エレベーターは故障していた【みおちゃん①】
作者: NAO
掲載日:2026/09/11
ジジジ、ミーンミンミン、茹だるように暑い夏の日。斎藤は、いつものように訪問先の団地にやってきた。
「なんだあ、エレベーター故障中かあ」
今日は朝から身体が重かった。
そもそも昨日、仕事が終わったあとから妙に調子が悪い。今日は吉岡さんの訪問で上がりだ。あと少し、そう自分自身を励ましながら、団地の寂れた階段を五階まで登る。
吉岡さんの訪問介護を始めて数カ月経つが、階段なんて今日初めて使用した。階段途中の窓には赤い字で【開けないでください】と、張り紙がされている。
(なんとなく不気味。暗いから余計かな)
マンモス団地のエレベーターが故障中なのに、すれ違う住民はいない。時刻は十六時、買い物帰りの人間が一人くらい居そうなものだけど⋯⋯そんなことを考えながら、三階の踊り場を越える。
(踊り場⋯⋯なんか今はいらないなあ。階段長く感じるだけじゃん)
そんなしょうもないことを考えながら、どんどん階段を登っていく。一段、一段、上の階へ向かうごとに足取りは重くなる。鉛をつけているかのようだ。
「まだかなあ」
じっとりとした汗でユニフォームが貼り付いて気持ちが悪い。今日は暑い夏の日のはずだ。自分の汗が身体を冷やしているのか、なんとなく首の後ろが冷たい。
足の重さに限界を感じながら上をみると、視線の先には五という数字が見える。斎藤はやっとの思いで、最後の階段を登りきった。
吉岡さんちの前に到着すると、一回だけ【ピンポン】とインターフォンを鳴らす。
「吉岡さん、斎藤です。入りますね」
玄関の扉に付けられた暗証番号を、慣れた手つきで操作し開錠する。
吉岡さんは、足の悪い八十八才の女性だ。耳が少しだけ遠く、記憶力の低下がある。職員は事前の取り決めにより、応答がない場合は暗証番号で入室することになっていた。
「吉岡さん、入りますよ〜」
斎藤は、なるべく吉岡さんを驚かさないように玄関から大声を出しながら中へ入る。
(うっ)
相変わらず、吉岡さんのおうちは、少しだけじめっとしている。斎藤は、この空気感が少しだけ苦手だった。相変わらずエアコンの冷房はつけられていない。
真っ暗な玄関を通り抜け、リビングに入る。
ベッドの上で吉岡さんはいつものように寝ていた。
室内は、ラジオが流れている。
(いつもと同じだ)
「吉岡さん、斎藤です。来ましたよ」
いつものように吉岡さんの肩を叩き起こす。
吉岡さんは、気怠そうに白内障混じりの薄い色の瞳を斎藤に向けた。
「あら、みおちゃん。また来たの?」
「みおちゃんじゃないです。斎藤です」
「今日は、お友達いっぱい連れてきたねえ」
(いつものだ)
斎藤はいつものやり取りを気にせず、吉岡さんの電動ベッドを操作し身体を起こしていく。
「暑いですから、水分先にとっちゃいましょ。あとエアコンつけますね」
そう言いながら、慣れた手つきで吉岡さんに水を渡す。
「ありがとうね」
「みおちゃんのお友達、今日は大きい子もいるねえ。そこで遊んでもいいけど、遊んだら帰りなねえ」
「仕事が終わったら帰りますね」
吉岡さんは基本穏やかな人だ。
そして、斎藤のことを『みおちゃん』と呼ぶ。
斎藤の本名は、斎藤なおだ。恐らく記憶違いで、なおとみおを混合して呼んでいるのだろう。毎回、呼び間違えるので最近では斎藤は、訂正もしなくなった。
(大きい子って今日初めてきいたなあ……あっ!だめだ、エアコンつけるの忘れてた)
斎藤は電動ベッドの傍に置かれてあったエアコンのリモコンに手を伸ばし、電源を入れる。
「吉岡さん、今日外は暑いですよ。エアコンつけないと、熱中症になっちゃいます」
「暑いのかねえ?冷房の風は苦手だからねえ」
「まあ、確かにこの部屋すずしいですよね。エアコンつけるの忘れてたくらいです。五階まで階段で来たのに」
「階段で?」
「エレベーターが故障中でした」
「ああ、どおりで」
吉岡さんはそう言うと、ベッドから徐ろに身体を起こした。危ない!そう思いながら斎藤はすかさず、吉岡さんの肩を支える。
「仏壇ですか?」
「そう。行かないと」
「付き添います」
