第二話
翌朝、私は両親の前に座っていた。
父はローゼンハイム侯爵として厳格な人だ。けれど家族の前では、いつも少し不器用なほど優しい。母は穏やかで、あまり強く言わない。私が王都の令嬢として苦労していたことも、きっと気付いていた。
それでも、私が何も言わなかったから。
黙って見守ってくれていたのだ。
「お父様。お母様」
私は膝の上で手を握った。
「ディートリヒ様との婚約を、解消したいのです」
母が息を呑む。父の眉が、わずかに動いた。
「理由を聞いてもいいか」
「はい」
怖かった。それでも、逃げたくはなかった。
「ディートリヒ様は悪い方ではありません。私に乱暴なことをされたわけでも、侮辱されたわけでもありません」
父は何も言わず、静かに耳を傾けている。
「でも私は、あの方の隣に立つために、少しずつ自分を変えてきました」
姿勢。言葉遣い。読む本。選ぶドレス。笑い方。歩き方。好きなもの。苦手なもの。
「最初は努力のつもりでした」
一度、言葉を区切る。
「でも、いつの間にか分からなくなってしまったのです」
私は小さく息を吸った。
「何が好きで、何が嫌いなのか。どれが本当の私なのか」
母の目が揺れる。
「私は……死ぬまで、そのことに気付きませんでした」
言葉がこぼれた瞬間、私ははっとした。両親が驚いた顔で私を見る。当然だった。死に戻りのことを話すつもりはない。
「……それほどまでに、という意味です」
私はゆっくり息を吸う。
「私は、自分を好きになれなくなっていました」
部屋が静まり返った。窓の外で、小鳥が鳴く。
父は長い沈黙のあと、低い声で私を呼んだ。
「イルザ」
「はい」
「お前は、私たちに心配をかけまいとしていたのか」
その問いに、胸が痛くなる。
「……分かりません」
私は正直に答えた。
「ただ、ちゃんとしなければと思っていました。お父様とお母様に恥をかかせないように。ディートリヒ様に失望されないように」
母がそっと口元を押さえた。
「イルザ」
父が立ち上がり、私の前まで歩いてくる。そして、侯爵である父が、娘の前に膝をついた。
驚いて見つめる私の手を、父は静かに包む。
「お前が木に登っていた頃、私は何度も心臓が止まりそうになった」
父は苦笑した。懐かしい日々を思い返すように。
「……申し訳ありません」
「だが、あの頃のお前はよく笑っていた」
大きな手は、昔と変わらず温かい。
「私たちは、お前に立派な令嬢になってほしかった」
一拍置いて、父は静かに続ける。
「……でも、それはお前を失うことじゃなかった」
母も私の隣へ座り、そっと背中を撫でてくれる。子どもの頃と同じ、優しい手つきだった。
「もっと早く気付いてあげればよかったわ」
「お母様のせいではありません」
「いいえ」
母はゆっくり首を振る。
「あなたが上手に笑うから、安心してしまったの」
涙がまた滲んだ。私はこんなにも、見てほしかったのだろうか。何も言わずに分かってほしいなんて、甘えていたのだろうか。
それでも父も母も、私を責めなかった。ただ、手を握ってくれていた。
「婚約解消は簡単ではない」
父が静かに言う。
「だが、不可能でもない。私からアイゼンフェルト公爵家へ話をしよう」
「よろしいのですか」
「お前が死ぬほど苦しい思いをする婚約なら、続ける意味はない」
私は目を伏せた。本当に一度死にました、とは言えない。けれど父の言葉は、冷え切っていた胸へ少しずつ染み込んでいった。
母が穏やかに微笑む。
「今日はもう、ゆっくりなさい」
「でも……」
「イルザ」
母の声が少しだけ強くなる。
「頑張ることばかり考えなくていいの。今日は肩の力を抜いて過ごしなさい」
私は小さく頷いた。
そのとき、扉の向こうから控えめな声がした。
「失礼いたします」
アルベルトだった。
「お嬢様。お支度が整いました」
「支度?」
思わず瞬きをする。アルベルトは何事もないように一礼した。
「本日は、街へお連れするよう奥様より仰せつかっております」
