番外編 あなたは俺をどうしたいのですか②
宿へ足を踏み入れた瞬間、ふわりと薪の香りが二人を包んだ。暖炉では赤い炎が静かに揺れ、窓の外では雪が降り続いている。
「中はこんなに暖かいのね……」
イルザが思わず頬を緩めると、宿の主人が穏やかに微笑んだ。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。今夜は雪が深くなりますので、どうぞごゆっくりお過ごしください」
部屋へ案内されると、イルザはまた足を止めた。
「わあ……」
一面の大きな窓。その向こうには白銀の森が広がり、昼間だというのに雪明かりで世界が淡く輝いている。暖炉の火が窓へ映り込み、まるで絵画のようだった。
「本当に……旅の本の景色だわ」
窓へ駆け寄るイルザを見て、アルベルトは静かに目を細めた。
その笑顔が見たかった。ただ、それだけだった。
「少し外を歩きませんか?」
荷物を置き終えたアルベルトが尋ねると、イルザは勢いよく振り返った。
「行く!」
返事が早すぎて、二人で笑ってしまう。
外へ出ると、雪はさらに深く積もっていた。歩くたびに、きゅっ、きゅっと小さな音が鳴る。
「楽しい!」
イルザは子どものようにはしゃぎながら歩き出した。
「見て、アルベルト!」
雪を両手ですくい上げる。
「ふわふわ!」
両手から雪がさらさらとこぼれ落ちる。その姿を見ているだけで、アルベルトの胸は温かくなった。
(ああ。この笑顔だ)
婚約していた頃は、見られなくなった笑顔。
(私が守りたかったのは、この笑顔だった)
今はこうして、目の前で無邪気に笑っている。
それだけで十分だった。
「アルベルト!」
「はい」
「こっち!」
イルザが手を振る。雪を踏みしめて近付くと、彼女は枝いっぱいに雪を積もらせた大きな木を見上げていた。
「きれいね」
「ええ」
「音がしない」
イルザは静かな声で続ける。
「世界が雪に包まれると、こんなに静かになるのね」
アルベルトも空を見上げた。
降る雪。白い森。遠くの山。そして、隣で微笑むイルザ。
どんな景色より、美しいと思った。
その時だった。
「きゃっ」
イルザの足が雪へ沈み、身体がぐらりと傾いた。
アルベルトは反射的に腕を伸ばし、細い身体を抱き止める。柔らかな外套越しに、ぬくもりが伝わった。
「大丈夫?」
「う、うん」
吐息が触れそうなほど、顔が近い。イルザは少し頬を染めた。
「ありがとう」
「うん」
アルベルトがすぐに離れようとした時、枝から落ちた雪がイルザのマフラーへぱさりとかかった。
「冷たっ」
イルザは思わずアルベルトへしがみつく。
「アルベルト!」
ぎゅっと腕へ抱きつかれ、アルベルトの思考が止まった。
(ち、近い……)
胸へ伝わる体温。甘い香り。細い肩。
心臓が大きく鳴る。
「ご、ごめん。雪が急に落ちてきたから」
「……大丈夫」
大丈夫ではなかった。鼓動がまったく落ち着かない。
宿へ戻ると、暖炉の火が心地よく二人を迎えてくれた。
「冷えたでしょう。どうぞ、温かいミルクティーです」
宿の女将から差し出されたカップには、甘い香りが立ち上っている。イルザは一口飲み、目を丸くした。
「おいしい」
「生姜が入っております」
「マルタお祖母様と同じね」
嬉しそうに笑うイルザの隣で、アルベルトも口をつけた。優しい甘さだった。
「ねえ」
イルザが小さく笑う。
「帰ったら、また私が淹れるね」
「楽しみにしています」
「今日はなんだか負けた気分です」
「負けた?」
「この宿の方が、少しだけ淹れるのが上手」
アルベルトは笑った。
「では、帰ったら一緒に研究しましょう」
「うん!」
その笑顔に、また胸が温かくなった。
夕食を終え、部屋へ戻る頃には、外はすっかり夜だった。
窓の外では雪が静かに降り続き、暖炉にくべられた新しい薪が、ぱちりと優しい音を立てている。
「ねえ」
イルザが窓辺へ立った。
「少しだけ窓を開けてもいい?」
「冷えますよ」
「ちょっと外を見るだけだから」
窓を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。雪が音もなく舞っている。
「きれい……」
イルザは息を呑んだ。
「昼もきれいだったけど、夜はもっときれい」
その横顔を見つめながら、アルベルトは思う。
この景色を見せたかった。
旅の本で憧れていた雪景色を。誰にも遠慮せず笑える時間を。
「ありがとう」
イルザが小さく言った。
「私、この場所に来られて本当に幸せ」
「そう言ってもらえて嬉しいです」
アルベルトが静かに微笑むと、イルザは振り返った。
「違う」
「え?」
イルザが一歩近付く。
「宿じゃなくて」
そして、まっすぐアルベルトを見つめた。
「あなたと来られたことが嬉しいの」
アルベルトの鼓動が跳ねた。
「アルベルトと一緒だからこそ、この景色がもっときれいに見えるんだと思うの」
無邪気に、まっすぐに、そんなことを言ってしまう。
(本当に、あなたはどこまで無自覚なんですか)
アルベルトは必死に平静を保った。けれど、イルザはまだ近付いてくる。
「なんだか、ちょっと寒くなってきたわね」
そう言って、自然にアルベルトの腕へ寄り添った。肩と肩が触れ、温もりが伝わる。
アルベルトはゆっくり息を吐いた。
理性はまだ保てる。
まだ、大丈夫だ。
けれど彼は知らない。
この夜、あとほんの少しで、その理性がほどけてしまうことを。
そしてイルザもまた、知らなかった。
自分の何気ない一言が、夫を世界で一番困らせることになるのだと。




