33.理由がなくても
監査執行局へ三人が移動してから、一年が過ぎた。
ギルダは十六歳になっていた。その日、彼女は義眼の定期検査のため、久しぶりにカイルの医務室へ向かっていた。
廊下を歩きながら、ふと気づく。
(……あれ)
足が、わずかに緩む。
(……カイルに会うの、久しぶり……かも)
以前は義眼の調整や呼吸器官の検査のため、医務室へ通うことも多かった。だが、ここ最近は状態が安定している。日常生活で不具合が出ることもなく、自然と足を運ぶ機会は減っていた。
(最後に会ったの……いつだっけ)
そう考えた瞬間、不思議な感覚が胸に浮かぶ。
なぜか少しだけ、落ち着かない。
(……?)
任務でもない、ただの検査だ。なのに――。
通り過ぎるガラスの壁に、自分の姿が映った。ギルダは何気なく立ち止まる。そして、少し乱れた前髪を指先で整えた。
(……何してるんだ、私)
自分でも意味が分からず、わずかに眉を寄せる。そのまま医務室の前まで来た時だった。扉の向こうから、明るい笑い声が聞こえた。
「……」
聞き覚えのある声。
カイル。
そして、もう一人。
――レイ。
ギルダの手が、扉へ伸びたまま止まる。ギルダが医務室を訪れる時、カイルはいつも真剣な顔をしていた。義眼の状態を確認し、わずかな数値の変化にも気づき、少しでも異常があればすぐに心配そうな表情を浮かべる。
その度に、ギルダはどう返せばいいのか分からなくなった。心配されることが嫌だったわけではない。ただ、自分でも扱いきれない感情を向けられることに、どうしても慣れなかった。だからいつも、突き放すような態度を取ってしまう。
けれど、今カイルは、扉の向こうで、あんなふうに自然に笑っている。しばらく躊躇していると、不意に扉のロックが解除される。
「……」
ギルダが視線を落とす。
そこにいたのは、人ではなかった。
丸い筐体に小さなアーム。青いセンサーアイを光らせたロボットが、こちらを見上げている。そして、まるで人間の挨拶を真似るように、小さな手を上げた。
『ギルダ・カルスタを視認しました。入室を推奨します』
「あ、ギルダ?」
部屋の奥からカイルが顔を上げ、そのまま笑顔で歩み寄ってくる。
「入って、入って」
レイもギルダに気づき、ひらひらと手を振った。
「ギル、久しぶり。体調はどう?」
「あ……うん。最近は、調子いい」
「ここに来るの久しぶりだもんね」
カイルがそう言った瞬間、足元のロボットが淡々と反応する。
『カルテ記録によれば、ギルダ・カルスタが医務室を訪問したのは、前回の定期検査以来、六十五日ぶりです』
カイルは苦笑しながら、足元のロボットを見下ろした。
「ブルー、そういう情報は言わなくてもいいんだよ」
『訂正します。発言は不要でした』
小さなロボットは素直に答え、ちょこんと頭を下げる。その様子を、ギルダはじっと見つめた。以前、カイルがプログラムをどうするか頭を悩ませていた姿が頭に浮かぶ。
「……完成したんだ」
「うん。先週、ようやく組み上がったばかりなんだ」
カイルは少し嬉しそうに笑い、ブルーの筐体を軽く撫でる。
「まだ試験運用中だけどね。データ整理とか、スケジュール管理とか……色々任せてる」
『現在、当ユニットはマスターの作業効率を約十三パーセント向上させています』
「……そういうところは報告しなくていいんだけどな」
カイルが頭を掻くと、レイがふと目を細めた。
「でもさ、ちょっとカイルに似てるよね」
『外見的類似性は確認できません』
「あはは、そこじゃないってば」
レイが笑う。
「なんていうか。まず理屈で考えるくせに、最後はちゃんと人のこと気にしてるところとか」
カイルは少し困ったように眉を下げる。
「……それ、褒めてるの?」
『評価を受領しました』
ブルーのセンサーアイが嬉しそうに二度、小さく点滅する。そのまま、ころころとレイの車いすまで近づいてきた。
「あ、来た来た」
レイは笑いながらブルーをひょいと抱き上げる。
『現在、抱っこされています』
「うん、抱っこしてる」
レイが頭をそっと撫でると、ブルーは気持ちよさそうに青いセンサーアイをゆっくり明滅させた。
その様子を見つめながら、ギルダはぽかんと立ち尽くしていた。
穏やかな空気だった。肩の力を抜いて笑うレイ。自然に笑い返すカイル。その真ん中で嬉しそうに光るブルー。自分が知っている医務室とは、少し違う景色だった。
(……なんだろう)
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
理由は分からない。ただ、この空気の中に、自分はうまく馴染めない気がした。
その時、カイルがギルダへ向き直る。
「今、レイの検査結果が出るのを待ってるところなんだ。もう少しで終わるから、座ってよ」
「あ……」
ギルダは小さく視線を逸らした。
「いや……大丈夫。その辺、歩いて時間潰してくるから」
「え?」
カイルがきょとんと目を瞬かせる。
「なんで? すぐ終わるよ」
引き止めようと一歩踏み出す。
けれどギルダは、もう扉へ向かっていた。
「……じゃあ、また」
短くそれだけ言い残し、医務室を出ていく。扉が静かに閉まった。