母を見ると、少し悪戯っぽく笑っている。
「部屋で泣いてばかりいるより、外の空気を吸っていらっしゃい」
「お母様……」
「雨が降りそうだから、傘を忘れずにね」
雨。
胸が少しだけ強張る。
するとアルベルトが静かに口を開いた。
「ご安心ください」
一呼吸置いて、穏やかに微笑む。
「お嬢様を濡らすようなことはいたしません」
その一言が、なぜかとても頼もしかった。
◇
王都の街は、曇り空の下でも賑やかだった。石畳の道を馬車が行き交い、店先には色とりどりの布や菓子が並んでいる。
私は久しぶりに、婚約者のためでも、家の用事でもなく街へ出た。隣にはアルベルトがいる。いつものように少し後ろではなく、今日は半歩横を歩いていた。
それだけで、景色が少し違って見える。
「アルベルト」
「はい」
「あなた、いつの間にお母様と話をしていたの?」
「お嬢様が旦那様と奥様にお話しされている間です」
「手際が良すぎるわ」
「執事でございますので」
涼しい顔で返され、私は少しだけ頬を膨らませた。
「昔からそうよね。あなたは何でも先回りするの」
「お嬢様は昔から、先回りしないと池に落ちたり木から落ちたりなさいましたので」
「ええい、余計なことを覚えているわね」
言った瞬間、私は固まった。
ええい。
昔の癖だった。
アルベルトが目を瞬かせる。そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「懐かしいお言葉です」
「忘れてちょうだい」
「難しいかと」
「なぜ?」
「私にとっては、大切な記憶ですので」
胸が、小さく鳴った。
大切な記憶。
そんなふうに言われるとは思わなかった。私は前を向いたまま、そっと指先を握る。
そのときだった。
ぽつり、と頬に雨粒が落ちた。
「あ……」
次の瞬間、アルベルトが傘を開く。黒い傘が静かに私たちを包み、雨音が布の上で柔らかく弾けた。
「早いわ」
「雨雲が近づいておりましたので」
「本当に何でも先回りね」
「お嫌でしたか」
その問いに、私はすぐ答えられなかった。
嫌ではない。
むしろ、安心する。
でも、それを口にすると何かが変わってしまいそうで、私は雨に煙る街並みを見つめた。
傘の中は思っていたより狭い。アルベルトの肩が近い。黒髪から、かすかに石鹸の香りがした。
「……嫌ではないわ」
「それなら、ようございました」
穏やかな声だった。けれど、傘の柄を握る彼の指に少しだけ力が入ったことを、私は見逃さなかった。
雨脚が少し強くなる。人々が軒下へ駆け込む中、アルベルトは私を一軒の喫茶店へ案内した。
古い木の扉。窓辺には鉢植えの紫陽花。雨に濡れた花びらが、やわらかな光をまとっていた。
「ここは……」
「奥様から、雨の日に良い店だと伺いました」
「お母様が?」
「はい」
扉を開けると、小さな鈴が澄んだ音を立てる。店内は外とは別世界のように温かかった。焼き菓子の甘い香り。紅茶のやさしい香り。
窓際の席へ案内され、私は雨に煙る街を眺めた。
雨は嫌いではなかった。祖父母の家では、雨の日は外で遊べない代わりに、祖母が台所でお菓子を焼いてくれた。
紫陽花を眺めながら、甘いミルクティーを飲む。ただ、それだけの時間。
でも私は、その時間が大好きだった。
「ご注文は」
店員に尋ねられ、私は少し迷った。すると、アルベルトが静かに口を開く。
「ミルクティーを二つ。ひとつは少し甘めで」
私は思わず彼を見た。
「どうして?」
「お嬢様は、昔から甘めがお好きでした」
「……覚えていたの?」
「はい」
あまりにも当然のように返されて、胸が詰まった。
ディートリヒ様は、私に必要な本を教えてくれた。アルベルトは、私が好きだった味を覚えていてくれた。
どちらが正しいとか。どちらが優れているとか。そんな話ではないのだと思う。
ただ――。
私は今、どうしようもなく泣きたくなった。
やがて運ばれてきたミルクティーは、淡い琥珀色をしていた。カップを両手で包む。湯気が頬を優しく撫でる。
