過去編 あの日、雪の日に恋をした①(アルベルト視点)
あの日の雪は、静かだった。
音を吸い込むように降り積もる白の中を、私は小さな薬袋を胸に抱え、ただ前へ歩いていた。もう少しで帰れる――そう思っていた。
けれど、吹雪は突然強くなった。視界は白く閉ざされ、足元も分からない。風が頬を刺し、指先の感覚が少しずつ消えていく。
「……まだ、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いた。
倒れるわけにはいかなかった。
父も母も、もうこの世にはいない。没落した男爵家に残されたのは、古びた屋敷と私一人だけ。屋敷を預かってくれている老執事が熱を出し、幼い頃から父に仕えてくれていたその人のために、私は町まで薬を買いに来ていた。
今度は私が、あの人を守る番だった。
だから歩く。
一歩。
また一歩。
けれど、その足は少しずつ重くなっていった。
寒い。
眠い。
少しだけ目を閉じれば、楽になれる気がした。
――駄目だ。
雪の日に眠ってはいけない。
父がそう教えてくれた。
それでも身体は言うことを聞かなかった。膝から崩れ落ち、白い雪がゆっくりと視界を埋めていく。
これで終わるのだろうか。
そう思った、その時だった。
「お祖父様! お祖母様!」
高く澄んだ声が、雪の中へ響いた。誰かが駆け寄ってくる。
「起きて! ねえ、起きて!」
肩を揺すられ、重たい瞼を開く。
そこには、赤い髪の少女がいた。
雪景色の中で、その色だけが春のように鮮やかだった。頬を赤く染めながら、真っ直ぐ私を見つめる水色の瞳だけが、不思議なくらい温かかった。
「……誰」
かすれた声で尋ねると、少女は胸を張った。
「イルザよ!」
あまりにも堂々と名乗る姿に、私は思わずその名前を心の中で繰り返す。
イルザ。
「……イルザ」
「そうよ。だから寝ては駄目。寝たらお祖父様に怒られるわ」
意味は分からなかった。それなのに、不思議と安心した。
自然と口元が緩む。
そこへ足音が近づいてきた。
「イルザ!」
「お祖父様、子どもが倒れているの!」
「見れば分かる!」
大柄な男性が私を抱き上げる。続いて、白髪の女性が毛布を抱えて駆け寄ってきた。
「まあ、なんて冷たい手……急いで中へ」
その優しい声を最後に、私の意識は静かに途切れた。
◇
目を覚ました時、暖炉の火が静かに揺れていた。
身体は温かい。柔らかな寝台に横たわり、薪のはぜる音が心地よく耳へ届く。
私は、生きていた。
「目が覚めたのね」
穏やかな声がした。白髪の女性が微笑んでいる。
「無理に起きなくていいわ。熱も少し下がったもの」
「……ここは」
「私たちの家よ」
毛布を整えながら、優しく笑う。
「私はマルタ。あちらがお祖父さんのオットー」
暖炉の前に座っていた男性が、こちらを向いた。
「元気になるまで休め」
短い言葉だった。けれど、その声には不思議と人を安心させる温かさがあった。
私は数日、高い熱を出した。眠っては目を覚まし、また眠る。そのたびに部屋の扉が少しだけ開き、隙間から赤い髪が覗いた。
私と目が合う。
慌てて引っ込む。
しばらくすると、また覗く。
その繰り返しだった。
面白い子だ。
そう思うだけで、自然と口元が緩んだ。
熱が下がり始めたある日、イルザが盆を抱えて部屋へ入ってきた。
「ミルクティーだよ。飲める?」
湯気とともに、甘く優しい香りがふわりと漂う。ミルクティーを淹れてくださったのはマルタ様で、イルザはそれを大切そうに運んできてくれたのだった。
私は頷き、震える手でカップを受け取ろうとした。けれど、まだ指先にうまく力が入らない。
するとイルザは何も言わず、両手でそっとカップを支えてくれた。
「急ぐと苦くなるのよ」
どこか得意そうな口調だった。きっと、マルタ様の言葉を真似したのだろう。
私は驚いてイルザを見つめ、それから小さく笑った。
「……甘い」
「甘めにしたの。私が好きだから」
「君が?」
