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婚約者を庇って死んだ私が、二度目の人生で恋をした相手は執事でした  作者: 黒猫と珈琲


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第四話

 婚約解消の話し合いは、その数日後に行われた。


 アイゼンフェルト公爵家の別邸。庭には紫陽花が咲き、雨上がりだったのか花びらには小さな雫が残っている。


 私は父と母と共に訪れた。


 ディートリヒ様は、いつも通り整った姿で待っていた。けれど、その顔は少しだけ疲れて見えた。


「イルザ嬢」


「ディートリヒ様」


 礼をする。


 前の人生で何度も繰り返した所作。


 けれど今日は少し違った。


 私は彼に見られるためではなく、自分の意思で背筋を伸ばしていた。


 大人たちの話し合いは静かに進んだ。


 表向きは、両家の方針の違い。イルザが公爵家に嫁ぐには体調面に不安があること。双方合意の上での婚約解消。


 きっと社交界では噂になる。


 けれど、思ったほど怖くはなかった。


 話し合いが終わると、ディートリヒ様が庭で少し話したいと言った。


 父は一瞬迷ったが、私が頷くと許してくれた。


 アルベルトは少し離れた場所で控えている。


 手を伸ばしても届かない。


 けれど、振り返れば必ず見える距離だった。



「イルザ嬢」


 紫陽花の咲く小道で、ディートリヒ様は足を止めた。


「私は、君を苦しめていたのだろうか」


 正直な問いだった。


 私は紫陽花を見つめる。


 淡い青と紫が、雨上がりの光を含んでいた。


「ディートリヒ様が悪いことをなさったとは思っていません」


「君は、いつもそう言うね」


 彼は苦笑した。


「私を責めない」


「責めたいわけではないのです」


「では、私は何を間違えたのだろう」


 その声は静かだった。


 けれど、そこにはいつもの正しさだけではない迷いがあった。


 初めて見る彼だった。


「私は、あなたの理想に近づこうとしました」


 ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「歴史書を読むことも、落ち着いたドレスを選ぶことも、立派なことだと思います。必要なことでもあったのでしょう」


