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婚約者を庇って死んだ私が、二度目の人生で恋をした相手は執事でした  作者: 黒猫と珈琲


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7/14

番外編 雨の日のミルクティー

 朝から静かな雨が降っていた。窓を伝う雨粒が庭の紫陽花を優しく濡らしている。青や紫の花は雨をまとい、いつもより色濃く見えた。


「雨ね」


 イルザは窓辺へ歩み寄り、小さく微笑む。昔は雨の日があまり好きではなかった。どこか気持ちまで曇ってしまうような気がしていたからだ。


 けれど今は違う。雨音さえも、どこか穏やかに感じられる。


「おはようございます、イルザ」


 振り返ると、アルベルトが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。


「おはよう」


 その笑顔を見るだけで、胸の奥まで温かくなる。結婚して数か月。それでも朝一番に「おはよう」と言い合えることが、イルザにはまだ少し照れくさくて、そして何より嬉しかった。


 食堂には焼き立てのパンの香りが広がっていた。ふわふわのオムレツに温かなスープ、彩り豊かなサラダ。窓の外の雨とは対照的に、部屋の中は優しい温もりに満ちている。


「……また、一人で全部用意したの?」


 イルザが苦笑すると、アルベルトはわずかに視線を逸らした。


「はい」

「私も手伝うって言ったでしょう?」

「でも、イルザにはゆっくりしていてほしくて」

「だからって、全部しなくてもいいじゃない」

「つい、癖で」


 困ったように笑う姿に、イルザは肩をすくめる。


「本当に執事が抜けないわね」

「そのつもりなんですが、なかなか難しいですね」

「褒めてるの」

「……そう言っていただけると、嬉しいです」


 アルベルトの柔らかな笑顔につられて、イルザも自然と笑みを浮かべた。


 朝食を終えたあと、イルザは厨房へ向かった。けれど洗い物はすでに終わり、花瓶の花も新しいものへ替えられていた。暖炉は整えられ、本棚には今日読もうと思っていた本まで用意されている。


