番外編 あなたは俺をどうしたいのですか③
夜は静かに更けていった。
窓の外では雪が降り続いている。昼間に見た白銀の森は、月明かりと雪明かりに照らされ、幻想的な青白い世界へ変わっていた。暖炉では薪が静かに爆ぜ、部屋にはその音だけが優しく響いている。
「本当にきれいね……」
イルザは窓辺へ立ったまま小さく呟いた。吐く息がガラスを白く曇らせる。
アルベルトは少し離れた場所から、その後ろ姿を見つめていた。
この景色を見せたかった。
旅の本を抱えながら、『いつか行ってみたい』と笑っていた少女へ。
ようやく約束を一つ返せた気がした。
「アルベルト」
「はい」
「連れてきてくれてありがとう」
振り返ったイルザは、本当に幸せそうに笑っていた。
「この景色も、この宿も、全部嬉しい。でも、一番嬉しいのは」
アルベルトが首を傾げる。
「あなたと来られたこと」
その一言に、胸が大きく鳴った。
何度言われても慣れない。きっと一生、慣れることはないのだろう。
「少し冷えてきましたね」
アルベルトは暖炉へ薪を足した。炎が少し大きくなる。
「ミルクティーでも淹れましょうか」
「うん」
イルザは嬉しそうに頷いた。
宿の主人が貸してくれた小さな鍋へ牛乳を注ぎ、茶葉を入れる。砕いたカルダモン、薄く切った生姜、少しの蜂蜜を加え、ゆっくり、本当にゆっくり火を入れた。
「急ぐと苦くなるの」
イルザが笑う。
「マルタお祖母様の教えね」
「ええ。もう何度も聞きました」
「私も」
二人で顔を見合わせる。
祖母の思い出を一緒に話せることも、今は幸せだった。
ミルクティーを飲みながら、二人は暖炉の前へ並んで座った。
「今日ね」
「はい」
「ずっと夢を見てるみたい」
「夢ではありませんよ。ちゃんと現実です」
「そうよね」
イルザは笑った。
「でも、幸せすぎて……本当に夢みたい」
その言葉が、妙に胸へ響いた。
幸せ。その一言だけで、アルベルトまで幸せになる。
「ねえ」
「はい」
「もう少しこっち」
イルザが隣をぽんぽんと叩く。アルベルトは少しだけ距離を詰めた。
「もっと」
「……これ以上?」
「うん」
もう少し近付くと、肩が触れた。イルザは満足そうに笑う。
「暖かい」
そして何の迷いもなく、アルベルトの肩へ頭を預けた。
柔らかな髪が腕へ触れ、甘い香りがする。
(近い……)
アルベルトは静かに目を閉じた。
(落ち着きなさい。私は夫です。……そうです。夫なのです)
何度言い聞かせても、心臓だけはまったく言うことを聞かなかった。
「アルベルト」
「はい」
「こっち向いて」
言われるまま顔を向けると、頬を少し染めたイルザと目が合った。
「どうしました?」
「……その。今日はね」
「はい」
「ずっと幸せだったから」
イルザは照れ笑いを浮かべる。
「お礼がしたいの」
「その気持ちだけで充分です」
「そう?」
「ええ」
イルザは少し考えてから、小さく首を傾げた。
「じゃあ」
ゆっくり近付く。
「キスして?」
アルベルトの思考が止まった。
「……え」
「駄目?」
「いえ、その……」
声が続かない。イルザは不思議そうに見つめてくる。
「夫婦でしょう?」
「……はい」
「だったら」
さらに少し近付く。
「駄目?」
その距離は、もう吐息が触れそうだった。
(近い。近すぎます)
お願いですから、そんな顔で見ないでください。
イルザは無邪気だった。本当に、無邪気だった。悪気など一つもない。
だからこそ困る。
頬へ手を添えられる。
「アルベルト?」
その瞬間、ぷつりと何かが切れた。
「……イルザ」
いつもより低い声に、イルザが少し目を丸くする。
アルベルトは小さく息を吐いた。
もう隠せない。
理性だけでは追いつかない。
愛しさが、溢れてしまう。
「あなたは」
少しだけ沈黙し、目を閉じる。
そして、静かに額を合わせた。
「……あなたは」
掠れた声で。
一度だけ。
「俺をどうしたいのですか」
部屋が静まり返る。
暖炉だけが、静かに音を立てていた。
イルザは目をぱちぱちさせた。
数秒。本当に数秒だけ動きを止め、それからくすっと笑う。
「今」
「……」
「俺って言った」
アルベルトは固まった。
しまった。
本気でそう思い、思わず額へ手を当てる。
「……忘れてください」
「嫌」
イルザは即答した。
「え?」
「忘れない」
優しく笑い、アルベルトの頬へそっと触れる。
「私は、その“俺”も好き」
アルベルトは完全に降参した。
もう何も言い返せず、ただ苦笑して小さく肩を落とす。
「イルザには敵いませんね」
「うん」
イルザは嬉しそうに笑った。
「昔から」
アルベルトは、そっとイルザを抱き寄せた。
今度は迷わない。
優しく。
壊れ物に触れるように。
唇を重ねる。
長くはない、温かな口づけだった。
唇が離れると、イルザは少し照れたように笑った。
「アルベルト」
「はい」
「幸せ」
アルベルトは目を細める。
もう隠す必要はなかった。
小さく笑って答える。
「……俺も幸せです」
その「俺」は自然だった。
もう照れも、戸惑いもない。
執事ではなく。
一人の夫として。
イルザを抱きしめる。
窓の外では、雪が降り続いていた。
あの日。
雪の日にもらった温もりは。
長い時間をかけて。
ようやく。
帰る場所という形になった。
暖炉の火が静かに揺れる。
部屋には甘いミルクティーの香りと、二人の穏やかな笑い声だけが、いつまでも優しく響いていた。




