第一話
雨が降っていた。冷たい雨だった。馬車道の石畳を叩く音が、妙にはっきりと耳に残っている。
「イルザ!」
誰かが私の名を呼んだ。ディートリヒ様の声だった。いつも落ち着いていて、正しくて、取り乱すことなどない人。その声が、今はひどく揺れていた。
私は倒れていた。体が動かない。胸の奥が熱いのに、指先は氷のように冷たい。雨が頬を濡らしているのか、それとも涙なのかも分からなかった。
「なぜ……なぜ、私を庇った」
ディートリヒ様が私の手を握っている。その手は、震えていた。
ああ。
この人も、こんなふうに震えるのだ。
そんなことを、私は最後の最後で知った。
「だって……」
声が掠れる。本当はもっと立派なことを言うべきだったのかもしれない。あなたは未来の公爵だから。国に必要な人だから。婚約者だから。私はずっと、そんな言葉を選んできた。
けれど、もう何も飾れなかった。
「体が……勝手に」
ディートリヒ様の瞳が、大きく揺れた。深い青の瞳。そうだ。彼の瞳は、深い青だった。水色の瞳は私のもの。それすら一瞬、うまく思い出せなくなっていた。
雨の匂いがする。濡れた土と石畳の匂い。遠くでは誰かが叫んでいた。その声も、少しずつ遠ざかっていく。
最後に思い浮かんだのは、王都の屋敷ではなく、母方の祖父母の家だった。庭先に咲く紫陽花。雨上がりの葉で光る水滴。木登りをして服を破り、祖父に笑われた日。
「転んだら立て!」
大きな声。
祖母が淹れてくれた、甘いミルクティー。
「急ぐと苦くなるの」
柔らかな声。湯気の向こうで微笑む祖母の顔。あたたかい手。ただいまと言えば、「お帰りなさい」と笑って迎えてくれる人がいた。
私は、帰りたかったのだろうか。
どこへ。
誰のところへ。
分からないまま、視界が白く滲んだ。
雨音だけが、最後まで残っていた。
◇
目を開けると、天井が見えた。白い天井。見慣れた自室の天井だった。
「……え?」
思わず声が漏れる。喉は痛くない。胸も痛くない。指先を動かすと、きちんと動いた。
私は起き上がった。寝台の横には淡い青のカーテン。窓の外には、雨ではなく薄い朝の光。机の上には、昨日置いたままの花瓶。紫陽花ではなく、白い薔薇。
心臓がどくどくと音を立てる。私は寝台から降り、鏡の前へ駆け寄った。
映っていたのは、十八歳の私だった。赤銅色の長い髪。水色の瞳。まだ少し幼さの残る顔。けれど、私が最後に見た私よりも、ずっと明るい。
頬に触れる。
温かい。
生きている。
「お嬢様」
扉の向こうから声がした。低く穏やかな声。私は息を呑んだ。
「お目覚めでしょうか」
アルベルト。
私の専属執事。十年近く、ずっと傍にいてくれた人。死の間際には思い出せなかったのに、その声を聞いた瞬間、胸の奥が強く震えた。
「……入って」
声が少し震えた。
扉が静かに開く。黒髪に琥珀色の瞳。いつも通り整った服装で、アルベルトが一礼した。
「おはようございます、お嬢様」
その姿を見た瞬間、なぜか泣きそうになった。もう二度と会えないと思っていた。それなのに今、彼は私の前にいる。
「お嬢様?」
アルベルトがわずかに眉を動かす。私は慌てて首を横に振った。
「なんでもないわ」
「お顔の色が優れません。昨夜、あまりお休みになれなかったのでは」
「少し……変な夢を見ただけ」
「夢、でございますか」
アルベルトはそれ以上尋ねなかった。ただ、私の前に温かい紅茶を置く。白磁のカップから、ふわりと香りが立った。
ミルクティーではない。けれど湯気を見ているだけで、胸の奥が少し緩んだ。
「今日は、ディートリヒ様とのお茶会がございます」
その名を聞いた瞬間、手が止まった。カップが小さく鳴る。アルベルトの視線が、私の指先へ落ちた。
「お嬢様」
「……今日?」
「はい。婚約が正式に整ってから、初めてのお茶会でございます」
婚約が正式に整ってから。
