おかあさんからの電話は、いつも唐突だ
作者: NAO
掲載日:2026/07/25
お母さんからの電話は、いつも唐突だ。
スマホの画面に表示された『お母さん』の文字を眺めながら、私は濡れた髪をタオルで拭った。
「なおこ、就職きまったんだって?おめでとう」
「あ、うん。そうそう。今度は働きやすい職場だといいなあー」
「なおこは、お母さんの話を聞かないから」
東京に出てきて三年――築三十年は越えているだろう、塗装の剥げかけた水色の外装の土手沿いのアパート。その二階にある1LDKが、私の新しい城だ。
前の職場を人間関係で辞め、ようやく掴んだ再スタートに、私は少しだけ浮き足立っていた。母と他愛のない会話を続けていると、母は突拍子なく話を切り替えてきた。
「なおこ、お部屋の音が騒がしいわね」
「あっ、ごめん。うるさかった?テレビつけちゃってた。むかし、夜遅くまで見てたら怒られてたよね」
「なおこは、お母さんの話をきかないから」
そういえば、お母さんは、テレビを見ることを好ましく思わない人だった。慌てて、私はテレビを消した。
「あれ?なおこ、友達きてる?呼ばれてるみたいよ」
受話器の向こうの、のんびりとした母の声、その突拍子のないひと言に、私の背中がざわりとした。
「気のせいじゃないの」
「もう、隠さなくたって。彼氏でもできたの?お母さんにも紹介しなさい」
「彼氏なんか、いないし。誰もきてないよ?この間まで、病んでたんだからね?」
「なおこは、お母さんの話をきかないから」
母は、私の軽口に少し電話の向こうで笑っていた。
お母さんの笑い声は、いつも私を安心させる。大好きなお母さんだ。
私は、冷蔵庫からお茶を出し、喉を潤した。
「ねえ、なおこ。物音がしない?」
「ああ、今、冷蔵庫開けたの。お茶飲もうと思ってペットボトルのお茶にしちゃったんだけど……」
「なおこは、お母さんの話をきかないから」
そうだ。お母さんは、いつも少し高めの麦茶パックを使っていた。私が小学生の頃、お風呂上りに優しく頭を拭いてくれ、その後に必ず冷たい麦茶をコップ一杯入れてくれた。
「ねえ、なおこ。もう八時過ぎてない?」
「あっ……でも、今日くらいはいいでしょ?お母さんと電話するのも久しぶりなんだから」
私は、久しぶりに話すお母さんとの電話をまだ切りたくなかった。この間まで、気分がひどく落ち込んでいたせいか、お母さんの声が、いつもより心地よい。私は、お母さんの返事を待たなかった。
「お母さん、話変わるんだけど。このアパート少し古いんだけどさ、土手沿いで静かで気に入ってるんだ。でも、不法投棄防止の祠もあるから。初めて見たら、いろいろと⋯⋯びっくりしちゃうかも」
きっと、お母さんはこの築三十年は越えているアパートを見たら、卒倒してしまうかもしれない。その姿が容易に想像できて、私は笑った。私の実家は、都心部にある高層マンションだった。駅直結型で、周りも富裕層ばかりだ。そんな社会で生き抜いてきたお母さんだから、直接は、言ってこないけど。私の今の状況を、あんまり好ましくは思ってないかもしれない。
そんなことを考えていたら、私は急に不安になった。
胸の奥の燻っていたモヤモヤが、また、蘇ってくる。だめだめだ、ダメだあ――しっかりしないと。また、お母さんに『なおこは、お母さんの話をきかないから』って笑われてしまう。
電話の向こうにいるお母さんのためにも、元気なところを見せないと。
「ねえねえ、お母さん――」
私は、精一杯元気な声を出し、お母さんに話しかけた。
「ねえ、なおこ。やっぱり呼ばれてるわよ」
「お母さん?」
お母さんに怒られるから、テレビも消した。お茶を飲むのもやめた。今、私は、静かにベッドに腰をかけている。そして、いま、この家には風呂上がりの私しかいない。それなのに。
さっきまで心地よかったはずの湯上がりの熱気が、急に湿り気を帯びて肌にまとわりついてくる。
「……お母さん。私、全部消したよ」
お母さんは、電話口の向こうで、私の部屋から何か物音が聞こえないか、耳を澄ませて考え込んでいるようだった。沈黙の時間が流れる。私は、お母さんが口を開くまで黙っていた。何となく気まずくて、両手で膝を抱え込む。なおこは、勝手に口を開くことは許されない。
「ほら」
