表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者を庇って死んだ私が、二度目の人生で恋をした相手は執事でした  作者: 黒猫と珈琲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/7

第二話

 翌朝、私は両親の前に座っていた。


 父はローゼンハイム侯爵として厳格な人だ。けれど家族の前では、いつも少し不器用なほど優しい。母は穏やかで、あまり強く言わない。私が王都の令嬢として苦労していたことも、きっと気付いていた。


 それでも、私が何も言わなかったから。


 黙って見守ってくれていたのだ。


「お父様。お母様」


 私は膝の上で手を握った。


「ディートリヒ様との婚約を、解消したいのです」


 母が息を呑む。父の眉が、わずかに動いた。


「理由を聞いてもいいか」


「はい」


 怖かった。それでも、逃げたくはなかった。


「ディートリヒ様は悪い方ではありません。私に乱暴なことをされたわけでも、侮辱されたわけでもありません」


 父は何も言わず、静かに耳を傾けている。


「でも私は、あの方の隣に立つために、少しずつ自分を変えてきました」


 姿勢。言葉遣い。読む本。選ぶドレス。笑い方。歩き方。好きなもの。苦手なもの。


「最初は努力のつもりでした」


 一度、言葉を区切る。


「でも、いつの間にか分からなくなってしまったのです」


 私は小さく息を吸った。


「何が好きで、何が嫌いなのか。どれが本当の私なのか」


 母の目が揺れる。


「私は……死ぬまで、そのことに気付きませんでした」


 言葉がこぼれた瞬間、私ははっとした。両親が驚いた顔で私を見る。当然だった。死に戻りのことを話すつもりはない。


「……それほどまでに、という意味です」


 私はゆっくり息を吸う。


「私は、自分を好きになれなくなっていました」


 部屋が静まり返った。窓の外で、小鳥が鳴く。


 父は長い沈黙のあと、低い声で私を呼んだ。


「イルザ」


「はい」


「お前は、私たちに心配をかけまいとしていたのか」


 その問いに、胸が痛くなる。


「……分かりません」


 私は正直に答えた。


「ただ、ちゃんとしなければと思っていました。お父様とお母様に恥をかかせないように。ディートリヒ様に失望されないように」


 母がそっと口元を押さえた。


「イルザ」


 父が立ち上がり、私の前まで歩いてくる。そして、侯爵である父が、娘の前に膝をついた。


 驚いて見つめる私の手を、父は静かに包む。


「お前が木に登っていた頃、私は何度も心臓が止まりそうになった」


 父は苦笑した。懐かしい日々を思い返すように。


「……申し訳ありません」


「だが、あの頃のお前はよく笑っていた」


 大きな手は、昔と変わらず温かい。


「私たちは、お前に立派な令嬢になってほしかった」


 一拍置いて、父は静かに続ける。


「……でも、それはお前を失うことじゃなかった」


 母も私の隣へ座り、そっと背中を撫でてくれる。子どもの頃と同じ、優しい手つきだった。


「もっと早く気付いてあげればよかったわ」


「お母様のせいではありません」


「いいえ」


 母はゆっくり首を振る。


「あなたが上手に笑うから、安心してしまったの」


 涙がまた滲んだ。私はこんなにも、見てほしかったのだろうか。何も言わずに分かってほしいなんて、甘えていたのだろうか。


 それでも父も母も、私を責めなかった。ただ、手を握ってくれていた。


「婚約解消は簡単ではない」


 父が静かに言う。


「だが、不可能でもない。私からアイゼンフェルト公爵家へ話をしよう」


「よろしいのですか」


「お前が死ぬほど苦しい思いをする婚約なら、続ける意味はない」


 私は目を伏せた。本当に一度死にました、とは言えない。けれど父の言葉は、冷え切っていた胸へ少しずつ染み込んでいった。


 母が穏やかに微笑む。


「今日はもう、ゆっくりなさい」


「でも……」


「イルザ」


 母の声が少しだけ強くなる。


「頑張ることばかり考えなくていいの。今日は肩の力を抜いて過ごしなさい」


 私は小さく頷いた。


 そのとき、扉の向こうから控えめな声がした。


「失礼いたします」


 アルベルトだった。