「ええ。私が好きなものは、だいたい美味しいわ」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、私は声を立てずに笑った。
没落してから。
父と母を亡くしてから――こんなふうに心から笑ったのは、初めてだった。
体調が落ち着いた頃、イルザが首を傾げて尋ねた。
「あなた、名前は?」
「……アルベルト」
「アルベルトね。覚えたわ」
その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。
「……覚えて、くれるの?」
気付けば、そんな言葉が口をついて出ていた。
没落した男爵家の息子。父と母を失い、残された屋敷を守るだけの毎日。
誰かの記憶へ残るような人間ではない。
いつしか、そう思い込んでいた。
けれどイルザは、不思議そうに首を傾げる。
「もちろん。私は記憶力がいいもの」
胸を張って笑う。その笑顔につられるように、私ももう一度、小さく笑った。
◇
家へ戻った日。
古びた屋敷の門をくぐると、老執事が玄関まで駆け寄ってきた。
「アルベルト様……!」
白くなり始めた髪を乱しながら、私の肩へ手を置く。その目には涙が浮かんでいた。
「ご無事で……本当に、ご無事でございました」
「ご心配をおかけしました」
深く頭を下げると、老執事は何度も頷いた。
「旦那様も奥様も、きっと安心なさっております」
その言葉に胸が熱くなる。
父も母も、もういない。それでも、この屋敷には私の帰りを待ってくれる人がいた。そのことが、胸に静かな温もりを灯した。
私は居間へ入り、雪の日の出来事を一つひとつ話した。
イルザという少女のこと。
オットーさんとマルタ様のこと。
暖炉の火。
身体だけではなく、心まで温めてくれた甘いミルクティー。
そして、命を救われたこと。
老執事は最後まで静かに耳を傾けていた。やがて目を細め、懐かしそうに笑う。
「旦那様が、よくおっしゃっておりました」
私は顔を上げた。
「受けた恩は、必ず返しなさい、と」
その言葉を聞いた瞬間、幼い日の記憶が蘇る。
まだ父が元気だった頃。暖炉の前で本を読みながら聞いた声。
『アルベルト』
『受けた恩は、必ず返しなさい』
『恩は、人を温かくするものだ』
『だから、お前もいつか、その温かさを誰かへ返していきなさい』
優しい笑顔だった。
私はあの日の父の顔を思い浮かべながら、小さく頷く。
「はい」
胸へ手を当てた。
「あの日いただいた温もりを、私は一生忘れません」
老執事は穏やかに微笑む。
「きっと旦那様も、お喜びになります」
私は静かに目を閉じた。
父はいない。
母もいない。
けれど、二人が残してくれた教えだけは、今も胸の中で生き続けていた。
◇
それから数年後。
私は使用人として働き始め、執事になるための教育を受けた。
掃除、給仕、礼儀作法。紅茶の淹れ方や銀食器の磨き方まで、一つひとつを誰よりも真剣に学んだ。
朝は誰よりも早く起き、夜は最後まで仕事を覚える。失敗すれば何度でもやり直し、教えられたことは必ず身につけた。
父の教えを胸に。
あの日いただいた恩を返すために。
その積み重ねだけが、自分にできる恩返しだと信じていた。
やがて私は、侯爵家へ仕えることになった。
初めて屋敷へ足を踏み入れた日のことだった。
「新しく入った方ですか?」
聞き覚えのある声がした。
振り返る。
そこには、赤い髪の令嬢が立っていた。
幼い日の面影を残しながらも、すらりと背が伸び、気品のある立ち居振る舞いを身につけている。雪の中で出会った少女は、いつの間にか美しい令嬢へと成長していた。
けれど、その笑顔だけは少しも変わっていなかった。
私は一瞬、息を呑む。
――イルザ様。
胸の奥で、あの日の雪景色が鮮やかによみがえった。
だが、その名を口にすることはできない。私は静かに頭を下げた。
「本日よりお仕えいたします、アルベルトと申します」
「アルベルトさんですね。よろしくお願いします」
イルザ様は柔らかく微笑んだ。
それだけだった。
やはり、覚えてはいらっしゃらない。
当然だ。
あの日、雪の中で助けた子どもの一人。何年も前の出来事なのだから。
