番外編 あなたは俺をどうしたいのですか①
その日、アルベルトは朝からどこか落ち着かなかった。
屋敷の玄関には一台の馬車。荷物はすでに積み込まれている。最後にもう一度確認してから、小さく息を吐いた。
「……よし」
珍しく独り言が漏れる。執事として働いていた頃なら考えられないことだった。
「アルベルト?」
振り返ると、イルザが不思議そうな顔で立っていた。
淡いクリーム色の外套に身を包み、首元には白い毛糸のマフラーを巻いている。頬は少し赤く、冬の朝の冷たい空気に肩をすくめていた。
「準備できた?」
「はい」
アルベルトは微笑む。
「行きましょうか」
「本当に教えてくれないの?」
「着いてからのお楽しみです」
イルザは頬を膨らませた。
「ずるい」
「ごめんなさい」
「そうやって謝れば許されると思ってるでしょう?」
「……ばれてしまいましたか」
「もう」
笑いながら、イルザはアルベルトの腕へ自分の腕を絡めた。
「今日は逃がさないんだから」
その一言だけで、アルベルトの鼓動が少し速くなる。
結婚して数か月。それでも、こうして自然に触れられることにはまだ慣れない。
「アルベルト、寒い?」
イルザが覗き込む。
「いえ」
「耳、なんだか赤いけど?」
「……寒さのせいでしょう」
「ふふっ」
楽しそうに笑う。その笑顔を見るだけで、今日この旅を計画してよかったと思えた。
◇
馬車はゆっくりと王都を離れていく。
街並みが少しずつ遠ざかり、代わりに白い景色が広がっていった。昨日から降り続いた雪が、森も丘も静かに染め上げている。
「わぁ、きれい……」
イルザは窓へ身を寄せ、子どものように目を輝かせた。
「アルベルト、見て! 雪がこんなに積もってる! 一面が真っ白!」
窓ガラスへ手を添え、次々と流れていく景色を眺める。
「ふふ、旅の本で見た景色みたい」
その言葉に、アルベルトは小さく笑った。
「ねえ、覚えてる?」
イルザが振り返る。
「昔、雪の国の本を見ながら話したこと」
「もちろん覚えています」
「とっても昔のことなのに、よく覚えてるわね」
「イルザのことなら、忘れませんから」
照れもなく答えられたのは、嘘ではないからだ。
イルザは少し照れたように笑った。
「私ね」
窓の外を見つめながら呟く。
「子どもの頃、本当に行けると思ってたの」
「はい」
「世界には、まだ見たことのない景色がたくさんあるんだって」
少し笑う。
「だからいつか全部見に行こうって」
アルベルトは静かにその横顔を見つめた。
あの日、雪の中で自分を助けてくれた少女。
旅の話をする時だけは、いつも瞳が輝いていた。
婚約していた頃、その旅の本は閉じられ、笑顔も少しずつ消えていった。
だから、この旅だけはどうしても贈りたかった。
◇
昼を過ぎる頃、馬車は深い森へ入った。
木々には雪が積もり、枝先まで真っ白になっている。
静かだった。聞こえるのは馬車の音だけ。
「ねえ」
イルザが窓の外を指差した。
「鹿!」
森の奥を、小さな鹿が駆け抜けていく。
「かわいい……」
目を細めるイルザを見て、アルベルトは思わず笑みを漏らした。
「アルベルト」
「はい」
「笑ったわね」
「え?」
「今、笑ったでしょう?」
「……そうかもしれません」
「最近、笑うことが増えたね」
アルベルトは少し驚いた。自分では気付いていなかった。
「そうでしょうか」
「うん」
イルザは嬉しそうに頷く。
「アルベルトの笑顔、好きよ」
さらりと言う。何の迷いもなく、何の照れもなく。
だから困る。
アルベルトは視線を窓の外へ逃がした。
鼓動が速い。
本当に。
この人は。
どれだけ無自覚なのだろう。
◇
「着きました」
馬車がゆっくり止まる。
扉が開いた瞬間、イルザは息を呑んだ。
「……わあ」
白銀の森。
降り続く雪。
その奥に、暖かな灯りが漏れる小さな宿が建っていた。
まるで絵本の中の景色だった。
暖炉の火が窓から優しく揺れている。
静かで。
温かくて。
雪だけが音もなく降り積もっていた。
「素敵……」
イルザはその場から動けなかった。
アルベルトは静かに微笑む。
「気に入っていただけましたか」
「すごく」
イルザは目を潤ませながら頷いた。
「こんな場所、本当にあるのね」
「覚えていますか?」
アルベルトは宿を見つめながら穏やかに笑う。
「旅の本を抱えて、『いつか行ってみたい』と話してくれたこと」
イルザは目を見開いた。
「十年以上も前のことよ?」
「はい」
少し照れたように笑う。
「ずっと忘れられませんでした」
イルザは何も言えなかった。
そんな昔のことを。自分が何気なく口にした夢を、ずっと大切に覚えていてくれた。
胸がいっぱいになる。
「アルベルト……」
小さく名前を呼ぶ。
するとアルベルトは照れ隠しのように咳払いをした。
「中へ入りましょう」
「……うん」
イルザは笑った。
あの日、旅の本を抱えて夢を語っていた少女のように。
心から嬉しそうな笑顔で。
その笑顔を見て、アルベルトは胸の奥でそっと呟く。
(連れて来られて、本当によかった)
宿の扉が静かに開く。
暖炉の温かな火と木の香りが二人を迎えた。
そしてアルベルトは、まだ知らない。
この旅が、自分の理性を試される旅になることを。
イルザもまた、知らなかった。
この雪の日が。
二人にとって、一生忘れられない思い出になることを。