「お嬢様。お支度が整いました」


「支度?」


 思わず瞬きをする。アルベルトは何事もないように一礼した。


「本日は、街へお連れするよう奥様より仰せつかっております」


 母を見ると、少し悪戯っぽく笑っている。


「部屋で泣いてばかりいるより、外の空気を吸っていらっしゃい」


「お母様……」


「雨が降りそうだから、傘を忘れずにね」


 雨。


 胸が少しだけ強張る。


 するとアルベルトが静かに口を開いた。


「ご安心ください」


 一呼吸置いて、穏やかに微笑む。


「お嬢様を濡らすようなことはいたしません」


 その一言が、なぜかとても頼もしかった。



 王都の街は、曇り空の下でも賑やかだった。石畳の道を馬車が行き交い、店先には色とりどりの布や菓子が並んでいる。


 私は久しぶりに、婚約者のためでも、家の用事でもなく街へ出た。隣にはアルベルトがいる。いつものように少し後ろではなく、今日は半歩横を歩いていた。


 それだけで、景色が少し違って見える。


「アルベルト」


「はい」


「あなた、いつの間にお母様と話をしていたの?」


「お嬢様が旦那様と奥様にお話しされている間です」


「手際が良すぎるわ」


「執事でございますので」


 涼しい顔で返され、私は少しだけ頬を膨らませた。


「昔からそうよね。あなたは何でも先回りするの」


「お嬢様は昔から、先回りしないと池に落ちたり木から落ちたりなさいましたので」


「ええい、余計なことを覚えているわね」


 言った瞬間、私は固まった。


 ええい。


 昔の癖だった。


 アルベルトが目を瞬かせる。そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「懐かしいお言葉です」


「忘れてちょうだい」


「難しいかと」


「なぜ?」


「私にとっては、大切な記憶ですので」


 胸が、小さく鳴った。


 大切な記憶。


 そんなふうに言われるとは思わなかった。私は前を向いたまま、そっと指先を握る。


 そのときだった。


 ぽつり、と頬に雨粒が落ちた。


「あ……」


 次の瞬間、アルベルトが傘を開く。黒い傘が静かに私たちを包み、雨音が布の上で柔らかく弾けた。


「早いわ」


「雨雲が近づいておりましたので」


「本当に何でも先回りね」


「お嫌でしたか」


 その問いに、私はすぐ答えられなかった。


 嫌ではない。


 むしろ、安心する。


 でも、それを口にすると何かが変わってしまいそうで、私は雨に煙る街並みを見つめた。


 傘の中は思っていたより狭い。アルベルトの肩が近い。黒髪から、かすかに石鹸の香りがした。


「……嫌ではないわ」


「それなら、ようございました」


 穏やかな声だった。けれど、傘の柄を握る彼の指に少しだけ力が入ったことを、私は見逃さなかった。


 雨脚が少し強くなる。人々が軒下へ駆け込む中、アルベルトは私を一軒の喫茶店へ案内した。


 古い木の扉。窓辺には鉢植えの紫陽花。雨に濡れた花びらが、やわらかな光をまとっていた。


「ここは……」


「奥様から、雨の日に良い店だと伺いました」


「お母様が?」


「はい」


 扉を開けると、小さな鈴が澄んだ音を立てる。店内は外とは別世界のように温かかった。焼き菓子の甘い香り。紅茶のやさしい香り。


 窓際の席へ案内され、私は雨に煙る街を眺めた。


 雨は嫌いではなかった。祖父母の家では、雨の日は外で遊べない代わりに、祖母が台所でお菓子を焼いてくれた。


 紫陽花を眺めながら、甘いミルクティーを飲む。ただ、それだけの時間。


 でも私は、その時間が大好きだった。


「ご注文は」


 店員に尋ねられ、私は少し迷った。すると、アルベルトが静かに口を開く。


「ミルクティーを二つ。ひとつは少し甘めで」


 私は思わず彼を見た。


「どうして?」


「お嬢様は、昔から甘めがお好きでした」


「……覚えていたの?」


「はい」


 あまりにも当然のように返されて、胸が詰まった。


 ディートリヒ様は、私に必要な本を教えてくれた。アルベルトは、私が好きだった味を覚えていてくれた。


 どちらが正しいとか。どちらが優れているとか。そんな話ではないのだと思う。


 ただ――。


 私は今、どうしようもなく泣きたくなった。