「……ああ」


「でも私は、旅の本も好きでした。雨の日の紫陽花も好きでした。甘いミルクティーも好きでした」


 ディートリヒ様の瞳が揺れる。


「私は、そのことをあなたに伝えられませんでした」


 責めるつもりはなかった。


 ただ、それが事実だった。


「嫌われたくなかったから」


「失望されたくなかったから」


「だから私たちは、きっとうまくいかなかったのです」


 風が吹き、紫陽花の葉から雫が落ちた。


 ディートリヒ様は長い間、黙っていた。


 やがて小さく笑う。


 その笑みは、どこか寂しかった。


「私は……君が努力している姿ばかり見ていた」


 ぽつりと零れた言葉だった。


「勉強をしている君も、礼儀を身につけようとする君も、全部見ていたつもりだった」


 彼はゆっくり首を振る。


「だが、それは違った」


 私は静かに彼を見つめる。


「私は、公爵家の未来ばかり見ていた」


 その声には、自嘲が滲んでいた。


「領地のことも、責務も、理想の公爵夫人も」


「前ばかり見て歩いていた」


 一度だけ目を閉じ、静かに続ける。


「君が努力するほど、私は安心してしまっていた。努力できるのだから、大丈夫なのだと」


 彼は苦く笑った。


「本当に見なければならなかったのは、その笑顔の向こうだった」


 雨粒が葉から落ちる音だけが聞こえた。


「君が何を見て、何を好きで、何を大切にしていたのか……私は、一度も見ようとしていなかった」


 胸が少しだけ痛んだ。


 私は責める言葉を持たなかった。


 責めても、もう何も変わらないから。


「……ありがとう」


 静かな声だった。


「君が教えてくれた」


 私はゆっくり頷く。


「私も、ディートリヒ様を大切に思っていました」


 彼は少し目を見開き、穏やかに微笑んだ。


「……それで十分だ」


 彼は小さく目を閉じた。


 その顔には怒りも未練もない。


 ただ、一人の人をようやく理解できた人の、静かな後悔だけが残っていた。


「君は、これからどうするのだろう」


「まだ分かりません」


 私は少し笑う。


「でも、まずは私が好きなものを、もう一度ちゃんと見つけます」


「そうか」


「はい」


 ディートリヒ様は紫陽花へ視線を向けた。


「綺麗だね」


 私は驚いて彼を見た。


 彼は花を見つめたまま、小さく笑う。


「君は、ずっとこの花を見ていたんだね」


 私は黙って頷いた。


「私は、一度も立ち止まらなかった」


 風が吹き、紫陽花が静かに揺れる。


「君が隣にいたのに」


 その一言が、胸に静かに響いた。


 雨上がりの庭。


 紫陽花。


 柔らかな風。


 それを二人で見たのは、たぶん初めてだった。


 でも、もう遅かった。


 遅かったからこそ、穏やかに別れられる気がした。


「イルザ嬢」


「はい」


「君が、君らしくいられる場所を見つけられるよう願っている」


 私は微笑んだ。


「ディートリヒ様も、どうかお幸せに」


 二人は静かに礼を交わした。


 それが、私たちの最後だった。


 振り返ると、アルベルトがいた。


 いつも通り静かに控えている。


 私と目が合った瞬間、その琥珀色の瞳がほんの少し柔らかくなった。


 私はその目を見て、ようやく息ができた気がした。



 婚約解消の知らせは、当然のように社交界を騒がせた。


 けれど父が表に立ち、母が私のそばにいてくれた。


 祖父母からは大きな箱が届く。


 中には祖母の焼き菓子と茶葉。


 そして、祖父の短い手紙が入っていた。


『転んだなら立て。立ったら、お前の好きな方へ歩け』


 思わず笑みがこぼれる。


 祖父らしい、飾らない言葉だった。


 祖母の手紙は、少しだけ長かった。


『ミルクティーはね、茶葉を急がせてはいけません。


 あなたも同じです。


 焦らず、あなたの味を思い出していきなさい』


 私は手紙を胸に抱きしめた。


 笑っているのに、涙が滲む。


 あの日。


 最後に思い出した祖父母の家へ、私は少しずつ帰ってきているのだと感じた。



 その日の夕方、私は珍しく厨房へ足を運んだ。


 使用人たちが一斉に振り返る。


「お、お嬢様?」


「ミルクティーを淹れたいの」


 料理長が目を丸くした。


「お嬢様が、でございますか」


「そうよ」


「火傷をなさいます」


「気を付けるわ」


「茶葉の量は」


「ええい、そこはいちから教えてちょうだい」


 一瞬、厨房が静まり返る。


 そして次の瞬間、小さな笑い声が広がった。


 私は少しだけ頬を染める。


 最近、昔の口癖がよく出る。


 以前なら恥ずかしくて隠していただろう。


 でも今は、それも私なのだと思えた。


 料理長に教わりながら湯を沸かし、茶葉を入れて香りを待つ。温めたミルクを注ぎ、ゆっくりとかき混ぜる。


 祖母の言葉を思い出した。


 ――急ぐと苦くなるの。


 そう思ったのに。


 私は少しだけ焦ってしまった。


 火が強かったのか。


 茶葉を長く煮出しすぎたのか。


 出来上がったミルクティーは少し色が濃い。


 香りは悪くない。


 でも、きっと少し苦い。


「……おのれ」


 思わず呟いた、その時だった。


「お嬢様」


 厨房の入口にアルベルトが立っていた。


「見ないで」


「すでに拝見しております」


「では忘れて」


「難しいかと」


 私は諦めてカップを持ち上げる。


「アルベルト」


「はい」


「飲んでくれる?」


 彼は少しだけ目を見開いた。


 いつも冷静な人が、一瞬だけ言葉を失う。


「私が、でございますか」


「ええ」


 私は小さく笑った。


「あなたに飲んでほしいの」


 厨房の空気が、そっと変わる。


 料理長たちは気を利かせて、静かにその場を離れていった。


 アルベルトは私の前まで歩み寄り、差し出したカップを両手で大切そうに受け取る。


 その指先が、ほんの少しだけ私の指に触れた。


 胸が小さく高鳴った。


 アルベルトは静かに一口飲む。


 私は息を詰めて見つめた。


 彼は目を閉じ、小さく微笑む。


「……懐かしい味がいたします」


 その一言に、私の胸も温かくなる。


 雪の日。


 祖母の台所。


 湯気の向こうの笑顔。


 あの日の思い出が、二人の間に静かによみがえった。


 アルベルトはゆっくり飲み込み、少しだけ目を細める。


「……とても美味しいです」


「嘘」


「嘘ではございません」


「苦いでしょう?」


 アルベルトは少し困ったように笑う。


「……否定はいたしかねます」


「やっぱり」


「ですが」


 彼はカップを包むように持ち直した。


「私にとっては、今まで飲んだどのミルクティーよりも美味しいです」


 私は言葉を失った。


 そんなふうに言われたら、何も返せない。


 胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。


 私は小さく笑った。


「次は、もっと美味しく淹れるわ」


「楽しみにしております」


「今度は、ちゃんと甘めにする」


 アルベルトも穏やかに笑う。


「お嬢様のお好きな味で」


 私はゆっくり首を横に振った。


「違うわ」


 彼が不思議そうに私を見る。


「今度は、あなたの好きな味も教えて」


 アルベルトは少し驚いたように目を瞬かせた。


 それから、ふっと目を伏せる。


「……それは」


 珍しく言葉に詰まる。


「難しい?」


 私が首を傾げると、彼は静かに笑った。


「お嬢様に、好きなものを尋ねていただいたのは初めてでございますので」


 私は息を呑んだ。


 そうだった。


 私は彼のことを知っているつもりで、何も知らなかった。


「じゃあ、少しずつ教えて」


 アルベルトは私を見つめる。


 その琥珀色の瞳が、今までにないほど柔らかく細められた。


「……はい」


 その返事は、とても優しくて。


 どこか、嬉しそうだった。


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