番外編 雨の日のミルクティー
朝から静かな雨が降っていた。窓を伝う雨粒が庭の紫陽花を優しく濡らしている。青や紫の花は雨をまとい、いつもより色濃く見えた。
「雨ね」
イルザは窓辺へ歩み寄り、小さく微笑む。昔は雨の日があまり好きではなかった。どこか気持ちまで曇ってしまうような気がしていたからだ。
けれど今は違う。雨音さえも、どこか穏やかに感じられる。
「おはようございます、イルザ」
振り返ると、アルベルトが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「おはよう」
その笑顔を見るだけで、胸の奥まで温かくなる。結婚して数か月。それでも朝一番に「おはよう」と言い合えることが、イルザにはまだ少し照れくさくて、そして何より嬉しかった。
食堂には焼き立てのパンの香りが広がっていた。ふわふわのオムレツに温かなスープ、彩り豊かなサラダ。窓の外の雨とは対照的に、部屋の中は優しい温もりに満ちている。
「……また、一人で全部用意したの?」
イルザが苦笑すると、アルベルトはわずかに視線を逸らした。
「はい」
「私も手伝うって言ったでしょう?」
「でも、イルザにはゆっくりしていてほしくて」
「だからって、全部しなくてもいいじゃない」
「つい、癖で」
困ったように笑う姿に、イルザは肩をすくめる。
「本当に執事が抜けないわね」
「そのつもりなんですが、なかなか難しいですね」
「褒めてるの」
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
アルベルトの柔らかな笑顔につられて、イルザも自然と笑みを浮かべた。
朝食を終えたあと、イルザは厨房へ向かった。けれど洗い物はすでに終わり、花瓶の花も新しいものへ替えられていた。暖炉は整えられ、本棚には今日読もうと思っていた本まで用意されている。
「アルベルト」
「はい」
「私の出番がありません」
アルベルトは少し首をかしげた。
「それなら安心しました」
「何も安心できないわ!」
思わず声を上げると、アルベルトは本当に不思議そうな顔をする。
「イルザに無理はしてほしくありませんから」
「だからって、全部やったら、私があなたにしてあげられることがなくなるでしょう?」
以前のイルザなら、ここまでしてもらうことを素直に受け入れていたかもしれない。
けれど今は違う。一緒に暮らす毎日は、誰かに守られるだけではなく、自分も相手のために何かをしたいと思えるほど、かけがえのないものになっていた。
少し考えてから、イルザはぱっと顔を上げる。
「決めた」
「何でしょう」
「今日は私がミルクティーを淹れる」
アルベルトの表情が、ほんのわずかに固まった。
「私が淹れます」
「駄目」
「ですが」
「今日は、妻として淹れたいの」
きっぱりと言い切ると、アルベルトは小さく息をついた。
「……承知いたしました」
「ほら」
イルザはくすりと笑う。
「その『承知いたしました』が抜けないのよ」
「これは、もう一生抜けないかもしれません」
アルベルトも照れくさそうに笑った。
鍋へ茶葉を入れる。砕いたカルダモンを加え、薄く切った生姜をそっと落とす。牛乳を注いでゆっくり火にかけると、甘く優しい香りが厨房いっぱいに広がっていった。
アルベルトは少し離れた場所から、静かにその様子を見守っている。
「そんなに心配?」
「もちろん心配です」
「失敗しないわよ」
「以前、お鍋を焦がしてしまわれましたから」
「あれは昔の話」
「厨房が三日ほど甘い香りに包まれていました」
「忘れて」
イルザが頬を膨らませると、アルベルトは困ったように笑った。
「忘れられそうにありません」
「もう」
笑いながら木べらで鍋を混ぜる。その湯気を見つめているうちに、ふと祖母マルタの声が耳によみがえった。
『急ぐと苦くなるの』
子どもの頃は早く飲みたくて、火を強くしては何度も叱られた。
けれど今なら分かる。
美味しいものは、焦ってはいけない。ゆっくり待つ時間も、大切な味になるのだと。
イルザは火加減を確かめながら、静かに鍋を混ぜ続けた。最後に蜂蜜を落とすと、ふわりと立ちのぼった優しい甘い香りに、思わず笑みがこぼれる。
「できた」
温めておいたカップへ丁寧に注ぎ、イルザはアルベルトへ差し出した。
「どう?」
アルベルトは両手で受け取り、一口、ゆっくりと口に含んだ。そして静かに目を閉じる。
「……とても美味しいです」
その一言に、イルザはほっと胸をなで下ろした。
「マルタ様のミルクティーを思い出します」
「よかった」
「ですが」
アルベルトは穏やかに微笑む。
「同じ味ではありません」
「え?」
「これは、イルザのミルクティーです」
その言葉に、イルザは目を丸くした。
「私のミルクティー?」
