過去編 あの日、雪の日に恋をした③(アルベルト視点)
世界が、もう一度動き始めた。
婚約が解消された日、屋敷には慌ただしい空気が流れていた。私は執事として命じられた仕事をこなしながら、ただ一つだけ願っていた。
イルザ様が、どうかご自分らしく笑えますように、と。
その願いは、思っていたより早く叶えられた。
「アルベルト!」
書庫から弾んだ声が聞こえる。振り向くと、旅の本を抱えたイルザ様が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「見て。この国、とても綺麗なの」
目を輝かせながら、ページを開く。
「湖が青くてね。春になると花が一面に咲くんですって」
「きっと、お嬢様がお好きな景色でしょう」
「ええ。いつか見に行きたいわ」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
戻ってきた。
旅の本が。
夢を語るイルザ様が。
初夏になると、庭の紫陽花が咲いた。
「今年も綺麗ね」
イルザ様は花の前で足を止め、そっと香りを確かめる。あの日まで見られなかった仕草だった。
「やっぱり紫陽花は好き」
その一言が嬉しかった。私は少し離れた場所から、静かに微笑む。
この笑顔を守りたかった。
昔も。
今も。
その気持ちは変わらない。
午後のティータイムには、マルタ様から教わった通り、ミルクティーを淹れた。牛乳をゆっくり温め、生姜をひとかけ。砕いたカルダモンとクローブで香りを添え、最後にほんの少しだけ蜂蜜を溶かし入れる。
「今日は少し甘め?」
イルザ様が嬉しそうに尋ねる。
「はい。お嬢様がお好きですから」
その言葉に、イルザ様は柔らかく笑った。
「ふふ。よく覚えているわね」
私は心の中だけで答える。
覚えています。
雪の日から、ずっと。
あなたが好きだと言ったものを。
あなたが笑った理由を。
私は一つも忘れたことがありません。
◇
休暇をいただき、私は久しぶりに、マルタ様とオットー様――イルザ様の祖父母が暮らす家を訪れた。
扉を開ける前から、懐かしい香りがする。すると勢いよく飛び出してきた白い影が、私へ飛びついた。
「ブラン」
白い大型犬は嬉しそうに尻尾を振り、私の頬を舐める。
「相変わらず元気ですね」
「アルベルトさん!」
マルタ様が笑顔で迎えてくれた。
「ようこそ。待っていましたよ」
その一言だけで、肩の力が抜ける。
暖炉の前では、オットー様が笑っていた。
「早く座れ。ミルクティーが冷めるぞ」
湯気の立つカップから、懐かしい甘い香りが漂ってくる。
「イルザちゃん、元気になったそうだね」
「はい」
私が頷くと、二人は嬉しそうに笑った。
「それで?」
オットー様が腕を組む。
「まだ執事でいるつもりか」
「私は執事です」
「そういう意味じゃない」
オットー様は苦笑しながら首を振った。代わりに、マルタ様が静かに口を開く。
「アルベルトさん」
「はい」
「恋は、恩返しじゃないのよ」
私は言葉を失った。
「あなたは、ずっと自分をごまかしてきたでしょう」
「私は……」
「命を助けてもらった恩なら、もう十分返したわ」
「まだ返せておりません」
「いいえ」
マルタ様は優しく微笑む。
「あなたが返したかったのは、恩じゃないでしょう?」
胸が熱くなる。
「あなたは、恩を返したかったんじゃない」
言葉が出なかった。
「ただ、大切な人に笑っていてほしかった。それだけでしょう?」
その一言が、胸の奥へまっすぐ届いた。
◇
帰り道、私は父と母が眠る墓を訪れた。
冬の風が静かに吹き抜ける。墓前へ花を供え、ゆっくりと手を合わせた。
「父上、母上」
目を閉じる。
雪の日から今日までの出来事が、胸の中を静かによみがえっていく。
イルザ様と出会ったこと。
命を救われたこと。
侯爵家へ仕えられるようになったこと。
そして、あの方の笑顔を守りたいと願うようになったこと。
「私は……」
言葉を探す。
その時だった。
幼い頃、暖炉の前で聞いた父の声が胸によみがえった。
――受けた恩は、必ず返しなさい。
何度も聞いた言葉だった。
そして、病に伏せながら父が穏やかに微笑んで告げた、最後の言葉も。
――アルベルト。
――お前も幸せになりなさい。
胸の奥が熱くなる。
私はゆっくりと目を開けた。
そうか。
父が願っていたのは、私が誰かのためだけに生きることではなかった。
誰かを幸せにしたいと願いながら、その隣で私自身も笑っていること。
それが、父の望んでくれた未来だったのだ。
私は小さく微笑んだ。
「父上、母上。もう少しだけ、お見守りください」
私は、幸せになります。
あの人と、一緒に。
風がそっと木々を揺らす。まるで、二人が静かに頷いてくれたような気がした。
◇
屋敷へ戻ると、部屋の壁に掛けられた執事服が目に入った。
私は静かに上着を手に取る。何度袖を通しただろう。何度、この服に助けられただろう。
「この服は……私の誇りです」
主人を敬い、支え、守る。そのすべてを、この服は教えてくれた。
この服があったから、私はイルザ様のお側にいられた。笑顔も、涙も、すべて見守ることができた。その時間は、私の宝物だ。
だからこそ分かる。
この服だけでは。
執事という立場だけでは。
あなたの隣へは行けない。
夕暮れ。
談話室から甘い香りが漂ってきた。扉を開けると、イルザ様がティーポットを前に立っていた。
「あら、アルベルト」
照れたように笑う。
「今日は私が淹れてみたの」
差し出されたカップを受け取り、一口飲む。少しだけ蜂蜜が多い。けれど、その甘さが懐かしかった。
「いかが?」
期待するような瞳で見上げられる。
私は微笑んだ。
「とても美味しいです」
イルザ様も嬉しそうに笑う。
「よかった」
その笑顔を見つめながら思う。
私はもう、自分の気持ちから逃げない。
執事としてではなく。
一人の男として。
あなたの隣へ歩いていきたい。
◇
雨上がりの庭。
紫陽花が夕暮れの光を受け、雫をきらりと輝かせていた。
「アルベルト?」
イルザ様が振り返る。
私は静かに歩き出した。
もう、この想いを恩返しとは呼ばない。
執事として守るだけではなく。
一人の男として、その笑顔を守りたい。
その願いから、もう逃げない。
雪の日。
あなたは、凍えた私へ温かなミルクティーをくださいました。
あの日いただいた温もりは、長い年月をかけて、私の帰る場所になりました。
だから今度は。
私が、あなたの帰る場所になりたい。
帰る場所まで、あと一歩。
私は微笑み、あなたのもとへ歩き出した。
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