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婚約者を庇って死んだ私が、二度目の人生で恋をした相手は執事でした  作者: 黒猫と珈琲


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第六話

 父と母にアルベルトとのことを話した時、父はしばらく固まった。


 母は驚いたあと、どこか納得したように微笑む。


「そう」


「お母様、驚かないのですか」


「驚いているわ。でも、少しだけ分かっていた気もするの」


「分かっていた?」


「あなたが街から帰ってきた日。泣いたあとだったのに、とても穏やかな顔をしていたから」


 私は頬を赤くした。


 父は額に手を当て、大きく息を吐く。


「アルベルト」


「はい、旦那様」


 アルベルトは深く頭を下げていた。


 執事としてではない。


 一人の男として。


「君は、イルザを幸せにできるのか」


 父の声は厳しかった。


 アルベルトは静かに顔を上げる。


「幸せにすると、軽々しく申し上げることはできません」


「ですが、イルザ様がご自身で幸せを選ばれる時、その道を共に歩いていきたいと思っております」


 部屋が静まり返る。


 守るだけではない。


 導くだけでもない。


 隣に立ち、一緒に歩く。


 それがアルベルトの答えだった。


 父は長く息を吐く。


「……まったく」


「雪の日に拾った少年に、娘まで持っていかれるとは」


「お父様」


「まだ許したわけではない」


 そう言う父を見て、母がくすりと笑った。


「あなた、もう半分許している顔よ」


「黙っていなさい」


「はいはい」


 父は咳払いを一つする。


「アルベルト。しばらくは執事を離れ、私の補佐として働きなさい。身分のことも、周囲への説明も簡単ではない」


「承知しております」


「逃げるなら今だ」


 アルベルトは父をまっすぐ見つめた。


「逃げません」


 迷いのない声だった。


 父は少しだけ目を細める。


「ならば、立て」


 その一言に、祖父の声が重なった。


 ――転んだら立て。


 ――立ったら、お前の好きな方へ歩け。


 私は思わず笑ってしまった。



 季節は少しずつ巡っていった。


 婚約解消の噂は思っていたより早く別の話題へ塗り替えられ、ディートリヒ様は領地の仕事に専念していると聞いた。


 ある日、彼から短い手紙が届く。


『先日、旅の記録を読んだ。雨の地方の花の章が面白かった』


 それだけだった。


 私は返事に、小さな紫陽花の押し花を一枚添えた。


 もう戻ることはない。


 けれど、憎しみも残らなかった。


 それでよかった。


 アルベルトは父の補佐として忙しくなった。


 執事服ではなく、落ち着いた濃紺の上着を着る姿はどこか新鮮だった。


 でも夕方になると、必ず私の淹れたミルクティーを飲みに来る。


「今日の味はいかが?」


「昨日より香りが良いです」


「苦くない?」


「少し甘めです」


「あなたの好きな味でしょう?」


「はい」


 彼はそう言って微笑む。


 その笑顔を見るたび、私は少し誇らしくなった。


 最初の頃より、ミルクティーはずっと美味しくなった。


 でもアルベルトは、あの少し苦い最初の一杯を忘れない。


「もう忘れていいのよ」


「難しいかと」


「あなたは本当に、そればかり」


「大切な記憶ですので」


 そう言われると、私は何も言えなくなる。


 彼は私の失敗すら大切にしてくれる。


 私もいつか、彼の寂しさも不器用さも、同じように抱きしめられる人になりたいと思った。



 その日も、雨だった。


 朝から細い雨が降り続き、庭の紫陽花は今までで一番美しく咲いていた。


 淡い青。


 薄紫。


 ところどころに白。


 私は外套を羽織り、庭へ出た。


 昔なら、雨の日に外へ出るなんて令嬢らしくないと言われるのを恐れていた。


 今は、足元が濡れないように気を付けながら歩く。


 それだけでいい。


 紫陽花の前で立ち止まると、後ろから足音がした。


「イルザ様」


 アルベルトだった。


 手には傘。


「濡れてしまいます」


「少しだけよ」


「少しでも、風邪をひかれては困ります」


「心配性ね」


「はい」


 迷いなく認めるから、私は笑った。


