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婚約者を庇って死んだ私が、二度目の人生で恋をした相手は執事でした  作者: 黒猫と珈琲


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10/14

過去編 あの日、雪の日に恋をした③(アルベルト視点)

 世界が、もう一度動き始めた。


 婚約が解消された日、屋敷には慌ただしい空気が流れていた。私は執事として命じられた仕事をこなしながら、ただ一つだけ願っていた。


 イルザ様が、どうかご自分らしく笑えますように、と。


 その願いは、思っていたより早く叶えられた。


「アルベルト!」


 書庫から弾んだ声が聞こえる。振り向くと、旅の本を抱えたイルザ様が嬉しそうに駆け寄ってきた。


「見て。この国、とても綺麗なの」


 目を輝かせながら、ページを開く。


「湖が青くてね。春になると花が一面に咲くんですって」

「きっと、お嬢様がお好きな景色でしょう」

「ええ。いつか見に行きたいわ」


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 戻ってきた。


 旅の本が。


 夢を語るイルザ様が。


 初夏になると、庭の紫陽花が咲いた。


「今年も綺麗ね」


 イルザ様は花の前で足を止め、そっと香りを確かめる。あの日まで見られなかった仕草だった。


「やっぱり紫陽花は好き」


 その一言が嬉しかった。私は少し離れた場所から、静かに微笑む。


 この笑顔を守りたかった。


 昔も。


 今も。


 その気持ちは変わらない。


 午後のティータイムには、マルタ様から教わった通り、ミルクティーを淹れた。牛乳をゆっくり温め、生姜をひとかけ。砕いたカルダモンとクローブで香りを添え、最後にほんの少しだけ蜂蜜を溶かし入れる。


「今日は少し甘め?」


 イルザ様が嬉しそうに尋ねる。


「はい。お嬢様がお好きですから」


 その言葉に、イルザ様は柔らかく笑った。


「ふふ。よく覚えているわね」


 私は心の中だけで答える。


 覚えています。


 雪の日から、ずっと。


 あなたが好きだと言ったものを。


 あなたが笑った理由を。


 私は一つも忘れたことがありません。



 休暇をいただき、私は久しぶりに、マルタ様とオットー様――イルザ様の祖父母が暮らす家を訪れた。


 扉を開ける前から、懐かしい香りがする。すると勢いよく飛び出してきた白い影が、私へ飛びついた。


「ブラン」


 白い大型犬は嬉しそうに尻尾を振り、私の頬を舐める。


「相変わらず元気ですね」

「アルベルトさん!」


 マルタ様が笑顔で迎えてくれた。


「ようこそ。待っていましたよ」


 その一言だけで、肩の力が抜ける。


 暖炉の前では、オットー様が笑っていた。


「早く座れ。ミルクティーが冷めるぞ」


 湯気の立つカップから、懐かしい甘い香りが漂ってくる。


「イルザちゃん、元気になったそうだね」

「はい」


 私が頷くと、二人は嬉しそうに笑った。


「それで?」


 オットー様が腕を組む。


「まだ執事でいるつもりか」

「私は執事です」

「そういう意味じゃない」


 オットー様は苦笑しながら首を振った。代わりに、マルタ様が静かに口を開く。


「アルベルトさん」

「はい」

「恋は、恩返しじゃないのよ」


 私は言葉を失った。


「あなたは、ずっと自分をごまかしてきたでしょう」

「私は……」

「命を助けてもらった恩なら、もう十分返したわ」

「まだ返せておりません」

「いいえ」


 マルタ様は優しく微笑む。


「あなたが返したかったのは、恩じゃないでしょう?」


 胸が熱くなる。


「あなたは、恩を返したかったんじゃない」


 言葉が出なかった。


「ただ、大切な人に笑っていてほしかった。それだけでしょう?」


 その一言が、胸の奥へまっすぐ届いた。



 帰り道、私は父と母が眠る墓を訪れた。


 冬の風が静かに吹き抜ける。墓前へ花を供え、ゆっくりと手を合わせた。


「父上、母上」


 目を閉じる。


 雪の日から今日までの出来事が、胸の中を静かによみがえっていく。


 イルザ様と出会ったこと。


 命を救われたこと。


 侯爵家へ仕えられるようになったこと。


 そして、あの方の笑顔を守りたいと願うようになったこと。


「私は……」


 言葉を探す。


 その時だった。


 幼い頃、暖炉の前で聞いた父の声が胸によみがえった。


 ――受けた恩は、必ず返しなさい。


 何度も聞いた言葉だった。


 そして、病に伏せながら父が穏やかに微笑んで告げた、最後の言葉も。


 ――アルベルト。


 ――お前も幸せになりなさい。


 胸の奥が熱くなる。


 私はゆっくりと目を開けた。


 そうか。


 父が願っていたのは、私が誰かのためだけに生きることではなかった。


 誰かを幸せにしたいと願いながら、その隣で私自身も笑っていること。


 それが、父の望んでくれた未来だったのだ。


 私は小さく微笑んだ。


「父上、母上。もう少しだけ、お見守りください」


 私は、幸せになります。


 あの人と、一緒に。


 風がそっと木々を揺らす。まるで、二人が静かに頷いてくれたような気がした。



 屋敷へ戻ると、部屋の壁に掛けられた執事服が目に入った。


 私は静かに上着を手に取る。何度袖を通しただろう。何度、この服に助けられただろう。


「この服は……私の誇りです」


 主人を敬い、支え、守る。そのすべてを、この服は教えてくれた。


 この服があったから、私はイルザ様のお側にいられた。笑顔も、涙も、すべて見守ることができた。その時間は、私の宝物だ。


 だからこそ分かる。


 この服だけでは。


 執事という立場だけでは。


 あなたの隣へは行けない。


 夕暮れ。


 談話室から甘い香りが漂ってきた。扉を開けると、イルザ様がティーポットを前に立っていた。


「あら、アルベルト」


 照れたように笑う。


「今日は私が淹れてみたの」


 差し出されたカップを受け取り、一口飲む。少しだけ蜂蜜が多い。けれど、その甘さが懐かしかった。


「いかが?」


 期待するような瞳で見上げられる。


 私は微笑んだ。


「とても美味しいです」


 イルザ様も嬉しそうに笑う。


「よかった」


 その笑顔を見つめながら思う。


 私はもう、自分の気持ちから逃げない。


 執事としてではなく。


 一人の男として。


 あなたの隣へ歩いていきたい。



 雨上がりの庭。


 紫陽花が夕暮れの光を受け、雫をきらりと輝かせていた。


「アルベルト?」


 イルザ様が振り返る。


 私は静かに歩き出した。


 もう、この想いを恩返しとは呼ばない。


 執事として守るだけではなく。


 一人の男として、その笑顔を守りたい。


 その願いから、もう逃げない。


 雪の日。


 あなたは、凍えた私へ温かなミルクティーをくださいました。


 あの日いただいた温もりは、長い年月をかけて、私の帰る場所になりました。


 だから今度は。


 私が、あなたの帰る場所になりたい。


 帰る場所まで、あと一歩。


 私は微笑み、あなたのもとへ歩き出した。





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