「……なんか、変だった?」
カイルが小さく首を傾げる。レイは閉まった扉を見つめたまま、小さく笑う。
「ギルの"波"、ちょっと揺れてた」
レイには、Secondの微細な感情や精神状態の揺らぎが"波"のように感じ取れる。そして、何気ない調子で続けた。
「……カイルって、まだギルに自分の気持ち、伝えてないの?」
「……………………え?」
間の抜けた声が漏れる。
数秒、完全に思考が止まった。
そして糸が切れたように、すとん、と椅子へ腰を下ろす。
「…………」
「…………」
「うーん……」
額を押さえたまま、力なく笑う。
「レイには、隠し事ができないなあ……」
「カイルは、結構わかりやすいよ」
レイはくすりと笑うと、膝の上のブルーへ視線を落とした。
「それに、この子の目」
ブルーの青いセンサーアイが、ぱちりと瞬く。
「ギルの左目と、同じ色でしょ?」
「わー!」
カイルは勢いよく立ち上がり、両手で顔を覆った。
「そ、それは違う! その……部品の在庫とか、色々理由があって……!」
『マスター。心拍数が上昇しています』
「ブルー! 言わなくていいから!」
顔を真っ赤にしたまま、カイルは観念したように椅子へ座り直す。
レイは小さく笑った。
「ギルは、ちゃんと言葉にしないと伝わらないと思うよ」
「……それは分かってるんだけど」
その一言をきっかけに、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「もし伝え方を間違えたら、ケガをしても、具合が悪くなっても、医務室に来なくなりそうで。そうなったら医工師として困るし……いや、それだけじゃなくて。ようやく体調も安定してきたところだから、今の関係まで壊したくないっていうかさ……」
レイは少しだけ目を細める。
「……今のままじゃなくなるのが、怖いんだ?」
「……うん」
「その気持ち、分かるな。わたしも、同じだから」
「え……そうなの?」
思わずカイルは顔を上げる。
誰のことだろう――。
そんな考えが頭をよぎり、反射的にレイの"波"を読もうと意識を向ける。けれど、レイは何も悟らせないように、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「思考を読んでもダメ。カイルには教えない」
「ずるいよ、レイ……」
レイはブルーの頭をそっと撫でながら、小さく肩をすくめた。
「お互い、面倒な人を好きになっちゃったね」
そのとき、ブルーのセンサーアイが一度だけ明るく点滅した。
『レイ・ルノーのサイバーニューロン同期解析、完了しました。最新検査データを表示します』
空気を読まない機械的な声が、静かな余韻を切り裂く。
「……あ、うん。ありがとうブルー」
カイルは立ち上がり、自然と“医工師の顔”へ戻っていく。モニターの前へ歩み寄り、表示された数値へ目を走らせる。
同期率。
神経伝達速度。
義体側の応答遅延。
視線が、いくつかの項目で止まった。
ごくわずかに、眉が寄る。
もう一度、別角度のログを呼び出し、過去の検査結果と重ね合わせる。
「……」
沈黙はほんの数秒だった。
カイルは何事もなかったように画面を閉じ、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「うん。検査は終わったよ」
「よかった」
「今日はもう帰ってゆっくり休んで。検査結果は、後でヘッセン大佐を通して伝えるから」
「ありがとう」
レイはブルーをそっと床へ下ろし、手を振って医務室を後にした。扉が静かに閉まる。その瞬間、カイルの表情からわずかに緊張が戻った。
再びモニターを開く。先ほどの検査データを表示し、並んだ数値を見つめる。
「……」
机に肘をつき、顎へ手を添える。考えれば考えるほど、いくつもの可能性が浮かんでは消えていく。そんな思考の渦に沈みかけた時だった。
控えめなノックの音が響く。
『ギルダ・カルスタの来室を確認しました』
ブルーの声に、カイルははっと顔を上げた。
「えーっと……」
ギルダが少しだけ顔を覗かせる。
「もう、大丈夫?」
「あ、うん! 待たせてごめんね」
慌ててモニターを閉じるカイル。ギルダはその様子を少し不思議そうに見たが、何も言わず検査用のベッドへ向かう。
横になる。
いつもの定期検査。
いつもの距離。
……なのに、今日は妙に落ち着かなかった。カイルは検査端末を準備しながら、何度か言葉を探す。
「……ギルダ」
「何?」
名前を呼ばれ、ギルダが視線だけを向ける。
カイルは少し迷った。
医工師としてではなく。
ただの自分として。
「……別にさ、体調が悪いとか、怪我をしたとか……そういう理由がなくても……僕のところに来てよ」
ギルダが目を丸くする。
「……なんで?」
「いや、その……」
カイルは少し困ったように笑う。
「顔を見せに来てくれるだけでも、僕は嬉しいから」
ギルダの義眼の奥の光が、ほんの少しだけ揺れた。
「うん……」
小さな返事。
けれど、その声にはいつものような戸惑いはなかった。ギルダは、ほんの少しだけ笑った。それだけで、カイルには十分だった。