それでも私は幸せだった。
あの日救われた命で、今度はこの方にお仕えできる。
それだけで十分だった。
執事としての日々は、穏やかに過ぎていった。
旅の本を運ぶ。庭園に咲いた花を飾る。雨の日には傘を差し出し、寒い日には暖炉へ薪をくべる。
季節が巡るたび、イルザ様の笑顔を見る機会も少しずつ増えていった。
そして私は、マルタ様から教わった通り、甘めのミルクティーを淹れる。
牛乳をゆっくり温め、生姜をひとかけ。砕いたカルダモンとクローブで香りを添え、最後にほんの少しだけ蜂蜜を溶かし入れる。
あの日、身体だけではなく心まで温めてくれた味。
私にとって、生涯忘れることのできない一杯だった。
「今日もアルベルトのミルクティーが飲みたいわ」
寒い日になると、イルザ様は決まってそう微笑む。
「かしこまりました」
その一言をいただけるだけで、胸の奥が静かに温かくなった。
執事として認めていただけている。
そう思えるだけで嬉しかった。
ある日、旅の本を抱えたイルザ様が廊下を小走りに駆けてきた。
「アルベルト、見て!」
本を開いたまま、私の目の前へ差し出す。
思っていた以上に距離が近い。
ふわりと花のような香りが漂い、私は思わず息を止めた。
近い。
落ち着きなさい。
相手はお嬢様だ。
私は執事。
それ以上でも、それ以下でもない。
「この景色、とても綺麗でしょう?」
屈託なく笑うイルザ様は、そんな私の動揺など少しも気付いていない。
私は本へ視線を向けた。
そこには、雪に包まれた山あいの小さな宿が描かれている。暖炉の火が窓越しに揺れ、大きな窓の向こうには白銀の森と降り積もる雪が穏やかに広がっていた。
「暖炉の前でミルクティーを飲みながら、雪を眺めて過ごせるんですって」
「ええ、とても素敵な場所ですね」
「でしょう? 私、いつかこんな宿へ泊まってみたいの」
目を輝かせながら話す横顔を見つめる。
美しいのは、本の景色だけではなかった。
けれど、その想いは胸の奥へ静かにしまい込む。
それでいい。
私は執事なのだから。
別の日。
雨上がりの庭を歩いていたイルザ様が、小さく足を滑らせた。
「きゃっ」
考えるより先に身体が動いていた。
腕を伸ばし、その身体を抱き止める。
一瞬だけ伝わる温もり。細い肩。柔らかな髪が私の肩へ触れ、雨に濡れた花々の香りがふわりと近づく。
鼓動が大きく跳ねた。
私は我に返り、慌てて身体を離す。
「申し訳ございません」
「どうして謝るの?」
イルザ様はきょとんとした顔で私を見上げた。
「助けてくれたのでしょう?」
そう言って、小さく笑う。
「ありがとう、アルベルト」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
守れてよかった。
ただ、その一心だった。
その思いだけで、今日一日が報われる気がした。
◇
季節は静かに巡っていく。
紫陽花が咲き、蝉が鳴き、紅葉が庭を彩り、また雪が降る。
そのたびにイルザ様は笑い、私は少し離れた場所から、その笑顔を見守っていた。
お嬢様が笑ってくださる。
それだけで十分だった。
私は何度も自分へ言い聞かせた。
これは恩返しだ、と。
父の教えを守っているだけなのだ、と。
けれど。
笑顔を見るたび嬉しくなる。
名前を呼ばれるたび心が弾む。
誰かと楽しそうに話している姿を見るだけで、胸の奥がわずかに苦しくなる。
執務の合間、気付けば姿を探している自分がいた。お出かけから無事に戻られると、それだけで安堵してしまう。
いつから、こうなってしまったのだろう。
分からなかった。
いや――分かろうとしなかった。
気付いてしまえば、執事ではいられなくなる気がしたからだ。
だから私は、胸の奥へ静かに蓋をした。
あの日いただいた恩を返すため。
ただ、それだけを支えに生きていこうと決めた。
それが恋ではないと、自分に言い聞かせながら。
まだ、この頃の私は気付いていなかった。
あの日の雪で救われた命は、いつしかその人の笑顔に救われるようになっていたことを。