 やがて運ばれてきたミルクティーは、淡い琥珀色をしていた。カップを両手で包む。湯気が頬を優しく撫でる。


 そっと口をつける。


 甘くて、あたたかい。


 やさしい温もりが、冷え切っていた胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。


 違う。


 お祖母様の味とは少し違う。


 それでも胸の奥に、小さな灯がともるようだった。


「……お祖母様の味を、忘れていたの」


 ぽつりと呟く。


 アルベルトは何も言わなかった。ただ、私の前へ砂糖壺をそっと寄せる。


「急ぐと、苦くなるの」


 祖母の言葉を口にした瞬間、涙がこぼれた。カップに落ちないよう、慌てて顔を背ける。


「ごめんなさい」


「謝ることではございません」


「でも、外で泣くなんて」


「雨の日です」


 アルベルトの声は、驚くほど穏やかだった。


「少しくらい濡れても、誰にも分かりません」


 その一言で、胸の奥に押し込めていたものがほどけた。


 私は声を殺して泣いた。


 婚約者を庇って死んだこと。もう一度人生をやり直していること。自分がどこにもいなかったこと。父と母が手を握ってくれたこと。ミルクティーの味を、まだ思い出せたこと。


 全部が胸の中で混ざり合い、涙になってあふれた。


 アルベルトは黙ってハンカチを差し出す。白いハンカチだった。端には、小さな紫陽花の刺繍。


「これ……」


「昔、お嬢様が刺繍の練習でくださったものです」


「そんな昔のものを、まだ持っていたの?」


「はい」


「下手だったでしょう」


「少々、不揃いではございました」


「そこは否定しなさい」


 一瞬の間。


 それからアルベルトは、少しだけ目元を和らげた。


「ですが、とても嬉しかったので」


 思わず、泣きながら笑ってしまった。


 窓の外では、雨が静かに街を洗っている。石畳も、店先の看板も、紫陽花の葉も。すべてが濡れて、少しだけ新しく見えた。


 アルベルトは、自分のミルクティーには手をつけず、ずっと私のそばにいてくれた。その沈黙は苦しくなかった。


 むしろ、とてもあたたかかった。


 私はハンカチを握り、小さく息を吐く。


「アルベルト」


「はい」


「私、婚約を解消するわ」


「はい」


「怖いわ」


「はい」


「でも、もう戻りたくないの」


 アルベルトはほんの少し目を伏せた。そして、静かに言う。


「お嬢様が進まれる道なら、私はお傍におります」


 胸の奥が、また静かに震えた。


 雨音。ミルクティーの香り。紫陽花の刺繍。そして、傍にいると言ってくれる声。


 私はもう一度、カップを持ち上げる。


 甘くて、少しだけ苦い。


 けれど今の私には、その味が愛おしかった。冷める前に飲み干したいと思った。


 窓の外の雨は、まだしばらく止みそうにない。


 それでも私は、もうその雨が怖くなかった。


 雨の向こうには、ちゃんと私を覚えていてくれる人がいたから。



 雨は、夕方には上がっていた。


 喫茶店を出ると、王都の石畳は濡れて光っている。雲の切れ間から淡い夕陽が差し、店先の紫陽花の葉に残った雫が、小さな宝石のように瞬いていた。


 私は傘を畳むアルベルトの横顔を見上げる。黒髪が少しだけ湿っていた。私を濡らさないようにしてくれた分、彼の肩は雨を受けていた。


「アルベルト」


「はい」


「あなた、少し濡れているわ」


「問題ございません」


「問題あるわ。風邪をひいたらどうするの」


「お嬢様にご心配いただけるのでしたら、少し役得かもしれません」


 いつも通りの穏やかな声。


 けれど、その言葉に私は瞬きをした。アルベルトも、口にしてから気付いたように視線を伏せる。


「……失礼いたしました」


「別に、失礼ではないけれど」


 胸が小さく鳴る。さっきまで泣いていたせいか心の奥が柔らかくなっていて、普段なら聞き流していた言葉が、今日は妙に近くへ落ちてきた。


「帰りましょうか」


「ええ」


 馬車へ向かう途中、私は店の窓辺に置かれた紫陽花を振り返る。雨に濡れた花は、来た時よりもずっと綺麗に見えた。


 それが少し嬉しかった。


面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