私は息を止めた。
戻っている。
死ぬ前ではない。ずっと前。まだ、何も失っていない頃へ。
いや。
本当に何も失っていなかったのだろうか。
私はカップを両手で包んだ。温かいはずなのに、指先は冷えたままだった。
◇
ディートリヒ・フォン・アイゼンフェルト様は、美しい人だった。公爵家嫡男にふさわしい立ち居振る舞い。背筋はまっすぐで、言葉は正確。視線は穏やかで、声を荒らげることもない。
悪い人ではない。
それは、今でも分かっている。
「イルザ嬢」
庭園の東屋で、彼は静かに微笑んだ。
「体調は良さそうだね」
「はい。お気遣いありがとうございます」
私は微笑み返す。口角を上げる角度。声の高さ。手を膝の上で揃える位置。全部、覚えている。
婚約者にふさわしい侯爵令嬢。明るすぎず、騒がしすぎず、賢く、控えめで、美しく。かつての私は、それになろうとしていた。
「今日は本を持ってきたのです」
私は用意していた本を差し出した。旅の記録だった。南の海辺の町や山間の村、雨の多い地方の植物について書かれている。前の人生でも、私はこの本を勧めた。
ディートリヒ様は受け取ると、表紙へ視線を落とした。
「旅の本か」
「はい。異国の暮らしがとても面白くて。特に、この雨の地方に咲く花が――」
「イルザ嬢」
穏やかな声だった。責める響きはない。ただ、正しいことを教えようとしてくれているだけだ。だからこそ、昔の私は反論できなかった。
「君は、もう少し歴史書を読むべきだと思う」
「歴史書、ですか」
「公爵家に嫁ぐなら、領地の成り立ちや王国史を深く知っておいた方がいい。君ならもっと立派な本を読めると思う」
正しい。
とても正しい言葉だった。
だから前の私は、恥ずかしくなった。こんな本を面白いと思う自分が、幼くて足りない気がした。
けれど今の私は、表紙に描かれた紫陽花に似た花を見つめていた。
綺麗だと思った。
ただ、それだけのことだった。
「そうですね」
私は微笑む。
「勉強します」
ディートリヒ様は満足そうに頷いた。
「君は素直だね」
そのとき、使用人がお茶菓子を運んできた。白い皿の上には、小さな焼き菓子が並んでいる。淡い青や薄紫の砂糖細工が飾られ、紫陽花を思わせる可愛らしい菓子だった。
「まあ……綺麗ですね」
思わず声が漏れる。
ディートリヒ様は菓子へ視線を向けた。
「季節感があって良いね」
そう言って一つ口に運ぶ。ゆっくり味わったあと、静かに言った。
「だが、少々甘いな」
「……そうですね」
私も一つ手に取る。本当は、このくらい甘いお菓子が好きだった。祖母が雨の日によく焼いてくれた焼き菓子も、これくらい甘かった。
けれど私は、その言葉を飲み込む。ただ微笑み、お茶を口にした。
その言葉は褒め言葉のはずだった。それなのに、胸の奥には小さな棘だけが残る。
素直。
それは、本当に私のことだったのだろうか。
それとも、彼の望む形に収まる私のことだったのだろうか。
東屋の外で風が吹く。庭の端に咲く紫陽花が揺れている。淡い青。薄紫。雨の日なら、きっともっと美しく見えただろう。
なのに今の私には、少し遠く見えた。
屋敷へ戻る馬車の中、私は窓の外を眺めていた。庭園で見た紫陽花が、まだ頭から離れない。
「お疲れではございませんか」
向かいに座るアルベルトが静かに尋ねた。
「少しだけ疲れたわ」
そう答えると、彼はそれ以上は聞かなかった。沈黙が流れる。けれど、不思議と気まずくはない。
馬車が揺れた拍子に、私の膝の上の本が少し滑った。アルベルトがそっと押さえてくれる。
「ありがとうございます」
「お嬢様は、旅のお話になると目を輝かせていらっしゃいます」
思わず顔を上げた。
「覚えていたの?」
「もちろんでございます」
穏やかな声だった。