「アルベルト」

「はい」

「私の出番がありません」


 アルベルトは少し首をかしげた。


「それなら安心しました」

「何も安心できないわ!」


 思わず声を上げると、アルベルトは本当に不思議そうな顔をする。


「イルザに無理はしてほしくありませんから」

「だからって、全部やったら、私があなたにしてあげられることがなくなるでしょう?」


 以前のイルザなら、ここまでしてもらうことを素直に受け入れていたかもしれない。


 けれど今は違う。一緒に暮らす毎日は、誰かに守られるだけではなく、自分も相手のために何かをしたいと思えるほど、かけがえのないものになっていた。


 少し考えてから、イルザはぱっと顔を上げる。


「決めた」

「何でしょう」

「今日は私がミルクティーを淹れる」


 アルベルトの表情が、ほんのわずかに固まった。


「私が淹れます」

「駄目」

「ですが」

「今日は、妻として淹れたいの」


 きっぱりと言い切ると、アルベルトは小さく息をついた。


「……承知いたしました」

「ほら」


 イルザはくすりと笑う。


「その『承知いたしました』が抜けないのよ」

「これは、もう一生抜けないかもしれません」


 アルベルトも照れくさそうに笑った。


 鍋へ茶葉を入れる。砕いたカルダモンを加え、薄く切った生姜をそっと落とす。牛乳を注いでゆっくり火にかけると、甘く優しい香りが厨房いっぱいに広がっていった。


 アルベルトは少し離れた場所から、静かにその様子を見守っている。


「そんなに心配?」

「もちろん心配です」

「失敗しないわよ」

「以前、お鍋を焦がしてしまわれましたから」

「あれは昔の話」

「厨房が三日ほど甘い香りに包まれていました」

「忘れて」


 イルザが頬を膨らませると、アルベルトは困ったように笑った。


「忘れられそうにありません」

「もう」


 笑いながら木べらで鍋を混ぜる。その湯気を見つめているうちに、ふと祖母マルタの声が耳によみがえった。


『急ぐと苦くなるの』


 子どもの頃は早く飲みたくて、火を強くしては何度も叱られた。


 けれど今なら分かる。


 美味しいものは、焦ってはいけない。ゆっくり待つ時間も、大切な味になるのだと。


 イルザは火加減を確かめながら、静かに鍋を混ぜ続けた。最後に蜂蜜を落とすと、ふわりと立ちのぼった優しい甘い香りに、思わず笑みがこぼれる。


「できた」


 温めておいたカップへ丁寧に注ぎ、イルザはアルベルトへ差し出した。


「どう?」


 アルベルトは両手で受け取り、一口、ゆっくりと口に含んだ。そして静かに目を閉じる。


「……とても美味しいです」


 その一言に、イルザはほっと胸をなで下ろした。


「マルタ様のミルクティーを思い出します」

「よかった」

「ですが」


 アルベルトは穏やかに微笑む。


「同じ味ではありません」

「え?」

「これは、イルザのミルクティーです」


 その言葉に、イルザは目を丸くした。


「私のミルクティー?」

「ええ」


 アルベルトはもう一口飲み、優しく頷く。


「優しい味です」


 少し目を細めて、続けた。


「生姜が少し多いところも、イルザらしい」

「よく気付いたわね」

「長い付き合いですから」


 二人は顔を見合わせ、自然と笑い合った。


 祖母の味ではない。真似をした味でもない。


 これは、自分だけのミルクティー。


 そう言ってもらえたことが、胸の奥にじんわりと温かく広がっていく。その温もりは手の中のカップよりも優しく、いつまでも心に残るような気がした。



 ミルクティーを手に、二人は窓際の長椅子へ腰を下ろした。雨はまだ静かに降り続いている。紫陽花は雨粒をまとい、しっとりと咲いていた。


 イルザは何気なくアルベルトの肩へ寄りかかる。アルベルトは何も言わず、その身体を優しく受け止めた。


 それはもう、特別なことではない。夫婦になってから、自然とできるようになった距離だった。


「昔はね」


 イルザが小さく口を開く。


「雨の日があまり好きじゃなかったの」

「そうだったんですね」

「なんだか心まで曇る気がして」


 カップを包み込むように持ちながら、小さく笑う。


「でも、今は好き」


 アルベルトは穏やかに微笑んだ。


「理由を聞いてもいいですか?」


 イルザは少し照れたように笑う。


「帰る場所があるから」


 その一言に、アルベルトの瞳が静かに揺れた。


「外でどんなことがあっても、帰ってきたら、あなたがいるでしょう?」


 窓の外では雨が降り続き、二人の手元ではミルクティーの湯気が柔らかく揺れていた。


「この香りがして、『おかえり』って言えて。だから雨の日も好きになったの」


 アルベルトはそっとイルザの手に、自分の手を重ねる。


「私もです」


 静かな声だった。


「帰ってきたらあなたがいて、このミルクティーがある。それだけで十分幸せです」


 その言葉に、イルザは嬉しそうに笑う。


「じゃあ、これからも淹れる」

「これからも、ですか」

「ええ」

「雨の日も」

「雪の日も」

「紫陽花が咲く日も」

「ずっと」


 アルベルトは目を細めた。


「それなら、そのたびに帰ってきます」

「当たり前でしょう?」


 イルザはくすりと笑う。


「あなたの帰る場所は、ここなんだから」


 アルベルトは、その言葉を胸に大切にしまうように微笑んだ。


「ええ」


 そして、そっとイルザの額へ口づけを落とす。


「私の帰る場所は、あなたの隣です」


 その優しさに胸が甘くほどける。けれど、イルザはわずかに唇を尖らせた。


「……また、おでこ?」


 アルベルトは驚いたように目を瞬かせる。


「嫌でしたか」

「違うの」


 イルザは照れたように笑い、小さく首を横に振った。


「夫婦なんだから」


 ほんの少しだけ距離を縮める。


「今日は、ここがいい」


 そう言って、自分の唇へそっと指を添えた。


 アルベルトは息を呑む。いつも穏やかで、何事にも動じない彼が、珍しく言葉を失っていた。


「イルザ……」

「嫌?」

「……いいえ」


 困ったように笑ってから、小さく息をつく。


「嬉しすぎて、まだ心の準備ができていません」


 あまりにも彼らしい返事に、イルザは思わず吹き出した。


「真面目ね」

「直そうとは思っております」

「それも少しずつね」

「努力します」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑う。


 アルベルトはそっとイルザの頬へ手を添えた。


「……口づけしてもよろしいですか?」


 そのあまりにも真面目な問いかけに、イルザは思わず目を見開く。


「アルベルト」

「はい」

「私たち、夫婦でしょう?」

「はい」

「もう、許可はいらないわ」


 そう言ってから、イルザは少し照れたように笑った。


「でも、あなたがそうやって聞いてくれるところも好きよ」


 アルベルトの表情が、ふっとほどける。


「……では、失礼します」


 壊れ物に触れるような優しい手に、イルザは自然と目を閉じた。


 雨音だけが二人を包む。


 そっと唇が重なった。


 触れるだけの、優しい口づけ。


 唇が離れても、二人はしばらく見つめ合ったまま微笑んでいた。


「……雨の日も好き」

「どうしてですか」

「だって」


 イルザはアルベルトの肩へ、そっと頭を預ける。


「雨の日は、お家であなたを独り占めできるもの」


 一瞬だけアルベルトは目を丸くした。そして耳元まで赤くなりながら、小さく笑う。


「……その言葉は反則です」

「ふふ」


 二人の笑い声に重なるように、窓の外では雨が静かに降り続いていた。甘いミルクティーの香りが、二人の間を優しく満たしていく。


 雪の日にもらった一杯の温もりは、長い時間をかけて、二人が帰る場所になった。


 窓の外では、雨に濡れた紫陽花が静かに揺れていた。


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