31.閉幕と始動
「――撃つな!」
鋭い制止の声が飛ぶ。
マルヴェルへ銃口を向けたギルダを、オーウェンが止めた。
額をガラスのコップで殴られた衝撃でよろめきながらも、彼は一歩も退かない。頬を伝う血を手の甲で静かに拭う。
その姿を見たマルヴェルが、鼻で笑った。視線は銃口ではなく、ギルダへ向いている。反射的に抜かれた拳銃。迷いのない構え。その一連の動きを見届けると、マルヴェルは愉快そうに目を細めた。
「……なるほどな。連邦軍は、こんなガキまで“戦力”にしてんのかよ。あんたら本気で気持ち悪いな」
吐き捨てるような声。
一歩、前に出る。
「さあ、お嬢さん――その銃、こっちに寄こしな」
ギルダの指が、わずかに引き金にかかる。
一瞬だけ、視線をオーウェンに向ける。
オーウェンは、静かに頷いた。
――渡せ、という合図だった。
ギルダはゆっくりと銃口を下げ、拳銃を差し出す。マルヴェルは乱暴にひったくると、そのままオーウェンへ向けた。
「動くなよ。妙な真似をしたら、その頭を吹き飛ばす」
銃口が、オーウェンの額を捉える。口元を吊り上げたまま、親指で背後を示した。
「外にも武装した連中を待機させてある。俺が一声かければ、ここはあっという間に戦場だ」
ギルダは表情ひとつ変えなかった。
頭の中では、すでに複数の制圧手順が組み上がっている。
――頸部を切断。あるいは踏み込みながら拳銃を奪取。
腰にはナイフがある。
拳銃を奪われても、この距離なら十分に間に合う。
殺した方が、速い。
それが、最も被害の少ない答えだった。
だが。
オーウェンは額から血を流しながらも、静かに微笑んでいた。その穏やかな表情を見た瞬間、ギルダは自分の衝動を止めた。
優位を確信したマルヴェルが、銃口を押しつけながら、勝ち誇ったように唇を歪めた。
「帰りたくなったらどうぞ、ご自由に。ただまあ……今後は、我々を少し見逃してくださるくらいの"お心遣い"は、いただきたいものですな」
遠回しな脅しだった。
この場を見逃せ――そう言いたいのだろう。
「……はは」
オーウェンは小さく笑う。
「おめでたい方ですね」
マルヴェルの眉がぴくりと跳ねる。
「……なんだと?」
「もう決着はついています。それに、まだお気づきでないようですので」
勝ち誇るでも、挑発するでもない。ただ、変えようのない事実を口にしただけだった。マルヴェルは怪訝そうに眉をひそめ、インプラント通信を繋ぐ。
「……おい」
応答はない。
「聞こえてるんだろ! 返事をしろ!」
怒声だけが室内に響く。
しかし返ってくるのは、沈黙だけだった。
その時、不意に通信へ別の声が割り込む。
<あ――オーウェン大佐! こちら制圧完了です。ケガ、大丈夫ですか?>
リアの声だった。別室に控えていたリアの背後では、拘束された武装集団が地面へ並ばされ、テオが通信妨害装置の停止操作を行っている。
オーウェンは血を拭いながら、穏やかに答えた。
「ええ。心配いりません。ご苦労さまでした」
ちょうどその時、建物の外へ数台の車両が滑り込み、武装した監査執行局員たちが一斉に降車する。オーウェンはマルヴェルを静かに見つめた。
「外の部隊は、すべて私の指揮下です。あなたが席を立った時点で、この建物は包囲を完了し、通信も遮断しました」
マルヴェルの表情から、余裕がゆっくりと消えていく。
「あなたは、『ここで起きたことは残らない』と考えた」
ギルダの義眼に赤いインジケータが静かに灯る。
最初から録画が行われていた。
「残念ですが――今回は、すべて記録されています。あなたの責任として」
その言葉が落ちた瞬間だった。
マルヴェルは半ば自暴自棄になったように、引き金へ指をかける。しかし、その指が動き切るより早く、ギルダは踏み込んでいた。手首を掴み、銃口を天井へ弾き上げる。乾いた銃声が室内に響き渡った。
「なっ――」
マルヴェルの驚愕の声が漏れる。その隙に手首をひねり上げ、拳銃を滑らせるように奪い取る。さらに足を払う。体勢を崩したマルヴェルは受け身も取れず、鈍い音を立てて床へ倒れ込んだ。
ギルダは一歩退きながら奪い返した拳銃を構える。
「動くな」
オーウェンは静かにギルダへ視線を向けた。
「ギルダ君。録画を止めてください」
「……了解」
義眼の赤いインジケータが消える。
室内に、奇妙な沈黙が落ちた。
オーウェンは表情ひとつ変えず、告げた。
「――撃て」
ギルダの腕が滑らかに持ち上がり、銃口がマルヴェルの胸を捉える。
引き金が引かれた。
乾いた破裂音が室内を貫き、マルヴェルの身体が大きく跳ねた。悲鳴にならない息が漏れる。
そして、ギルダはわずかに眉を寄せた。
「……大佐。これ、空砲です」
オーウェンはようやく口元をわずかに緩める。
「ええ。そのくらいで十分でしょう」
