがこの間の一件もある。サカキさんとは現地合流することにしていた。
車窓の景色から背の高いビルが減り、一軒家や田んぼの緑が増えてきた。青い空に大きな入道雲が広がり、嫌になるくらいいい天気だったが、俺たちの間に漂う空気は暗い。
「私、まだサカキさんとは会ったことないですけど」
本人が近くにいるかのように、葛原が声を潜める。
「多分相当ヤバい人ですよ、その人。言ってなかったんですが……私、この前コウダさんに会いに行ったんです」
俺が窓から視線を外し振り向くと、葛原は「あ、怒ってます?」と例の笑顔を浮かべた。
「いや、どちらかというと呆れてる。きみの、その……無駄な行動力に」
「ひどい! これでもちゃんと考えて動いてるんですよ! ……ともかく、この前の休みにコウダさんの家に行ってみたんですよ」
思うところがないと言えば嘘になるが、行ってしまったものは仕方がない。俺は黙って続きを促した。
「結論から言うと、会ってもらえませんでした。玄関のところで奥さんに門前払いされちゃって。最初は全然そんな雰囲気じゃなかったんですよ。あら主人がお世話になってます~くらいの感じで。でもサカキさんの名前出した瞬間、急に態度が変わったんです」
そのときのことを思い出したのか、葛原が落ち着かなさげに腕をさする。
「すごく怯えた様子で、『お引き取りください』って、ばっさり。『あのレコードはもう我が家に何の関係もないですから。放っといてください』って言われました。しょうがないんで、私も帰ることにしたんですけど……玄関出た後に振り返ったら、二階の窓から誰かが覗いてたっぽかったんですよね。多分、コウダさんじゃないかと思うんですけど。すぐにシャッてカーテン閉めちゃったので、よくわかんなくて」
ブルッと体を震わせると、不安げに揺れる瞳がこちらを向いた。
「サカキさんの話ではコウダさんからレコードを譲ってもらったってことでしたけど、本当にそうなんでしょうか。そんな穏便な雰囲気じゃなかったですよ」
喫茶店で俺の袖を掴んだサカキさんの顔を思い出す。あの人が――レコードを手に入れるために、コウダさんに何をしたのか。想像したくなかった。
「もしかすると、あのレコードが影響してるのかなって。だとすると……その影響が出てるのって、全部男の人じゃないですか? それなら、私が危険を聴き取れなかったのもわかる気がします」
葛原が続ける。
「私には危険のないレコードだったから……でも、男性には……瀬崎さんには、あのレコードが危険な可能性はあります。だから、気をつけてください」
今さらそんなこと言われても困る。そう思ったが口には出さなかった。心当たりは、ありすぎるほどあった。
「怖いこと言うなよ」
窓の外に視線を戻す。一雨くるのか、先ほどよりも空が色を失っている。走りゆく景色の上にそびえ立つ雲が、獲物を捕食する怪物のように黒い口を広げていた。
***
レコードを矯めつ眇めつ眺めたパピ・レコードの社長は、ため息を一つつくと、「おそらく、過去にうちでレコーディングしたものでしょう」と言った。
「おそらく、とは?」
「盗まれたんですよ。だいぶ前にね」
でっぷりした顎をわずかに曲げると、社長が手に持っている写真とレコードを再度見比べる。何十年も前に撮ったらしい黄ばんだ写真には、今そこにあるレコードとそっくり同じ、黒一色のジャケットが写っていた。
「盗まれた、とは正確でないかもしれません。ある日突然なくなったのです。と言っても社員でわざわざ触るような者もいないし、盗まれたんだろうということになったのですが。ほら、ここの皺の入り方が全く同じです。やはり、過去にうちのスタジオでレコーディングした音源の、テストプレス盤だと思いますねえ」
テストプレス盤とは、本格的にレコードを製造する前に作る最終確認用のレコードのことだ。
「念のため、音も聴いてみてもらえませんか?」
俺の左隣からサカキさんが声をかける。社長は鷹揚な態度で、太い顎をまた傾けた。
「聴いても私には判別がつきませんので。レコーディングしたのは先代ですから。私は先代からこのテスト盤の存在は聞いてましたし、実際に管理もしてきましたが……音は絶対に聞くなと、言われていたんです。なぜかは知りませんけどね」
狭い応接室のなか、革張りのソファがギシリと音を立てた。俺の右隣で葛原がぎくりと身をひいたのだ。
テーブルの上に儀礼的に出されたペットボトルのお茶には、まだ誰も手をつけていない。
「これはテストプレス盤ということでしたが……本プレス盤は、どうなったんです?」
俺の質問に、社長は蟇蛙みたいな目玉をギョロッと動かして顎をさする。
「出てないんですよ。あくまで、先代からの又聞きですが。テストプレスができた後に、そのサワベマキってアーティストが行方不明になったらしくて。家族とも一切連絡がつかないってんで、お蔵入りになったそうです」
「そもそもサワベさんは、どうしておたくでレコーディングすることになったんですか」
「もともと、ミュージシャンだった人ではないらしいです。かなりの別嬪さんで、地元では有名だったらしいですが。毎日、家で子守歌を赤ん坊に歌って聴かせてたっちゅう話です。それがあんまり美しい声だってんで評判になって、試しに聴きに行った先代が惚れ込んで……レコーディングさせてくれと頼みこんだと、聞いております」
「他に、何かご存知のことはないですか。どんな小さなことでもいいんです」
咳き込むようにサカキさんが尋ねる。社長はそちらをちらりを見ると、気乗りしない様子でペットボトルを手に取った。
「……先代から聞いた話ですよ。本当かどうかは知りません」
ペットボトルに口をつけ、唇を湿らす。
「サワベさんには、妙な噂があったそうです。彼女が子守唄を歌っている赤ん坊は、お山で身ごもった子なのだと」
「お山?」
「彼女が住んでいたS――から少し離れた場所に、K山っていう山があるんですよ。彼女、子どもを産む前に何か月か行方不明になってたそうです。で、そのK山の麓で発見されたんですな。それから妊娠が発覚したというわけで……。そういう場合、犯罪に巻き込まれた可能性を一番に考えそうなもんですが、どういうわけかサワベさんの家族は誰も警察に行かなかったんですな。それで、詮索好きの地元民が色々と心ない噂を立てたわけですわ」
社長の声音には、閉鎖的な風土への嫌悪感がありありと滲み出ていた。
「彼女の子どもは、お山にいる”何か”と交わってできた――人でないものなんだ、とね」