「ありがとう」
吉岡さんの足取りは危なっかしいが、室内では物に掴まりながら歩ける。足の悪い吉岡さんが転ばないように介助しながら、斎藤は仏壇の間に付き添った。畳の間の中央にぽつんと置いてある椅子に吉岡さんを座らせる。
「吉岡さん、一人でここまで歩いてきてます?」
「いや、危ないから這ってくるようにしてるよ」
仏壇は吉岡さんが、いつもきれいに掃除をしているようだった。埃もかぶっていない、足の悪い吉岡さんが毎日掃除を……?それが職場での七不思議であった。
「いつもきれいにしてますね」
「きれいにしないと、かわいそうだからねえ」
「危ないと思ったら、無理しないでくださいね」
「きれいにしない方があぶないからねえ」
吉岡さんはいつも、訪問時間中の五分間だけここに座る。その間、斎藤は配食弁当を温めに台所に行こうとするが、いつも吉岡さんに止められる。
「吉岡さん、お弁当温めに行っちゃだめですか?」
「まあ、少しだけいなさい」
(⋯⋯またか)
ちなみに職員の中で仏壇の間に五分拘束されるのは、斎藤だけらしい。
斎藤は、仏壇の間にいると初めはいつも居心地が悪くて落ち着かない。途中で、だんだん慣れては来るのだが、今日も同じだった。
「みおちゃん、階段疲れたあ?」
「はい、もちろん疲れましたよ。踊り場なんかいらないって気分になりました」
「窓はあいてなかったあ?」
「開いてなかったですよ。途中、張り紙もされてましたし」
「重いねえ重いねえ足がねえ」
「そりゃ、五階まで昇ったんですから」
「うんうん、みおちゃん。もう、いいよねえ、みんな帰ろうねえ」
「ええ、もういいです。行きましょう。食事が終わったら帰りますからね」
(⋯⋯そろそろ五分たったかなあ。早く仕事終わらせないと時間過ぎちゃうんだけど)
斎藤は、まだ仏壇の前から動こうとしない吉岡さんを眺めた。まだ、吉岡さんは仏壇から視線を外さない。なんとなく吉岡さんの視線につられて、斎藤も仏壇を眺めた。しかし、相変わらず何も飾られていない。
そう、遺影すらない仏壇は誰のものか分からないのだ。
吉岡さんには、ご結婚された経歴もない。だから、恐らくご両親や、ご先祖様なのだろう。職員間では、そう共有されていた。
「吉岡さん、そろそろお食事の準備をしましょう」
斎藤は痺れをきらして、吉岡さんに声をかけ立ち上がろうとした瞬間足がよろめいた。間一髪、体勢を立て直す。
「わー私が転びそうになっちゃいました」
「あぶないねえ、だめだよ」
そう言うと吉岡さんは、もう一度仏壇を見た。
「みおちゃんは帰るんだよ」
「吉岡さん、私ご飯の準備しないと帰れませんから」
「そうだねえ、行こうか」
「はい、行きましょう」
(⋯⋯やっと終わったか)
そして、斎藤は吉岡さんをダイニングテーブルの椅子に座らせ宅配弁当を温めた。
「ありがとねえ」
そう吉岡さんは、お礼を言うとゆっくり食べ始める。その間、斎藤はベッド周りを整え、ストロー付きペットボトルの水を交換する。
吉岡さんのお宅は、吉岡さんの人柄のせいか居心地が良い。いつも、介護の仕事の終盤には帰りたくない気分になる。
ベッド周囲を整えていると、ラジオが雑音交じりに聞こえてくる。
(ほんと電波悪いなあ)
斎藤はダイニングテーブルで食事をとる吉岡さんに大きな声で話しかけた。
「吉岡さーん、また、ラジオ雑音入ってますよ」
「大丈夫。みおちゃんが帰ったらなおるから」
「もう、また、私のせいですかー」
斎藤は吉岡さんがいつも言う冗談に応じて笑った。
吉岡さんの食事が終わったあと、歯磨きを手伝いベッドへ寝かせる。
「吉岡さん、では私は帰りますね」
「おばあちゃんは大丈夫だから、もう来なくていいからねえ」
「明日は別の職員が来ますけど。あさっては、私が来ますよ」
「誰も来なくても大丈夫だよ」
「また、そんなこと言って。じゃあ、戸締まりして退室しますね。失礼致しました」
「気をつけて、斎藤さん」
「あっ、名札読みましたね?みおちゃんでいいですよ」
「たくさん、お話したから疲れたよ」
「ゆっくり休んでください」
そう笑って斎藤は、吉岡さんの家を後にした。
完




