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婚約者を庇って死んだ私が、二度目の人生で恋をした相手は執事でした  作者: 黒猫と珈琲


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第五話

 告白は、雨の日だった。


 初夏の雨。


 庭の紫陽花が満開になった頃。


 私は回廊から庭を眺めていた。雨粒が紫陽花の花びらを濡らし、淡い青を少しだけ深い色へ変えていく。


 隣にはアルベルトがいた。


 以前のように少し離れた場所ではなく、私のすぐ隣に。


 婚約を解消してから、少しずつ距離は縮まっていた。


 けれど、越えられない一歩だけが残っている。


 主と執事。


 侯爵令嬢と使用人。


 恩人の娘と、恩を返す者。


 アルベルトは、その境界線の前で必ず立ち止まる。


 私が一歩近づけば、彼は半歩下がる。


 優しい逃げ方だった。


 だから少しだけ、悔しかった。


「アルベルト」


「はい」


「あなた、私から逃げているでしょう」


 彼は何も答えない。


 その沈黙が答えだった。


「お嬢様」


「逃げているわよね」


「……私は、お嬢様のお傍におります」


「それは答えになっていないわ」


 雨音だけが静かに響く。


 アルベルトは目を伏せた。


「私は執事です」


「知っているわ」


「お嬢様に仕える者です」


「それも知っている」


「ですから――」


「ですから?」


 私は彼をまっすぐ見つめた。


「あなた自身の気持ちは、どこへ行くの?」


 アルベルトの呼吸が、わずかに乱れた。


 完璧な執事の仮面に、小さなひびが入る。


 私は、そのひびから目を逸らしたくなかった。


「私、あなたに聞きたいことがあるの」


「……何でしょうか」


「あなたが私のそばにいるのは、恩返しだから?」


 答えは返ってこない。


「それとも、執事だから?」


 雨が回廊の屋根を叩く。


 紫陽花が静かに揺れる。


 私は一歩だけ近づいた。


「それだけ?」


 アルベルトがゆっくり顔を上げる。


 琥珀色の瞳が苦しそうに揺れていた。


「お嬢様」


 低く掠れた声だった。


「これ以上は、お尋ねにならないでください」


「嫌よ」


「イルザ様」


 その瞬間、時間が止まった。


 初めてだった。


 彼が私を名前で呼んだのは。


 胸が大きく鳴る。


 アルベルト自身も気付いたのだろう。


 目を見開き、慌てて頭を下げようとする。


 私はそっと、その袖を掴んだ。


「今、呼んだわ」


「申し訳ございません」


「謝らないで」


 私は小さく首を振る。


「もう一度、呼んで」


 アルベルトは苦しそうに目を閉じた。


「……できません」


「どうして?」


「一度呼べば、戻れなくなります」


 その声は震えていた。


 私は初めて知った。


 アルベルトにも、こんなに揺れる瞬間があるのだと。


「私は執事失格です」


 彼は静かに言う。


「お嬢様をお守りする立場でありながら、何度も願いました」


「何を?」


「お嬢様が、私を見てくださればいいと」


 息が止まる。


「婚約者ではなく。


 家でもなく。


 誰かの理想でもなく」


 一度だけ目を閉じ、静かに続けた。


「ただ、私の前で笑ってくださればいいと」


 雨が降っている。


 前の人生で、私が命を落とした雨。


 けれど今は違う。


 すべてを洗い流し、新しい一歩を踏み出させてくれる雨だった。


「恩返しのつもりでした」


 アルベルトの声は静かだった。


「ですが、いつからか違っておりました」


 彼はまっすぐ私を見る。


 もう、目を逸らさない。


「雪の日に助けていただいたあの日から、私はずっと、お嬢様だけを見てまいりました」


 静かな声なのに、その一言一言が胸へ深く落ちてくる。


「恩返しだと思っていたのです」


「そう思えば、この気持ちに名前を付けずに済みました」


 一度だけ目を閉じる。


「ですが、もう誤魔化せません」


 彼は小さく笑った。


 諦めたような、覚悟を決めたような笑みだった。


「私は――」


 雨音が二人を包む。


「イルザ様に恋をしております」


 胸の奥で、何かがほどけた。


 ずっと聞きたかった言葉。


 それ以上に。


 彼が初めて、自分自身の気持ちを口にしてくれたことが嬉しかった。


