第四話
婚約解消の話し合いは、その数日後に行われた。
アイゼンフェルト公爵家の別邸。庭には紫陽花が咲き、雨上がりだったのか花びらには小さな雫が残っている。
私は父と母と共に訪れた。
ディートリヒ様は、いつも通り整った姿で待っていた。けれど、その顔は少しだけ疲れて見えた。
「イルザ嬢」
「ディートリヒ様」
礼をする。
前の人生で何度も繰り返した所作。
けれど今日は少し違った。
私は彼に見られるためではなく、自分の意思で背筋を伸ばしていた。
大人たちの話し合いは静かに進んだ。
表向きは、両家の方針の違い。イルザが公爵家に嫁ぐには体調面に不安があること。双方合意の上での婚約解消。
きっと社交界では噂になる。
けれど、思ったほど怖くはなかった。
話し合いが終わると、ディートリヒ様が庭で少し話したいと言った。
父は一瞬迷ったが、私が頷くと許してくれた。
アルベルトは少し離れた場所で控えている。
手を伸ばしても届かない。
けれど、振り返れば必ず見える距離だった。
◇
「イルザ嬢」
紫陽花の咲く小道で、ディートリヒ様は足を止めた。
「私は、君を苦しめていたのだろうか」
正直な問いだった。
私は紫陽花を見つめる。
淡い青と紫が、雨上がりの光を含んでいた。
「ディートリヒ様が悪いことをなさったとは思っていません」
「君は、いつもそう言うね」
彼は苦笑した。
「私を責めない」
「責めたいわけではないのです」
「では、私は何を間違えたのだろう」
その声は静かだった。
けれど、そこにはいつもの正しさだけではない迷いがあった。
初めて見る彼だった。
「私は、あなたの理想に近づこうとしました」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「歴史書を読むことも、落ち着いたドレスを選ぶことも、立派なことだと思います。必要なことでもあったのでしょう」
「……ああ」
「でも私は、旅の本も好きでした。雨の日の紫陽花も好きでした。甘いミルクティーも好きでした」
ディートリヒ様の瞳が揺れる。
「私は、そのことをあなたに伝えられませんでした」
責めるつもりはなかった。
ただ、それが事実だった。
「嫌われたくなかったから」
「失望されたくなかったから」
「だから私たちは、きっとうまくいかなかったのです」
風が吹き、紫陽花の葉から雫が落ちた。
ディートリヒ様は長い間、黙っていた。
やがて小さく笑う。
その笑みは、どこか寂しかった。
「私は……君が努力している姿ばかり見ていた」
ぽつりと零れた言葉だった。
「勉強をしている君も、礼儀を身につけようとする君も、全部見ていたつもりだった」
彼はゆっくり首を振る。
「だが、それは違った」
私は静かに彼を見つめる。
「私は、公爵家の未来ばかり見ていた」
その声には、自嘲が滲んでいた。
「領地のことも、責務も、理想の公爵夫人も」
「前ばかり見て歩いていた」
一度だけ目を閉じ、静かに続ける。
「君が努力するほど、私は安心してしまっていた。努力できるのだから、大丈夫なのだと」
彼は苦く笑った。
「本当に見なければならなかったのは、その笑顔の向こうだった」
雨粒が葉から落ちる音だけが聞こえた。
「君が何を見て、何を好きで、何を大切にしていたのか……私は、一度も見ようとしていなかった」
胸が少しだけ痛んだ。
私は責める言葉を持たなかった。
責めても、もう何も変わらないから。
「……ありがとう」
静かな声だった。
「君が教えてくれた」
私はゆっくり頷く。
「私も、ディートリヒ様を大切に思っていました」
彼は少し目を見開き、穏やかに微笑んだ。
「……それで十分だ」
彼は小さく目を閉じた。
その顔には怒りも未練もない。
ただ、一人の人をようやく理解できた人の、静かな後悔だけが残っていた。
「君は、これからどうするのだろう」
「まだ分かりません」
私は少し笑う。
「でも、まずは私が好きなものを、もう一度ちゃんと見つけます」
「そうか」
「はい」
ディートリヒ様は紫陽花へ視線を向けた。
「綺麗だね」
私は驚いて彼を見た。
彼は花を見つめたまま、小さく笑う。
「君は、ずっとこの花を見ていたんだね」
私は黙って頷いた。
「私は、一度も立ち止まらなかった」
風が吹き、紫陽花が静かに揺れる。
「君が隣にいたのに」
その一言が、胸に静かに響いた。
雨上がりの庭。
紫陽花。
柔らかな風。
それを二人で見たのは、たぶん初めてだった。
でも、もう遅かった。
遅かったからこそ、穏やかに別れられる気がした。
「イルザ嬢」
「はい」
「君が、君らしくいられる場所を見つけられるよう願っている」
私は微笑んだ。
