番外編 あなたは俺をどうしたいのですか④
翌朝。
窓を開けると、昨夜よりさらに雪が積もっていた。一面の銀世界。木々は白い花を咲かせたように雪をまとい、朝日を浴びてきらきらと輝いている。
「きれい……」
イルザは窓辺に立ち、しばらく見入っていた。昨日も十分美しかったが、朝の雪景色はまるで別世界だった。
「おはようございます」
振り返ると、アルベルトが湯気の立つティーポットを持って立っていた。
「おはよう」
「よく眠れた?」
「ええ。イルザは?」
「ぐっすり」
イルザが笑うと、アルベルトも自然と口元を緩めた。
◇
二人は窓際の席へ並んで座った。
宿の主人が焼いてくれたパン。ふわふわのオムレツ。温かなスープ。そして、湯気の立つミルクティー。
「いただきます」
カップを口元へ運ぶと、優しい甘さが身体へ染み渡った。
「やっぱり雪の日はミルクティーが一番ね」
「そうですね」
「なんだか安心する」
イルザは嬉しそうに笑った。
「初めて出会ったあの日も、雪でしたね」
イルザの手が止まる。
「そうね」
「あなたが見つけてくれました」
「あの頃は、まさか夫婦になるなんて思わなかったわ」
「私もです」
アルベルトは静かに微笑んだ。
「最初は命を助けていただき、恩返しができれば充分だと思っていました」
「でも、恩返しだけじゃなかったね」
「ええ」
少し照れたように笑うアルベルトとともに、イルザは雪景色を眺めながらミルクティーを飲んだ。
静かな時間だった。
ふと、イルザが笑いをこらえるように唇を押さえる。
「どうしたの?」
「ううん」
「……イルザ?」
肩を震わせていたイルザは、とうとう吹き出した。
「ふふっ」
「そんなにおかしいことですか?」
「ごめんなさい。急に昨日のことを思い出しちゃって」
アルベルトの動きがぴたりと止まる。
「昨日……ですか」
「うん」
イルザは悪戯っぽく笑った。
「俺」
アルベルトは静かにカップを置いた。耳が少し赤い。
「……忘れてもらえるものと」
「忘れない。むしろ、ずっと覚えてる」
「困りましたね」
額へ手を当てるアルベルトに、イルザは不思議そうに首を傾げた。
「そんなに恥ずかしい?」
「かなり」
「どうして?」
アルベルトは少し息を吐いた。
どう説明すればいいのだろう。
「昨日、私は何度も心臓が止まりそうになっていました」
「え?」
「雪の中で抱きつかれました」
「寒かったから」
「肩へ寄りかかられました」
「暖かかったから」
「手を繋がれました」
「恋人……じゃなくて、夫婦だもの」
「最後には」
アルベルトは少し視線を逸らした。
「『キスして』と」
イルザの頬がほんのり赤くなる。
「……うん」
アルベルトは少し苦笑した。
「私は、あなたが思っているほど余裕のある人間ではありません」
「そうなの?」
「あなたが笑うだけで嬉しい。名前を呼ばれるだけで嬉しい。手を繋がれるだけで、鼓動が速くなります」
イルザは黙って聞いていた。
「抱きつかれれば、理性を保つのに必死です。だから昨日は、思わず“俺”などと言ってしまいました」
しばらく黙っていたイルザが、やがて小さく笑う。
「嬉しかった」
「……嬉しい?」
「うん。そんなふうに思ってくれてたなんて知らなかった」
「知られないようにしていましたので」
「大成功ね」
「ええ」
二人で笑った。
イルザはカップを置き、そっとアルベルトの手へ自分の手を重ねる。
「でも」
柔らかな声だった。
「もう隠さなくていいよ」
その一言が、胸へ染みた。
執事だった頃は、何も言えなかった。
想いも。嫉妬も。苦しさも。
すべて胸の奥へしまい込んでいた。
けれど今は違う。
もう、夫婦なのだ。
「ねえ」
イルザが少し身を乗り出す。
「お願いがあるの」
「何でしょう」
少し照れながら笑ったイルザを見て、アルベルトは嫌な予感がした。
「もう一回」
「……何を?」
「俺」
やっぱり。
思わず苦笑が漏れる。
「難しいお願いです」
「一回だけ」
「イルザ」
「お願い」
上目遣いで見つめられる。
本当に、この人は自分を困らせる天才だ。
「……分かりました」
アルベルトは立ち上がり、イルザの前へ歩み寄った。
そっと腰をかがめる。
「アルベルト?」
耳元へ顔を寄せると、イルザは少しだけ肩を震わせた。
アルベルトは小さく笑う。
今度は、照れなかった。
静かに。
けれど、はっきりと囁く。
「……あなたは俺の妻ですから」
その瞬間、イルザの顔が一気に真っ赤になった。
「え……」
「そ、それは反則……」
耳まで赤く染めて俯く。
今度はアルベルトが笑う番だった。
「昨日のお返しです」
「そんなのずるい……」
「おや。イルザも、私をずいぶん困らせてくれましたので」
イルザは照れ隠しのように、アルベルトの胸へ額を預けた。
「じゃあ……おあいこ」
「ええ」
アルベルトは優しく、その肩を抱き寄せる。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
あの日。
雪の中で始まった二人の物語。
あの時はまだ、恩返しだと思っていた。
けれど今は違う。
この腕の中にいる人は、守るべき主人ではない。
人生を共に歩む、かけがえのない妻だ。
アルベルトはイルザの髪へ、そっと口づけを落とした。
「帰りましょうか」
「うん」
イルザは微笑んで頷く。
「帰ろう」
雪景色の向こうには宿がある。
そして、その宿を出た先には、二人が帰る屋敷がある。
どこへ旅をしても。
どんな景色を見ても。
最後に帰りたい場所は、もう決まっていた。
それは――
あなたの隣だった。
【完】
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