過去編 あの日、雪の日に恋をした②(アルベルト視点)
春になった。
庭には色とりどりの花が咲き、屋敷にも穏やかな空気が流れていた。イルザ様は相変わらず旅の本がお好きで、新しい本が届くたび、嬉しそうにページをめくっている。
「アルベルト」
「はい」
「いつか、この湖を見に行ってみたいわ」
本を抱えたまま、イルザ様が微笑む。
「朝日で水面が金色に輝くんですって」
「きっと美しい景色でしょう」
「でしょう?」
その笑顔を見ているだけで、私まで嬉しくなる。
それだけで十分だった。
そう思っていた。
その日の午後、一人の青年騎士が屋敷を訪れた。
「やあ、イルザ。久しぶりだね」
明るい声に、イルザ様もぱっと表情を輝かせる。
「エリオット様!」
二人は幼い頃からの知り合いらしく、すぐに昔話へ花を咲かせた。
「木登りばかりして、お祖父様によく叱られていただろう?」
「もう、その話はやめてください」
「いや、あれは傑作だった」
楽しそうに笑い合う二人を横目に、私は少し離れた場所で紅茶を注いでいた。
胸の奥が、静かに痛む。
どうしてだろう。
イルザ様が笑っている。それなのに、素直に喜べない。
私は小さく首を振った。
何を考えている。
私は執事だ。主人が笑ってくださること以上の喜びなど、あるはずがない。
◇
季節は巡り、夏の終わり。
アイゼンフェルト公爵家の嫡男、ディートリヒ様が屋敷を訪れるようになった。
初めてお会いした時から、誠実な方だと思っていた。使用人にも丁寧に接し、誰に対しても礼を欠かさない。イルザ様が安心して隣に立てる方だと、自然に思えた。
だからこそ、胸が苦しかった。
数か月後、婚約が正式に発表され、屋敷中が祝福に包まれた。
「おめでとうございます、お嬢様」
私は深く頭を下げる。
「ありがとう、アルベルト」
イルザ様は少し照れながら笑った。左手には婚約指輪が輝いている。
その光から、そっと目を逸らした。
「これからもよろしくね」
「かしこまりました」
それだけ答える。
それしか、答えられなかった。
夜会の日。
馬車から降りたイルザ様へ、ディートリヒ様が自然に手を差し伸べる。イルザ様も穏やかに微笑み、その手を取った。
二人は並んで歩いていく。
私は数歩後ろを歩いた。
執事として。
護衛として。
それが、私のいるべき場所だった。
夜会の間も、二人は楽しそうに話していた。旅の話。本の話。領地の話。ディートリヒ様は優しく耳を傾け、イルザ様は安心したように笑う。
お似合いだった。
本当に、お似合いだった。
だから私は、喜ばなければならない。
あの日、雪の中で助けてくださった方が幸せになる。それ以上に嬉しいことなどない。
……そのはずだった。
夜更け。
部屋へ戻り、執事服を脱ぐ。白い手袋を外し、上着を丁寧に畳んでいると、ぽたりと雫が落ちた。
私は動きを止める。
涙だった。
「……なぜ」
自分でも分からない。
イルザ様は幸せになる。
それなのに、涙が止まらない。
私は両手で顔を覆った。
こんな気持ちは抱いてはいけない。
私は執事なのだから。
◇
婚約してから、イルザ様は少しずつ変わっていった。
書庫へ通う回数が減り、届いた旅の本を開かない日が増えた。
「新しい本が届きました」
「ありがとう。あとで読むわ」
そう微笑む。けれど、その本は机の上に置かれたままだった。
数日後、屋敷の紫陽花が見事に咲いた。
「お嬢様、今年も紫陽花が綺麗に咲きましたね」
私が声を掛けると、イルザ様は花を見つめ、小さく微笑んだ。
「……そうね」
以前のように近寄ることもない。香りを確かめることもない。ただ静かに通り過ぎていく。
私は紫陽花と、その後ろ姿を見つめていた。
午後のティータイムには、マルタ様に教わった通り、ミルクティーを淹れた。
牛乳をゆっくり温め、生姜をひとかけ。砕いたカルダモンとクローブで香りを添え、最後にほんの少しだけ蜂蜜を溶かし入れる。
「お嬢様、どうぞ」
「ありがとう」
イルザ様は一口飲み、優しく笑った。
「美味しいわ」
けれど、その笑顔はどこか遠い。
以前のように目を輝かせて、
「アルベルトのミルクティー、大好き」
そう言ってくださることは、もうなかった。
私は何も尋ねなかった。
尋ねる資格はない。
執事は、主人の心へ踏み込みすぎてはならないのだから。
◇
雨の日だった。
窓を叩く雨音だけが、静かな部屋へ響いている。イルザ様は窓辺へ腰掛け、旅の本を膝に置いていた。
けれど、ページは開かれていない。
ただ静かに、雨を見つめている。
私は少し離れた場所で控えていた。
ふと、イルザ様が目元へ手を添える。その仕草に胸がざわめいた。
けれど、イルザ様は私に気づくと、小さく微笑む。
「……何でもないわ」
その笑顔は、あまりにも寂しかった。
私は何も言えない。
ただ、胸が締めつけられる。
守りたい。
笑っていてほしい。
もう、無理をしないでほしい。
その願いは、もう恩返しだけでは説明がつかなかった。
違う。
これは、恩返しではない。
雪の日。
甘いミルクティーを差し出してくれた少女は。
いつの間にか。
私が、一生をかけて守りたい人になっていた。
――ああ。
私は。
あの日、雪の日に恋をしていたのだ。