「ディートリヒ様も、どうかお幸せに」
二人は静かに礼を交わした。
それが、私たちの最後だった。
振り返ると、アルベルトがいた。
いつも通り静かに控えている。
私と目が合った瞬間、その琥珀色の瞳がほんの少し柔らかくなった。
私はその目を見て、ようやく息ができた気がした。
◇
婚約解消の知らせは、当然のように社交界を騒がせた。
けれど父が表に立ち、母が私のそばにいてくれた。
祖父母からは大きな箱が届く。
中には祖母の焼き菓子と茶葉。
そして、祖父の短い手紙が入っていた。
『転んだなら立て。立ったら、お前の好きな方へ歩け』
思わず笑みがこぼれる。
祖父らしい、飾らない言葉だった。
祖母の手紙は、少しだけ長かった。
『ミルクティーはね、茶葉を急がせてはいけません。
あなたも同じです。
焦らず、あなたの味を思い出していきなさい』
私は手紙を胸に抱きしめた。
笑っているのに、涙が滲む。
あの日。
最後に思い出した祖父母の家へ、私は少しずつ帰ってきているのだと感じた。
◇
その日の夕方、私は珍しく厨房へ足を運んだ。
使用人たちが一斉に振り返る。
「お、お嬢様?」
「ミルクティーを淹れたいの」
料理長が目を丸くした。
「お嬢様が、でございますか」
「そうよ」
「火傷をなさいます」
「気を付けるわ」
「茶葉の量は」
「ええい、そこはいちから教えてちょうだい」
一瞬、厨房が静まり返る。
そして次の瞬間、小さな笑い声が広がった。
私は少しだけ頬を染める。
最近、昔の口癖がよく出る。
以前なら恥ずかしくて隠していただろう。
でも今は、それも私なのだと思えた。
料理長に教わりながら湯を沸かし、茶葉を入れて香りを待つ。温めたミルクを注ぎ、ゆっくりとかき混ぜる。
祖母の言葉を思い出した。
――急ぐと苦くなるの。
そう思ったのに。
私は少しだけ焦ってしまった。
火が強かったのか。
茶葉を長く煮出しすぎたのか。
出来上がったミルクティーは少し色が濃い。
香りは悪くない。
でも、きっと少し苦い。
「……おのれ」
思わず呟いた、その時だった。
「お嬢様」
厨房の入口にアルベルトが立っていた。
「見ないで」
「すでに拝見しております」
「では忘れて」
「難しいかと」
私は諦めてカップを持ち上げる。
「アルベルト」
「はい」
「飲んでくれる?」
彼は少しだけ目を見開いた。
いつも冷静な人が、一瞬だけ言葉を失う。
「私が、でございますか」
「ええ」
私は小さく笑った。
「あなたに飲んでほしいの」
厨房の空気が、そっと変わる。
料理長たちは気を利かせて、静かにその場を離れていった。
アルベルトは私の前まで歩み寄り、差し出したカップを両手で大切そうに受け取る。
その指先が、ほんの少しだけ私の指に触れた。
胸が小さく高鳴った。
アルベルトは静かに一口飲む。
私は息を詰めて見つめた。
彼は目を閉じ、小さく微笑む。
「……懐かしい味がいたします」
その一言に、私の胸も温かくなる。
雪の日。
祖母の台所。
湯気の向こうの笑顔。
あの日の思い出が、二人の間に静かによみがえった。
アルベルトはゆっくり飲み込み、少しだけ目を細める。
「……とても美味しいです」
「嘘」
「嘘ではございません」
「苦いでしょう?」
アルベルトは少し困ったように笑う。
「……否定はいたしかねます」
「やっぱり」
「ですが」
彼はカップを包むように持ち直した。
「私にとっては、今まで飲んだどのミルクティーよりも美味しいです」
私は言葉を失った。
そんなふうに言われたら、何も返せない。
胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
私は小さく笑った。
「次は、もっと美味しく淹れるわ」
「楽しみにしております」
「今度は、ちゃんと甘めにする」
アルベルトも穏やかに笑う。
「お嬢様のお好きな味で」
私はゆっくり首を横に振った。
「違うわ」
彼が不思議そうに私を見る。
「今度は、あなたの好きな味も教えて」
アルベルトは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、ふっと目を伏せる。
「……それは」
珍しく言葉に詰まる。
「難しい?」
私が首を傾げると、彼は静かに笑った。
「お嬢様に、好きなものを尋ねていただいたのは初めてでございますので」
私は息を呑んだ。
そうだった。
私は彼のことを知っているつもりで、何も知らなかった。
「じゃあ、少しずつ教えて」
アルベルトは私を見つめる。
その琥珀色の瞳が、今までにないほど柔らかく細められた。
「……はい」
その返事は、とても優しくて。
どこか、嬉しそうだった。