「私は」


 アルベルトは続ける。


「あなたを縛りたいとは思いません。


 困らせたいとも思いません。


 だから、この想いは私の中だけで終わらせるつもりでした」


「勝手に終わらせないで」


 私の声も震えていた。


「私の気持ちを聞く前に、一人で終わらせないで」


 アルベルトが息を呑む。


 私は掴んでいた袖を離し、今度はそっと彼の手を握った。


 冷たいと思っていたその手は、少しだけ震えていた。


 私は優しく微笑む。


「私は、あなたのそばにいると息ができるの」


 飾った言葉ではない。


 今の私の、本当の気持ちだった。


「あなたが覚えていてくれたものを、私も取り戻していきたい」


 一つずつ、言葉を重ねる。


「あなたが好きな味を知りたい」


「あなたが好きな景色も」


「あなたが悲しい時は、一番に気付ける人になりたい」


 アルベルトの手が、小さく震えた。


「イルザ様……」


「前の私は」


 私は少し笑う。


「誰かに愛されるために、自分を変え続けていた」


 雨音が静かに響く。


 紫陽花が風に揺れ、雫が花びらからこぼれ落ちる。


「でも今は違うの」


 私はもう一歩だけ近づいた。


「あなたの前では、私は私でいられる」


 胸の奥が温かくなる。


 涙が滲んでいるのに、不思議と笑えていた。


「アルベルト」


 彼の瞳をまっすぐ見つめる。


「私は、あなたと笑って生きていきたい」


 一呼吸置く。


 そして、素直な気持ちを口にした。


「あなたが好き」


「あなたに恋をしたの」


 雨音だけが二人を包む。


 アルベルトは何も言わなかった。


 ただ、私を見つめている。


 喉が一度だけ動く。


 何かを伝えようとして。


 何度も言葉を探して。


 それでも見つからなくて。


「……イルザ様」


 ようやく零れたのは、私の名前だった。


 いつも先回りして。


 何でも受け止めて。


 私を安心させてくれた人が。


 今はただ、私の手をぎゅっと握り返すことしかできない。


 その不器用さが、どうしようもなく愛おしかった。


「ありがとう」


 私は小さく笑う。


「でも、いつか"様"もなくしてほしい」


 アルベルトが目を見開く。


「……それは」


「少しずつでいいの」


 私は微笑む。


「少しずつ、慣れていきましょう」


 アルベルトは目を閉じ、小さく息を吐いた。


「はい」


 その返事は、どこか安堵したようだった。


 彼は私の手をそっと持ち上げる。


 触れそうになった唇が止まる。


 最後の一線を、自分で越えないようにするかのように。


「してもいいわ」


 思わず口にすると、アルベルトは困ったように笑った。


「これ以上は、理性が保てなくなります」


「手に口づけするだけでしょう?」


 彼はゆっくり首を横に振る。


「違います」


「?」


「口づけだけでは、終われる自信がございません」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 意味を理解した途端、頬が熱くなる。


「アルベルト……!」


 彼も照れたように視線を逸らした。


「イルザ様の前では、私はあまり余裕がございません」


 その正直な言葉に、私は吹き出した。


「完璧な執事ではなかったの?」


「失格でございます」


「それなら安心したわ」


 私が笑うと、アルベルトも穏やかに微笑む。


「私も、完璧な令嬢ではないもの」


 その言葉に、彼は静かに頷いた。


 そして今度こそ、私の手の甲へ、そっと口づけを落とす。


 羽が触れたような、優しい口づけだった。


 胸の奥まで温かさが広がっていく。


 雨はまだ降っている。


 けれど、それはもう悲しみの雨ではなかった。


 紫陽花を潤し、新しい季節を運んでくる雨。


 私は空を見上げ、小さく笑う。


「雨の日も、悪くないわね」


 アルベルトも同じ空を見上げる。


「はい」


 その声は、どこまでも穏やかだった。


 私は雨に濡れる紫陽花を見つめる。


 あの日。


 最後に見た雨は、私からすべてを奪っていった。


 けれど今日の雨は違う。


 私に、大切なものを返してくれた。


 雨音は静かに続いていた。


 けれど今の私には、その音さえ優しく聞こえた。


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