お母さんがそう言うと、何だかまた不安になった。ねえ、お母さんしゃべっていいー?そう聞こうと思ったけど、すぐには声が出なかった。なおこは、しゃべっちゃだめ。
「なおこ」
お母さんは、電話口で私の様子を察したのか、優しく名前を呼んでくれる。部屋に、夏特有のなんだか生ぬるい空気。そして、どこか、鉄錆のような空気がリビングに満ちていく。
「あっ、ごめんなさい。お母さん……私、窓を開けてたから。うるさかったよね」
お母さんは、駅から聞こえてくる電車の音、道路を走る車の音、全部嫌いだった。お母さん、不快にさせちゃった。せっかく電話してくれたのに……私は、久しぶりに話せたのに。お母さんを不快にさせてしまった事が悲しくなった。
慌てて立ち上がり、窓とカーテンを閉めた。
室内は、なんだか籠ったような空気に包まれている。
「なおこは、言うことをきかない」
「ごめんなさい」
少しだけ、いつもより不快そうなお母さんの声が電話口から聞こえた。私は、慌てて謝った。
うん、今度は、大丈夫なはずだ。
テレビの音も消した。
お茶を飲むのもやめた。
静かにベッドに座った。
窓もしめた。
きちんと全部できた。
お母さんが話し始めるまで、後は待っていればいいはずだ。
うん、と私は小さく頷き姿勢を正して、待った。
「なおこ、うるさい」
え?まだ?何か聞こえてるの。母の耳に、何が聞こえているというのだろう。
私の部屋は、土手沿いにある。窓の外は、夜になると街灯も少なく、ただ黒々とした草むらと川が広がっているだけだ。私は、もう一度窓が閉まっているか、換気扇がついていないか、テレビがついていないか全て確認して、物音をたてずに今度は、床に静かに正座した。
「ねえ、なおこ」
あっ?なんだろ、もしかして電話口に反響する私の息遣いが大きく聞こえてるからかな?いけない、息をひそめないと。なおこは、息をするのもだめなんだった。慌てて、息をとめた。私の鼓動がやけに大きく聞こえてくる。あっ、あっ、やっぱだめ。苦しい無理だよ……お母さん、ごご、ごめんなさい。
「ねえ、なおこ。ほら、呼ばれてるわよ」
えっ…えっえっ…お母さん何言ってるの?もう、消す音なんかないよ。何も聞こえないはずなんだから……。なおこは、静かに待ててるよ、おかあさん。
「なおこ、なおこ、なおこ」
あっ、あっ、あっ、確かに私の名前が呼ばれてる。お母さん、私、呼ばれてたみたい……気が付かなかった。また、怒られちゃうね『なおこは、私の言うことをきかない』って。本当にごめんなさい。でも、でも、全部消したんだよ。
――じゃあ、一体、どこから名前を呼ばれてるの?
「なおこ」
私は、スマホを置いて、1LDKの薄暗いリビングの、カーテンの隙間に目を向けた。違う、私を呼ぶ声は、窓の外から聞こえてるんじゃない。私は、置いたスマホを見た。スマホからは、確かにお母さんの声が聞こえる。その画面をのぞき込むと20:40と表示されているだけだ。
「なおこ」
私は、手にじっとりとした汗をかいていることに気が付いた。喉がカラカラだ、そうだ、お茶を飲もう。机に置いた飲みかけのお茶を持つとコップが滑り、からんとお茶が零れる。お茶が不快に私の手を、ぬるりと濡らした。私は、両手を思わず見る。ぬるぬるとした鉄臭い手が気持ち悪い。
お、お母さんに謝らないと……手が鉄臭くて、ぬるぬるで気持ち悪いの。あっ、そうか。私が失敗ばかりするから、名前を呼ばれてるんだ。あの時も、たくさん音をたてて、ごめんなさい。くるしかったよね。私がちゃんとできなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
嫌な音をたてて、ごめんなさい。
でも、不快になるものは、全部消したはずなのに……。
「なおこ」
「だ、だれ」
「なお こ よんでる」
母が鳴らす音は、どこからか響いていた。
――母からの電話は、いつも唐突だ。
そう、いつも唐突で。
私が家を出てから一度だって、電話なんてかかってきたことはなかった。
完
以前、短編として掲載していた作品を加筆修正し、本短編集へ収録しました。
以前お読みくださった方、ありがとうございました。
短編の時の足跡
68位 [日間] ホラー 〔文芸] - すべて
47位 [日間] ホラー (文芸) - 短編