「ええ」
アルベルトはもう一口飲み、優しく頷く。
「優しい味です」
少し目を細めて、続けた。
「生姜が少し多いところも、イルザらしい」
「よく気付いたわね」
「長い付き合いですから」
二人は顔を見合わせ、自然と笑い合った。
祖母の味ではない。真似をした味でもない。
これは、自分だけのミルクティー。
そう言ってもらえたことが、胸の奥にじんわりと温かく広がっていく。その温もりは手の中のカップよりも優しく、いつまでも心に残るような気がした。
◇
ミルクティーを手に、二人は窓際の長椅子へ腰を下ろした。雨はまだ静かに降り続いている。紫陽花は雨粒をまとい、しっとりと咲いていた。
イルザは何気なくアルベルトの肩へ寄りかかる。アルベルトは何も言わず、その身体を優しく受け止めた。
それはもう、特別なことではない。夫婦になってから、自然とできるようになった距離だった。
「昔はね」
イルザが小さく口を開く。
「雨の日があまり好きじゃなかったの」
「そうだったんですね」
「なんだか心まで曇る気がして」
カップを包み込むように持ちながら、小さく笑う。
「でも、今は好き」
アルベルトは穏やかに微笑んだ。
「理由を聞いてもいいですか?」
イルザは少し照れたように笑う。
「帰る場所があるから」
その一言に、アルベルトの瞳が静かに揺れた。
「外でどんなことがあっても、帰ってきたら、あなたがいるでしょう?」
窓の外では雨が降り続き、二人の手元ではミルクティーの湯気が柔らかく揺れていた。
「この香りがして、『おかえり』って言えて。だから雨の日も好きになったの」
アルベルトはそっとイルザの手に、自分の手を重ねる。
「私もです」
静かな声だった。
「帰ってきたらあなたがいて、このミルクティーがある。それだけで十分幸せです」
その言葉に、イルザは嬉しそうに笑う。
「じゃあ、これからも淹れる」
「これからも、ですか」
「ええ」
「雨の日も」
「雪の日も」
「紫陽花が咲く日も」
「ずっと」
アルベルトは目を細めた。
「それなら、そのたびに帰ってきます」
「当たり前でしょう?」
イルザはくすりと笑う。
「あなたの帰る場所は、ここなんだから」
アルベルトは、その言葉を胸に大切にしまうように微笑んだ。
「ええ」
そして、そっとイルザの額へ口づけを落とす。
「私の帰る場所は、あなたの隣です」
その優しさに胸が甘くほどける。けれど、イルザはわずかに唇を尖らせた。
「……また、おでこ?」
アルベルトは驚いたように目を瞬かせる。
「嫌でしたか」
「違うの」
イルザは照れたように笑い、小さく首を横に振った。
「夫婦なんだから」
ほんの少しだけ距離を縮める。
「今日は、ここがいい」
そう言って、自分の唇へそっと指を添えた。
アルベルトは息を呑む。いつも穏やかで、何事にも動じない彼が、珍しく言葉を失っていた。
「イルザ……」
「嫌?」
「……いいえ」
困ったように笑ってから、小さく息をつく。
「嬉しすぎて、まだ心の準備ができていません」
あまりにも彼らしい返事に、イルザは思わず吹き出した。
「真面目ね」
「直そうとは思っております」
「それも少しずつね」
「努力します」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
アルベルトはそっとイルザの頬へ手を添えた。
「……口づけしてもよろしいですか?」
そのあまりにも真面目な問いかけに、イルザは思わず目を見開く。
「アルベルト」
「はい」
「私たち、夫婦でしょう?」
「はい」
「もう、許可はいらないわ」
そう言ってから、イルザは少し照れたように笑った。
「でも、あなたがそうやって聞いてくれるところも好きよ」
アルベルトの表情が、ふっとほどける。
「……では、失礼します」
壊れ物に触れるような優しい手に、イルザは自然と目を閉じた。
雨音だけが二人を包む。
そっと唇が重なった。
触れるだけの、優しい口づけ。
唇が離れても、二人はしばらく見つめ合ったまま微笑んでいた。
「……雨の日も好き」
「どうしてですか」
「だって」
イルザはアルベルトの肩へ、そっと頭を預ける。
「雨の日は、お家であなたを独り占めできるもの」
一瞬だけアルベルトは目を丸くした。そして耳元まで赤くなりながら、小さく笑う。
「……その言葉は反則です」
「ふふ」
二人の笑い声に重なるように、窓の外では雨が静かに降り続いていた。甘いミルクティーの香りが、二人の間を優しく満たしていく。
雪の日にもらった一杯の温もりは、長い時間をかけて、二人が帰る場所になった。
窓の外では、雨に濡れた紫陽花が静かに揺れていた。
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