ギルダは短く息を吐き、銃を下ろす。
その横でマルヴェルが崩れ落ちる音が響いた。
その時、外で待機していた部隊が一斉に突入した。重い足音とともに数名がマルヴェルを取り囲み、拘束する。マルヴェルは抵抗する気力もなく、ただ呆然とオーウェンを見上げていた。
オーウェンは血の跡を指先で拭いながら、まるで最初から結末が決まっていたかのように静かに言った。
「……では、記録に基づき、後は正式な手続きへ移ります」
ようやく張り詰めていた空気が緩む。
オーウェンは小さく息を吐き、近くのソファへ腰を下ろした。ギルダは無言のまま歩み寄り、オーウェンの前に立つ。そっと前髪を持ち上げ、割れた額の傷口を確認した。
「……それほど、深い傷ではなさそうです」
「頭は血が出やすいだけですよ」
オーウェンは気にした様子もなく微笑む。
ギルダは傷を見つめたまま、小さく口を開いた。
「……大佐が眼鏡を外していた時点で、気づくべきでした」
「あはは。それに気づかれてしまったら、僕の演出が決まりませんよ」
ギルダは無言でハンカチを差し出す。オーウェンは礼を言って受け取り、血を拭いながら静かに息をついた。
「……君は最後まで、命令を守ってくれましたね」
その言葉に、ギルダの肩がわずかに動く。
「君が堪えてくれたおかげで、綺麗に終えることができました」
そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「本当に助かりました。ありがとう」
***
監査執行局・局長室。
頭に包帯を巻いたオーウェンがソファに腰を下ろし、ギルダ、テオ、リアが整列して立っていた。ベルトーネが腕を組み、静かに報告を促す。
「マルヴェルについてですが、違法流通そのものに関しては、現時点で決定的な証拠は確保できていません」
オーウェンはホログラムの資料を展開しながら続ける。
「しかし、現場において公務執行妨害、軍関係者への傷害行為、及び威迫による職務妨害を確認。現行犯として拘束し、事務所内の端末および関連データを押収。現在は隔離収容下に置き、取締部へ送致済みです」
ベルトーネは満足そうに頷いた。
「……よし」
短い言葉の後、三人へ視線を向ける。
「三人とも、よくやった」
ギルダ、テオ、リアは揃って敬礼する。
だが――
ギルダだけは、どこか納得しきれない表情を浮かべていた。その小さな変化を、ベルトーネは見逃さなかった。
「カルスタ。何か言いたいことがあるなら言え」
ギルダは一瞬ためらい、しかし正面から答えた。
「……大佐に、怪我をさせました」
ベルトーネは一拍置き、ふっと笑った。
「それはオーウェン大佐の作戦のうちだ。殴られることも、その後の展開も全部計算済み。どこまで相手を刺激すれば、どう動くのか――そういう危ない駆け引きに、自分の命まで賭ける男なんだよ」
呆れたように肩をすくめる。
「少し楽しんでいる節があるのも問題だがな。こいつは頭のネジが一本どころか、二本くらい外れてる。お前は悪趣味な“ヘルマン劇場”に巻き込まれただけだ」
ギルダはまだ納得しきれない顔をしている。
その横で、オーウェンが静かに口を開いた。
「言い方はさておき、局長の説明で大体あっています。だから、君が気にする必要はありませんよ」
「……ああいうやり方は、あまり好きではありません」
ギルダはむっとしたように視線をそらす。
「そもそも、あの状況で正面から挑発する必要はありません。コップを振り上げた瞬間に“職務妨害の現行性”は成立していました。私の配置場所さえ調整していれば、大佐の頭に当たる前に制圧できました。そうすれば……負傷する結果にはならなかったはずです」
オーウェンは目を瞬かせ、わずかに驚いた表情を浮かべた。
ギルダは続ける。
「ですので……事前に作戦内容を共有していただきたかったです。大佐の強みは、言葉で相手を制圧する能力だと理解しました」
包帯の巻かれた額へ、一瞬だけ視線を向ける。
「頭部を負傷すれば、その強みが損なわれます」
次の瞬間――
「ははは!」
ベルトーネが腹を抱えて笑い出した。
「お前の負けだな、オーウェン!」
「はい……返す言葉もありません」
オーウェンは苦笑を収め、三人を見渡した。
「ギルダ君、テオ君、リア君。今回は事前に知らせず、申し訳なかった。次回からは、作戦を事前に共有して、君たちの意見も聞きます」
ギルダが小さく目を見開く。
「……次回があるんですか?」
「はい、君たちはもう大丈夫だと判断しました。少しずつ現場に入っていきましょう」
ギルダの瞳がわずかに揺れる。
テオとリアは互いに視線を交わした。
ベルトーネは腕を組み、満足そうに笑う。
長く止まっていた時間が、ようやく静かに動き始めた。




