表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者を庇って死んだ私が、二度目の人生で恋をした相手は執事でした  作者: 黒猫と珈琲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/14

過去編 あの日、雪の日に恋をした②(アルベルト視点)

 春になった。


 庭には色とりどりの花が咲き、屋敷にも穏やかな空気が流れていた。イルザ様は相変わらず旅の本がお好きで、新しい本が届くたび、嬉しそうにページをめくっている。


「アルベルト」

「はい」

「いつか、この湖を見に行ってみたいわ」


 本を抱えたまま、イルザ様が微笑む。


「朝日で水面が金色に輝くんですって」

「きっと美しい景色でしょう」

「でしょう?」


 その笑顔を見ているだけで、私まで嬉しくなる。


 それだけで十分だった。


 そう思っていた。


 その日の午後、一人の青年騎士が屋敷を訪れた。


「やあ、イルザ。久しぶりだね」


 明るい声に、イルザ様もぱっと表情を輝かせる。


「エリオット様!」


 二人は幼い頃からの知り合いらしく、すぐに昔話へ花を咲かせた。


「木登りばかりして、お祖父様によく叱られていただろう?」

「もう、その話はやめてください」

「いや、あれは傑作だった」


 楽しそうに笑い合う二人を横目に、私は少し離れた場所で紅茶を注いでいた。


 胸の奥が、静かに痛む。


 どうしてだろう。


 イルザ様が笑っている。それなのに、素直に喜べない。


 私は小さく首を振った。


 何を考えている。


 私は執事だ。主人が笑ってくださること以上の喜びなど、あるはずがない。



 季節は巡り、夏の終わり。


 アイゼンフェルト公爵家の嫡男、ディートリヒ様が屋敷を訪れるようになった。


 初めてお会いした時から、誠実な方だと思っていた。使用人にも丁寧に接し、誰に対しても礼を欠かさない。イルザ様が安心して隣に立てる方だと、自然に思えた。


 だからこそ、胸が苦しかった。


 数か月後、婚約が正式に発表され、屋敷中が祝福に包まれた。


「おめでとうございます、お嬢様」


 私は深く頭を下げる。


「ありがとう、アルベルト」


 イルザ様は少し照れながら笑った。左手には婚約指輪が輝いている。


 その光から、そっと目を逸らした。


「これからもよろしくね」

「かしこまりました」


 それだけ答える。


 それしか、答えられなかった。


 夜会の日。


 馬車から降りたイルザ様へ、ディートリヒ様が自然に手を差し伸べる。イルザ様も穏やかに微笑み、その手を取った。


 二人は並んで歩いていく。


 私は数歩後ろを歩いた。


 執事として。


 護衛として。


 それが、私のいるべき場所だった。


 夜会の間も、二人は楽しそうに話していた。旅の話。本の話。領地の話。ディートリヒ様は優しく耳を傾け、イルザ様は安心したように笑う。


 お似合いだった。


 本当に、お似合いだった。


 だから私は、喜ばなければならない。


 あの日、雪の中で助けてくださった方が幸せになる。それ以上に嬉しいことなどない。


 ……そのはずだった。


 夜更け。


 部屋へ戻り、執事服を脱ぐ。白い手袋を外し、上着を丁寧に畳んでいると、ぽたりと雫が落ちた。


 私は動きを止める。


 涙だった。


「……なぜ」


 自分でも分からない。


 イルザ様は幸せになる。


 それなのに、涙が止まらない。


 私は両手で顔を覆った。


 こんな気持ちは抱いてはいけない。


 私は執事なのだから。



 婚約してから、イルザ様は少しずつ変わっていった。


 書庫へ通う回数が減り、届いた旅の本を開かない日が増えた。


「新しい本が届きました」

「ありがとう。あとで読むわ」


 そう微笑む。けれど、その本は机の上に置かれたままだった。


 数日後、屋敷の紫陽花が見事に咲いた。


「お嬢様、今年も紫陽花が綺麗に咲きましたね」


 私が声を掛けると、イルザ様は花を見つめ、小さく微笑んだ。


「……そうね」


 以前のように近寄ることもない。香りを確かめることもない。ただ静かに通り過ぎていく。


 私は紫陽花と、その後ろ姿を見つめていた。


 午後のティータイムには、マルタ様に教わった通り、ミルクティーを淹れた。


 牛乳をゆっくり温め、生姜をひとかけ。砕いたカルダモンとクローブで香りを添え、最後にほんの少しだけ蜂蜜を溶かし入れる。


「お嬢様、どうぞ」

「ありがとう」


 イルザ様は一口飲み、優しく笑った。


「美味しいわ」


 けれど、その笑顔はどこか遠い。


 以前のように目を輝かせて、


「アルベルトのミルクティー、大好き」


 そう言ってくださることは、もうなかった。


 私は何も尋ねなかった。


 尋ねる資格はない。


 執事は、主人の心へ踏み込みすぎてはならないのだから。



 雨の日だった。


 窓を叩く雨音だけが、静かな部屋へ響いている。イルザ様は窓辺へ腰掛け、旅の本を膝に置いていた。


 けれど、ページは開かれていない。


 ただ静かに、雨を見つめている。


 私は少し離れた場所で控えていた。


 ふと、イルザ様が目元へ手を添える。その仕草に胸がざわめいた。


 けれど、イルザ様は私に気づくと、小さく微笑む。


「……何でもないわ」


 その笑顔は、あまりにも寂しかった。


 私は何も言えない。


 ただ、胸が締めつけられる。


 守りたい。


 笑っていてほしい。


 もう、無理をしないでほしい。


 その願いは、もう恩返しだけでは説明がつかなかった。


 違う。


 これは、恩返しではない。


 雪の日。


 甘いミルクティーを差し出してくれた少女は。


 いつの間にか。


 私が、一生をかけて守りたい人になっていた。


 ――ああ。


 私は。


 あの日、雪の日に恋をしていたのだ。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