そっと口をつける。
甘くて、あたたかい。
やさしい温もりが、冷え切っていた胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。
違う。
お祖母様の味とは少し違う。
それでも胸の奥に、小さな灯がともるようだった。
「……お祖母様の味を、忘れていたの」
ぽつりと呟く。
アルベルトは何も言わなかった。ただ、私の前へ砂糖壺をそっと寄せる。
「急ぐと、苦くなるの」
祖母の言葉を口にした瞬間、涙がこぼれた。カップに落ちないよう、慌てて顔を背ける。
「ごめんなさい」
「謝ることではございません」
「でも、外で泣くなんて」
「雨の日です」
アルベルトの声は、驚くほど穏やかだった。
「少しくらい濡れても、誰にも分かりません」
その一言で、胸の奥に押し込めていたものがほどけた。
私は声を殺して泣いた。
婚約者を庇って死んだこと。もう一度人生をやり直していること。自分がどこにもいなかったこと。父と母が手を握ってくれたこと。ミルクティーの味を、まだ思い出せたこと。
全部が胸の中で混ざり合い、涙になってあふれた。
アルベルトは黙ってハンカチを差し出す。白いハンカチだった。端には、小さな紫陽花の刺繍。
「これ……」
「昔、お嬢様が刺繍の練習でくださったものです」
「そんな昔のものを、まだ持っていたの?」
「はい」
「下手だったでしょう」
「少々、不揃いではございました」
「そこは否定しなさい」
一瞬の間。
それからアルベルトは、少しだけ目元を和らげた。
「ですが、とても嬉しかったので」
思わず、泣きながら笑ってしまった。
窓の外では、雨が静かに街を洗っている。石畳も、店先の看板も、紫陽花の葉も。すべてが濡れて、少しだけ新しく見えた。
アルベルトは、自分のミルクティーには手をつけず、ずっと私のそばにいてくれた。その沈黙は苦しくなかった。
むしろ、とてもあたたかかった。
私はハンカチを握り、小さく息を吐く。
「アルベルト」
「はい」
「私、婚約を解消するわ」
「はい」
「怖いわ」
「はい」
「でも、もう戻りたくないの」
アルベルトはほんの少し目を伏せた。そして、静かに言う。
「お嬢様が進まれる道なら、私はお傍におります」
胸の奥が、また静かに震えた。
雨音。ミルクティーの香り。紫陽花の刺繍。そして、傍にいると言ってくれる声。
私はもう一度、カップを持ち上げる。
甘くて、少しだけ苦い。
けれど今の私には、その味が愛おしかった。冷める前に飲み干したいと思った。
窓の外の雨は、まだしばらく止みそうにない。
それでも私は、もうその雨が怖くなかった。
雨の向こうには、ちゃんと私を覚えていてくれる人がいたから。
◇
雨は、夕方には上がっていた。
喫茶店を出ると、王都の石畳は濡れて光っている。雲の切れ間から淡い夕陽が差し、店先の紫陽花の葉に残った雫が、小さな宝石のように瞬いていた。
私は傘を畳むアルベルトの横顔を見上げる。黒髪が少しだけ湿っていた。私を濡らさないようにしてくれた分、彼の肩は雨を受けていた。
「アルベルト」
「はい」
「あなた、少し濡れているわ」
「問題ございません」
「問題あるわ。風邪をひいたらどうするの」
「お嬢様にご心配いただけるのでしたら、少し役得かもしれません」
いつも通りの穏やかな声。
けれど、その言葉に私は瞬きをした。アルベルトも、口にしてから気付いたように視線を伏せる。
「……失礼いたしました」
「別に、失礼ではないけれど」
胸が小さく鳴る。さっきまで泣いていたせいか心の奥が柔らかくなっていて、普段なら聞き流していた言葉が、今日は妙に近くへ落ちてきた。
「帰りましょうか」
「ええ」
馬車へ向かう途中、私は店の窓辺に置かれた紫陽花を振り返る。雨に濡れた花は、来た時よりもずっと綺麗に見えた。
それが少し嬉しかった。
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