 アルベルトが傘を差しかける。


 以前のように、私だけを濡らさない傘ではない。


 二人で入るための傘だった。


 肩が触れる。


 彼は少しだけ身を引こうとした。


 私はその手を取る。


「逃げない」


「……はい」


 彼の耳が少し赤い。


 それを見て、胸がくすぐったくなった。


 雨音の中、二人で紫陽花を眺める。


 私は幼い頃、この花を見ていた。


 前の人生の最後にも、この花を思い出した。


 そして今、その隣にはアルベルトがいる。


「ねえ、アルベルト」


「はい」


「雪の日、あなたはどこへ行こうとしていたの?」


 ずっと聞けなかったことだった。


 アルベルトは少し黙った。


 けれど今度は、逃げなかった。


「どこへも」


「どこへも?」


「行く場所がありませんでした」


 静かな声だった。


 雨音に溶けそうなほど小さな声。


「だから、あの日いただいたミルクティーの味を、ずっと覚えていたのだと思います」


 私は彼の手を握る力を少しだけ強めた。


 アルベルトの指が、ゆっくりと握り返してくる。


「イルザ様」


「なに?」


「私は、あの日からずっと帰る場所をいただいていたのかもしれません」


 胸が熱くなった。


 私は彼を見上げる。


 雨を映した琥珀色の瞳は、どこまでも優しかった。


「じゃあ、これからは」


 声が少し震えた。


 でも、ちゃんと言いたかった。


「これからは、私があなたの帰る場所になる」


 アルベルトの瞳が大きく揺れる。


 何かを言おうとして。


 けれど言葉にならなくて。


 傘を持つ手はそのままに、


 もう片方の手で、私の手をそっと握り返した。


 その温もりだけで、


 彼の気持ちは十分すぎるほど伝わってきた。


「……イルザ様」


「泣いているの?」


「雨です」


「それ、前にあなたが言った言葉よ」


「では、少しくらい濡れても分かりませんね」


 泣きそうで、嬉しそうな笑顔だった。


 私はその笑顔を見て、心から思う。


 この人となら、雨の日も悪くない。


 悲しい雨ではなく。


 全部を洗い流し、また歩き出すための雨。


「帰りましょう」


「はい」


 互いの歩幅を合わせ、私たちはゆっくりと屋敷へ向かった。


 紫陽花の横を通り過ぎる時、花びらから雫がぽつりと落ちた。


 まるで、小さな拍手のようだった。


玄関の扉が開く。


 使用人たちが一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ」


 遠くの厨房からは焼き菓子の甘い香りが漂い、父の書斎では紙をめくる音が聞こえる。廊下には母が飾った季節の花が揺れていた。


 何一つ変わらない。


 それなのに、胸の奥がふっとほどける。


 ここは、私が帰ってきてもいい場所。


 私が私のままで、息をしていい場所。


 私は濡れた外套を脱ぎ、アルベルトへ差し出した。


 彼は反射的に受け取ろうとして、途中で手を止める。


 もう執事ではない。


 それでも長年の癖は、そう簡単には抜けないのだろう。


 私は笑った。


「今日だけお願い」


「……かしこまりました」


「明日からは?」


「努力いたします」


 私はくすりと笑う。


「急がなくていいわ」


 アルベルトが少し首を傾げた。


「急ぐと苦くなるもの」


 一瞬きょとんとしたあと、彼も小さく笑う。


「はい」


 その笑顔を見ながら、私は屋敷の中へ一歩踏み出した。


 ふと振り返る。


 アルベルトがそこにいた。


 琥珀色の瞳で、まっすぐ私を見つめている。


 私は小さく息を吸った。


「ただいま」


 アルベルトは、ゆっくりと微笑む。


 もう執事の礼ではない。


 一人の男として。


 大切な人として。


「お帰りなさい」


 その一言だけで十分だった。


 胸の奥に、あの日から探していた場所が静かに満ちていく。


 私はそっと彼の手を握る。


 アルベルトも、静かに握り返してくれた。


 もう、どこにもいない私ではない。


 私はここにいる。


 この手の温もりと。


 ミルクティーの香りと。


 雨に濡れた紫陽花の咲く場所に。


 帰ってきたのだ。


【完】


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