第三話
その夜、私は夢を見た。
雪の日の夢だった。
祖父母の家で暮らしていた頃。私は七歳で、まだ王都の礼儀も侯爵令嬢としての立ち居振る舞いも、ほとんど知らなかった。
知っていたのは木の登り方、川の浅い場所、祖父に見つからず台所の焼き菓子を一つ多くもらう方法。それから、雪の日に外へ出ると祖母に叱られること。
「イルザ、今日は外へ出ては駄目よ」
祖母はそう言った。
けれど私は、雪の庭を見てじっとしていられなかった。白い世界。足跡ひとつない庭。それを見たら、飛び出したくなるに決まっている。
私はこっそり外套を羽織り、裏口から庭へ出た。雪は思ったより深かった。足を取られて転び、手袋が真っ白になる。
「ええい、おのれ雪め!」
誰も聞いていないと思って叫んだ。
その時だった。
庭の奥、薪小屋の近くに黒いものが見えた。最初は倒れた枝かと思った。でも違った。
人だった。
少年が、雪の上に倒れていた。
私は息を呑む。
「お祖父様! お祖母様!」
叫びながら駆け寄る。少年の髪は黒く、唇は青ざめていた。私よりずっと年上に見えたが、大人ではない。目を閉じたまま、ほとんど動かない。
「起きて! ねえ、起きて!」
私は必死で彼の肩を揺らした。祖母に叱られることも、雪で足が濡れていることも忘れていた。
少年のまつ毛には雪が積もっている。その雪を払おうと手を伸ばした時、彼の目がわずかに開いた。
琥珀色。
雪の中で、その瞳だけがあたたかく見えた。
「……誰」
少年がかすかに呟く。
私は胸を張った。
「イルザよ!」
「……イルザ」
「そうよ。だから寝ては駄目。寝たらお祖父様に怒られるわ」
何を言っているのか、自分でも分からなかった。けれど少年は、ほんの少しだけ笑った気がした。
そこへ祖父が駆けてくる。
「イルザ!」
「お祖父様、子どもが倒れているの!」
「見れば分かる!」
祖父は少年を抱き上げた。祖母も毛布を抱えて走ってくる。
「まあ、なんて冷たい手……急いで中へ」
そのあと、少年は数日眠った。私は何度も部屋を覗きに行った。祖母に止められても、扉の隙間からこっそり。
やがて目を覚ました少年に、私はミルクティーを持っていった。祖母が淹れてくれたものだ。
「ミルクティーだよ。飲める?」
少年は弱々しく頷いた。カップを受け取る手が震えていたから、私は両手で支えた。
「急ぐと苦くなるのよ」
祖母の真似をして言うと、少年は驚いたように私を見た。それから小さく笑う。
「……甘い」
「甘めにしたの。私が好きだから」
「君が?」
「そう。私が好きなものは、だいたい美味しいわ」
少年は声を立てずに笑った。それが嬉しくて、私は何度もミルクティーを運んだ。
名前を聞いたのは、少し後のことだった。
「あなた、名前は?」
「……アルベルト」
「アルベルトね。覚えたわ」
その時、彼は少しだけ目を見開いた。
「……覚えて、くれるの?」
「もちろん。私は記憶力がいいもの」
自信満々に言ったくせに。
私は、忘れていた。
◇
目を覚ました時、窓の外はまだ薄暗かった。胸が強く鳴っている。私は寝台の上で両手を握りしめた。
あの子。
雪の日に助けた少年。
黒髪。琥珀色の瞳。ミルクティー。
「……アルベルト」
私はいても立ってもいられず、寝台から降りた。羽織を肩にかけ、部屋を出る。廊下は静かだった。まだ使用人たちも動き始める前の時間。
けれど階段の下、玄関広間には灯りがともっていた。
アルベルトがいる。
すでに身支度を整え、今日の予定を確認していた。彼は私に気付くと、すぐに歩み寄る。
「お嬢様。このような時間にどうなさいました。お体が冷えます」
「アルベルト」
「はい」
「あなたなの?」
唐突な問いだった。けれど彼の表情がわずかに変わる。完璧な執事の顔が、一瞬だけ揺れた。
「雪の日に、祖父母の家で倒れていた子」
私は彼をまっすぐ見つめる。
「あの子……あなたなの?」
アルベルトはしばらく黙っていた。廊下の灯りが、彼の琥珀色の瞳を静かに照らしている。
やがて彼は、深く頭を下げた。
「はい」
胸の奥が熱くなった。
「どうして言ってくれなかったの」
「お嬢様は、覚えていらっしゃらないご様子でしたので」
「だからって」
「それに」
アルベルトは少しだけ言葉を切る。
「私にとっては、十分でした」
「十分?」
「命を救っていただきました。名前を呼んでいただきました。温かいミルクティーをいただきました」
声は静かだった。けれど、その静けさの奥には長い年月が積み重なっていた。
「それだけで、私には十分すぎるほどでした」
私は何も言えなかった。
忘れていた私。
覚えていてくれた彼。
申し訳ないのに、胸が苦しいほど温かい。
「……あなたは、恩返しのために執事になったの?」
「最初は」
「最初は?」
アルベルトの指が、手元の書類をわずかに握る。それ以上は言わなかった。
言えないのだと分かった。
私は一歩近づく。
「アルベルト」
「お嬢様、どうかお部屋へお戻りください。冷えます」
「また先回り」
「これは当然の配慮でございます」
「違うわ」
私は首を横に振った。
「あなたはいつも、私が困らないように先に道を作ってくれる。でも、あなた自身のことは隠してしまうのね」
アルベルトの瞳が揺れる。
「私のことなど」
「『など』ではないわ」
思わず声が強くなった。
「ええい、私の前で自分を雑に扱わないで」
言ってから、私ははっとした。けれどアルベルトは、ほんの少しだけ笑う。懐かしむような、泣きそうな笑みだった。
「そのお言葉を聞くと、私は雪の日を思い出します」
「私も思い出したわ」
「……光栄です」
「光栄ではなくて、嬉しいと言いなさい」
アルベルトは困ったように目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「嬉しいです」
その声が、あまりにも優しくて。
私はまた泣きそうになった。
本日20時に、残り3話を公開予定です。
完結まで一気にお読みいただけますので、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