「幼い頃、お祖父様のお屋敷で地図を広げては、『いつか全部行くのだ』と仰っていました」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
「そんなこと、言っていたかしら」
「はい。雨の多い町へ行って、紫陽花を見たいとも」
私は窓の外へ目を向けた。そんなことまで、覚えていてくれたのだ。
「でも」
私は小さく笑う。
「今日は、歴史書を読んだほうがいいと言われてしまったわ」
「そうでございますか」
アルベルトは否定もしない。肯定もしない。ただ少しだけ目を伏せ、それから静かに口を開いた。
「ですが、お嬢様がお好きなものまで変える必要はございません」
私は息を止めた。
「好きなものは、そのままでよろしいかと」
その一言が、不思議なくらい胸に残った。
私は返事ができなかった。ただ、本の表紙をそっと撫でる。紫陽花に似た花が、小さく揺れて見えた。
その夜、私は眠れなかった。寝台に横になっても、胸がざわつく。死んだはずの痛みはもうない。けれど、雨音の記憶だけが耳の奥に残っていた。
私は起き上がり、机の引き出しを開けた。中には、祖父母へ宛てた手紙の束が入っている。幼い頃から、私はよく手紙を書いた。七歳まで過ごした祖父母の家を離れてからも、季節の変わり目には必ず。
私は一通目を開く。
『お祖父様、お祖母様。王都の生活にも少し慣れてきました。今日はディートリヒ様にお会いしました』
次の手紙。
『ディートリヒ様はとても博識でいらっしゃいます。私ももっと勉強しなければと思いました』
次。
『ディートリヒ様に、姿勢が美しくなったと言っていただきました』
次。
『ディートリヒ様にふさわしい婚約者になれるよう、舞踏の練習を増やしました』
次。
『ディートリヒ様は、私がもう少し落ち着いた色のドレスを着た方がいいとおっしゃいました』
紙をめくる音だけが、部屋に響く。
ディートリヒ様。
ディートリヒ様。
ディートリヒ様。
どの手紙にも、その名前があった。
私は、いつから自分のことを書かなくなったのだろう。
何を食べて美味しかったか。庭の紫陽花がいつ咲いたか。雨上がりに虹を見たこと。アルベルトが熱を出した日に、こっそり厨房へ行って祖母のミルクティーを真似しようとして失敗したこと。
そんなことは、ほとんど書かれていなかった。
私は紙の端を握った。指先が震える。
最後の手紙を開く。
それは、死ぬ前の私が書いたものだった。
『お祖母様。近頃、ミルクティーの味を思い出せません』
その一文だけで、息が詰まった。
思い出せなかった。
あんなに好きだったのに。
雨の日。祖母が淹れてくれた味。砂糖を入れすぎると祖父に笑われたこと。
「急ぐと苦くなるの」
柔らかく笑う祖母の声。
全部、遠くなっていた。
私は手紙を胸に抱いた。
「私……」
声が震える。
「どこにもいなかった」
私の人生だったはずなのに。
私はずっと、誰かになろうとしていた。
ディートリヒ様の婚約者。侯爵家の娘。未来の公爵夫人。そういう名前ばかり増えて、イルザはどこにもいなかった。
木に登って。枝にスカートを引っかけて。川で転んで、泥だらけになって。祖父に笑われ、祖母に叱られて。それでも毎日、胸いっぱいに息をしていた私は。
いつから、こんなに小さく座るようになったのだろう。
涙が落ちる。紙に小さな染みを作った。
「おのれ……」
ぽつりと、昔の癖が出た。泣いているのに、なぜか少しだけ笑ってしまう。
「おのれ、私……」
情けない。
悔しい。
でも。
まだ生きている。
――転んだら立て。
祖父の声が、胸の奥で聞こえた気がした。
私はそっと涙を拭う。
もう一度、自分の足で立ち上がろう。
そう思えたのは、きっとあの日以来、初めてだった。
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけると励みになります。




